第2話 妻、夫を手で転がす(物理)

 空気がビリビリと振動した気がして、私はぱっと目をさました。


 何事か。


 もやっとした夜の中。音が聞こえてくる。

 バイクの走る音のような。

 低くうなる音。


 いつでも獲物の首に嚙みついてやるぞ、と狙いをさだめている獣が部屋にいるようだった。


 ひとつ。息を吸った。

 視界がだんだんと夜になれ始めてきた。

 もうひとつ。息を吸った時、私はようやく首を動かした。


 不穏な音に気がつかずに、すやすやと眠っている息子の向こう側。


 今までで一番大きな音が鳴った。

 私はがまんできずに布団を跳ね上げた。

 サッと息子を飛び越え、音の正体へ突進する。



「ぐがぁ!」


 私は息の根をとめてやった。



 そう、夫のケイさんの鼻をつまんでやったのだ。


「ガッ……」っという音を最後に、再び静かな夜が訪れた。

 私は安心して、鼻をつまんでいた手をそっと離した。


 すうすう、とケイさんの呼吸は穏やかになった。

 私は布団を被りなおし、その日は朝まで目覚めることはなかった。





「いびきがうるさかったよ」 

 朝そう伝えると、意外なことにケイさんはこう言った。


「いびきかいた時は、横向きがいいんだって」


 すごく他人事な言い回しに思わず笑ってしまった。たしかに、自分がどんないびきをかいているかなんて、わからないのだ。「はい、明日からいびきやめます」なんてことは出来ないのだ。


「うるさかったら、横向きにして」

 そう頼まれたので、私は「わかった」と返事をした。



 夜。

 案の定、ケイさんのいびきは破壊的だった。


 その恐ろしく鋭いいびきの音で、ドリルのごとく天井に穴を開けることが可能なのではないか。

 もしかしたら某少年漫画のように、ケイさんは「いびきの呼吸」の使い手なのかもしれない。



「いびきの呼吸 壱ノ型 爆烈鼾!」


 みたいな。もう少し技名は考える必要がありそうだが。


 ──うるさかったら、横向きにして。


 私はのっそり起き上がった。

 仰向けで寝ているケイさんの真横に膝をついた。

 両手を背中に差し入れ、横向きにしようと試みた。

 だが、重い。

 起こしたらその時はその時と覚悟を決め、今度は背中と腰のあたりに手を差し込んだ。


 ゆっくりとした動作で、ケイさんの体は横を向いた。



「グガガガガガガ」


 止まらんではないか! (無念!)


 横向きになろうが、いびきは出る時はでるようだ。

 私はもう一度、なかばやけくそになってケイさんをコロリンと転がしてみた。ケイさんはうつぶせになった。



 静かになった。(なにゆえ……)

 解せないが、いびきが聞こえなくなったので私は布団の中へと戻った。


 静かである。

 息子のすうすういう小さな寝息しか聞こえない。


 不安を覚えた。


 ──SIDS乳幼児突然死症候群



 ふとその言葉がよぎった。

 いやいや、それは乳児。おじさんがうつぶせになったところで、呼吸が止まったりなんて……。


 なんて……。


 もぞっと私は起き上がった。

 息子をまたいで、ケイさんの元へいく。


 暗闇の中、ケイさんが呼吸をしているか確かめる。

 どのへんが顔かわからない。

 ちょっと焦る。

 もしかして、息してないかも?


 嘘ウソウソ、だめだめだめ。


 慌てて背中と腰に手を差し込み、コロリンと転がした。




「グゴゴゴコゴゴ」




 うるせぇ。




 私はあきらめた。

 そして布団の中で、ポチっと耳栓をネットで購入した。



 だが。



 耳栓が届いた頃に、なぜかケイさんのいびきがおさまったのである。




 大変、遺憾である。


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