第5話 妻、開かずの扉と対峙する

 空が透明だな、となんとなく思った。


 私はまだ布団の中にいて、黒目を少し上に向けるだけで窓から差しこむ光を確認することができた。


 

 息子がインフルエンザにかかったため、自動的に私も仕事を四日間休まざるを得なかった。



 なんとなく体が重いし、頭も回らないし、ずっと布団の中で生きていたい気分。

 


 たぶんそんな気分になってしまうのは、今年もあと数週間で終わってしまうからだ。




 新しい年がきたら「イエエエエエエエーーーイ! ハッピーニューイヤー!」とテンションが上がるくせに、年末はしょぼくれたミカンのようにぽそぽそしてしまう。



「ごめん、俺、来週なら休める!」



 と謎の宣言をして仕事に行ってしまったケイさんに「足が臭くなれ」と呪いをかけつつ、私は起き上がって遅い朝ごはんを作る。




 大掃除しないとなぁ、と部屋をぼんやりと眺めてから、げんなりする。



「めんどくさ……」



 そう、私はめんどくさがりな女。

 動き出すのに時間がかかる女。

 

 布団からようやく出たのに、コタツにすべり込むというていたらく。



 嗚呼、ヒマである。

 無意味な時間が流れていき、スマホばかり眺めてなんの生産性のない日々を送る。




「だめ。だめよ。だめ。掃除をするのよ!」



 耳元で働きたがりなもう一人の私が叫んでいる。時給が出ぬのに、何ゆえ掃除をせねばならぬのじゃ……。



「ぬあー!」



 私は叫んで、モフモフのハンディワイパーを握りしめた。そして、テレビ台に向う。




 ぺいぺいぺいぺい。




 テレビとテレビ台のホコリをとってやった。

 すると、どうだろうか。




「えっ、めっちゃきれいじゃない?」



 私の周囲には少女マンガのごとく、キラキラでホワホワの光がぽわわん、ぽわわんとあふれ出していた。



「今、私、何をしたの?」



 トゥンク。

 心がときめいた。



「私に、こんな力があっただなんて——!」



 そう——。

 これは掃除の神より与えられし、清掃の力。



 家にはびこるホコリを、この聖なる羽ハンディワイパーで浄化するの——!




「よっし、コタツに戻ろ」



 ひと芝居終わって、私は満足気だ。


 毎日一箇所だけでも掃除すれば、年末までにほとんどの家の掃除が終わるのではないか。まさに、チリツモである。掃除なだけに。




 掃除した私、エライ!



 こうやって自分を褒めておだてていかないと、私はすぐにぽそぽそのミカンに戻ってしまう。


 少しでも動いた自分を、自分だけでも褒めてあげないと誰が褒めてくれるというのか。





 次の日は、洗濯機を掃除した。えらすぎる。

 その次の日は、玄関を掃除した。えもすぎる。



 そして、最終日。




 私は開かずの扉を前に、立ちすくんでいた。



 普段はケイさんに頼みこんで掃除してもらう場所だ。



 その扉を開ける時、私は恐怖で叫び出したくなる。

 暗くて、じめじめしていて、黒々としている。

 怖くて怖くてたまらない。



 だが、ここは避けて通れぬ場所。





 私は戦闘準備にとりかかる。



 開かずの扉の前で、そっと片膝をついた。

 心臓が暴れ出しそうなのを、深呼吸でなんとかなだめる。


 使い捨ての手袋を右手に装着する。

 そして、扉のすぐ横に袋を置いた。



 大丈夫。大丈夫。

 落ち着いてやれば、きっと上手くいく。



 目を閉じて、深く息を吸い込む。

 扉から不穏な空気が流れ出ているような気がして、弱気になる。



 大丈夫。怖いのは一瞬だから。

 きっと大丈夫。



 大きく息を吐ききって、両目をカッと見開いた。



「今だっ!」



 左手に武器を持ち、右手で扉を開ける。



「たのもー!!」


 バタン、という音と共に扉は跳ね上がった。

 扉の裏は、ピンク色のドロっとしてネバネバしたものがこびりついている。



 そして、その奥に——。



「貞子めー! 覚悟!」



 むんず、と私は渦巻く黒髪を掴むとペイッと用意していた袋に投げ入れた。


 すかさず左手に持っていたカビキラーで貞子なき後の場所に噴射する。




 ふーっと、息をようやく吐いた。

 鼓動はまだ早鐘を打っていた。




「お風呂の排水溝、完了」



 お風呂の排水溝を見るのが憂鬱でたまらない。


 そこにある髪の毛のほとんどが、私の髪なのだが、もはや亡霊のようで恐ろしい。




 毎日とはいわないが、毎週排水溝の髪を回収していれば、貞子にならないのではないかと掃除する度に思うのだが、いかんせん私はめんどくさがりな女。



 だが、今日は一人で排水溝を掃除したのだ。



 めちゃくちゃえらい!



 ご褒美にチョコパイを食べようと、私は自らを甘やかしてみるのであった。

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