君の香り きみのかおり

雨世界

1 私には、木の香りをかぐ習慣があった。

 君の香り きみのかおり


 私には、木の香りをかぐ習慣があった。


 立石香の住んでいる家の庭には大きな木が一本立っていた。その木の香りをかぐことが、香の幼いころからの朝の習慣になっていた。(そういうつもりで両親は私の名前を香にしたわけじゃないと思うんだけど、自然とそういう癖が幼いころから私にはあった)

 木の匂いはとても好きだった。なんだかとっても落ち着いたのだ。

 今日の朝も、香はいつものように木のそばに立って、その大きな木の幹にそっと自分の鼻先を当てて、目を閉じて、その木の香りをかぐことに心を集中させていた。

 大きな木からはいつものようにとてもいい香りがした。(心がすごく安心する、まるで陽だまりにような、あたたかくって、とても懐かしい香りだった) 

 そうやってくんくんと木の香りをかいでいると「なにしているの、香ちゃん」と後ろから声をかけられて香はすごく驚いた。

 香が振り返るとそこには隣の家に住んでいる白花優くんが立っていた。

 香に木の香りをかぐ朝の習慣があるように、優くんには散歩をする朝の習慣があった。

 今のように香の実家である立石神社の境内を散歩することもよくあった。(優くんはちゃんと香のお母さんの了解を得ていた)

 でも今のようにいつも香が朝に香をかいでいる木のあるところまで(つまり、神社の本殿ではなくて、その隣にある香の家の立っている場所まで)優くんが散歩にやってくることは今まで一度もないことだった。

 だから香はすごく驚いたし、すごく恥ずかしい思いをした。(本当に油断をしていた。恥ずかしい)

「おはよう、優くん」

 恥ずかしさを笑顔でごまかそうとして、にっこりと笑って香は言った。(でもやっぱり隠しきれていなかった。香の顔は真っ赤な色に染まっていた)

「おはよう、香ちゃん」といつものように優しい顔で笑って優くんはそう言った。

 それから「じゃあ、またあとで」と言って、家の中に帰ろうとした香がうまくごまかせたかな、と思っていると、「香ちゃん。木の匂い好きなの?」と優くんが(よこしまな気持ちのない、とても綺麗で純粋でまっすぐな心で)そう言った。

 その優くんの言葉を聞いて香はなんだか思わず(恥ずかしさのあまり)泣きそうになってしまった。

「優くん。今見たこと。みんなには内緒にしてくれる?」と顔を真っ赤にしながら、今にも泣きだしそうな顔で香は言った。

「うん。もちろんいいけど、どうしてみんなに秘密にするの?」と優くんは言った。

「隠れて木の匂いなんてかいでいるなんて、きっとみんなにばかにされちゃうから」と香は言った。

 すると優くんは「わかった。今見たことは誰にも言わない。約束するよ。香ちゃん」と笑顔で言った。

「本当?」

「うん。本当」と優くんは言ってから、「ねえ、香ちゃん。明日から、僕も香ちゃんと一緒に、木の匂いをかいでもいい?」と香に言った。

 その優くんの言葉を聞いて、「うん。わかった。いいよ。一緒にかごう」と香は言った。

 それから、香は朝の時間に優くんと一緒にくんくんと木の匂いをかいだ。

 一緒に散歩をして、木の匂いをかいで、いろんなお話をして、それはなんだかきらきらと輝いているような、とても素敵な時間だった。

 優くんが亡くなったのは、それからすぐのことだった。

 優くんは子供のころから体が弱くて、お医者さんから『君はきっと大人になれない』と言われていたのだけど、優くんは「僕は絶対に香ちゃんと一緒に大人になってみせるよ」とにっこりと笑ってそう言っていた。

 ……、でも、優くんは死んでしまった。

 最後まで頑張って、生きて、生きて、それから、笑顔で病院のベットの上で息を引き取った。

 香は優くんの最後の日の少し前に優くんのところにお見舞いに行った。

 そこでチューブにつながれている痩せてしまった優くんは「香ちゃんの秘密は誰にも話してないから心配しないでね」と香の耳元で小さな声で香に言った。

 香は、そんなことどうでもいいよ、と思ったのだけど、結局、香は泣いてばかりいて、優くんになにも言うことはできなかった。

 優くんは最後に香に「またね。香ちゃん」と笑顔で手を振ってくれた。

「うん。またね。優くん」と香は涙で滲んだ視界の中で、とても細くなってしまった優くんの手を見ながら、なるべくがんばって笑顔でそう言った。

 優くんが亡くなって、いつも香が香りを嗅いでいた大きな一本の木の横にもう一つの小さな木が植えられた。

 それは優くんのお願いだった。

 その小さな木の香りを大きな木と一緒にかぐことが、それからの香の毎朝の新しい習慣になった。

 その小さな木からは優くんの香りがした。

 ……それは、とても懐かしい優くんの香りだった。

 その香りをかいで、香は静かに一人で泣いた。

 香が優くんにちゃんと、さようなら、優くん、と言えたのは、香が小学校を卒業して、中学、高校にいって、大学にも合格して、優くんの木が、あのころの優くんの背丈と同じくらいに成長した、香がもう木の香りをかいだりしなくなった、きちんと大人になってからのことだった。


 最近、よく君のことを思い出します。どうしてだと思いますか?


 君の香り きみのかおり 終わり

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