こちら日本列島ですが、地中海に転移してヨーロッパの大国になった件について

第1話 水平線の向こう

　朝、岸本アリナはいつもより五分だけ遅く起きた。横浜市南区のマンション、4階の自室。カーテンを開ければ、春の柔らかい陽射しが勉強机の上に落ちる。普段と変わらない、静かな土曜日の始まりだった。

　ベッド脇のスマホを確認する。SNSを開いてスクロールするのが、アリナの朝の日課だ。今日もクラスメイトの投稿、推しアイドルの新情報、流行りのハッシュタグが目に飛び込んでくる。そこに妙なトレンドがあった。

「#地中海ニッポン…？」

　意味がわからない。地中海？ 日本が地中海って何の冗談だろう。海外ネタのミームか新曲のタイトルかと思いつつ、ざっと流し読みする。英語やフランス語、イタリア語らしきツイートも混じっている。

「また変なデマ流れてるんじゃない？」

　アリナは鼻で笑って、制服に着替える。今日は学校は休みだったはず……あ、土曜補習だ。仕方ない、あとでSNSの真偽は確かめればいい。

　リビングへ行くと、母は洗濯物を畳み、父は新聞を広げている。特別な会話もなく、いつも通り。台所でトーストを焼く香りがして、アリナは手早く食パンをかじる。

「そういえば、なんかSNSで日本が地中海にあるって…変な話題になってるよ」

　苦笑混じりに言うと、父は「エイプリルフールはもう過ぎたろ」と新聞から顔を上げる。母は「またバカな噂じゃないの？」とほお杖をつく。アリナもそう思う。

　念のため、テレビをつける。いつも見慣れた情報番組で、MCとコメンテーターが並ぶ。だが、画面には空撮映像らしきものが映し出されていて、出演者の表情が硬い。ヘリコプターからの生中継とテロップが出ているが、その下には不可解な言葉が流れていた。

「こちらは…横浜湾上空からお伝えしています。現在、海上の視界に異常がありまして、どうも、イタリア半島かと思われる陸地が…確認されています」

　アリナは思わず目を疑う。イタリア半島？何を言っているのか理解できない。フロアの上がり框（かまち）に腰掛けていた父もテレビに目を凝らし、母は「あれ、何言ってんの？」と困惑している。

「現在、横浜湾内に異国籍の船が確認されています。どうやらヨーロッパ方面の…」

　アナウンサーの声が震えている。スタジオが一瞬シーンとなり、コメンテーターの一人が「これはドッキリか何かなんでしょうか…？」と困惑顔で呟く。

　地中海トレンドと合致する。心臓が少し早くなる。

　そうだ、もしかしてドキュメンタリー番組か、大がかりなフェイクニュース？ そう思いたいが、画面下には「速報」「緊急」「信じられない事態」といった言葉が並んでいる。

　ベランダに出て港方向を見てみる。いつもより空が眩しい。はるか遠く、目を凝らすと、異様なほど澄んだ青い海が広がっているような気さえする。首をかしげていると、スマホから通知音が鳴った。友達からのLINEだ。「アリナ、テレビ見てる？ なんかマジで日本が地中海に転移したって皆大騒ぎなんだけど！」

　転移。そんな言葉、小説やアニメでしか聞いたことがないのに。

　アリナは唇を噛んで、TV画面へと戻る。コメンテーター陣がパニック状態でヨーロッパ地図を指差している。隣のチャンネルに変えると、そこでも「これが真実なら、ヨーロッパ各国はどう対応を…」とか「EU緊急会合！」と喚いている。

「……マジなの？」

　何気ない日常だったはずが、違和感がじわじわと世界を侵食していく。スマホでは外国語が飛び交い、テレビは見たことのない事態を報じ、窓外の景色までもが不穏な気配を帯びている。ほんの数分前まで、アリナの世界は普通だった。それが今、ゆっくりとありえない方向へ傾き始めた。

　息を詰めていると、母が冷蔵庫を開けて手を止めたまま言う。

「ねえ、これって…本当なのかな。すぐそこが地中海だなんて」

　アリナは答えられない。

　普通の女子高生として生きてきた17年。その中で、地球の常識がこれほど揺らいだことはない。恐る恐るベランダ越しに風を吸い込むと、どこかオリーブのような、塩気を帯びた甘い香りが混じっている気がした。

　まるで、この場所自体が地球上の別の座標へ移ったかのように。

　アリナはまだ、この奇妙な景色が何を意味するのかを知る術を持たない。けれど、窓の外から流れ込む空気は、まるで新しい物語の扉を叩いているようだった。胸の奥で小さく脈打つ期待感――その鼓動に導かれるように、彼女はもう一度、視界の先へと目を凝らす。何が始まるのかはわからない。でも、その「わからなさ」こそが、今のアリナを奇妙に奮い立たせていた。