不純粋培養
鳥尾巻
図書室の香り
中学校の図書室はバニラの匂いがする。古本に囲まれた場所で感じるそれは紙やインクに含まれるバニリンという芳香族化合物と言われている。
僕にそう教えてくれたのは、同じ二年で隣のクラスの
他にも珈琲やアーモンド、干した草の香りと少しの黴臭さ、そういうものが入り混じり、たくさんの色と物語を見せてくれるのだと、彼女は密やかに笑った。
重たげな前髪と顎の下で切り揃えた黒髪がコケシみたいって誰かが言っていたけど、紺色のブレザーから伸びる折れそうに細い首はあの人形には似ていなくて、茎の長い花のようだと僕は思った。
その日、僕は担任の
先生はフリクションのボールペンの尻でこめかみをぽりぽり掻いて、手元に広げた聞き取り用のメモを見下ろした。
「さて、
「はい」
「原因はなんだと思う? 夜はちゃんと寝てる?」
「はい。でもなぜか遅刻するんです。前の日に準備して目覚ましをかけてきちんと起きているのにいつの間にか時間が足りなくなってて……」
「そうね。おうちの方にもお話聞いたけど、別に寝坊してる訳じゃないのよね」
遅刻以外は素行も成績も悪くない僕に先生も困り顔だ。ハの字になった眉毛の間に薄く皺が出来ているのを見ていたら、急に頭の中に畝が連なる広大なニンジン畑が浮かんだ。以前お母さんが家庭菜園で育てていたニンジンは、収穫し損ねた分の茎が長く伸びて白い花が咲いた。小さな花の丸い集まりがまるで生き物のように揺れていたのを覚えている。体を揺らすニンジン達の住処に迷い込んだ僕は、帰り道を探して畝の間を彷徨い歩く。
「塩谷くん? 大丈夫?」
先生の声に、僕はきゅっと目を閉じて、脳内の映像を追い出した。多分これが原因だ。自分の意思とは関係なく、目の前の事象から別のイメージを拾って無限に追いかけてしまう。そうしていると、いつの間にか時間が過ぎてしまうのだ。
だけどこのことをなんて説明したらいいんだろう。二重写しの現実とでも言うのか。でも幻覚を見ている意識はない。目の前で起きていることと脳内の区別はついている。結局いつも上手い言葉が見つからず黙っていると、相手の中で僕の印象は「ボーッとした子」というところに着地する。
「うーん……できるだけ頑張ってもらうしかないわね。今回は一週間、放課後に奉仕活動をしてもらいます」
先生は何かを紙に書き込んでから、いわゆるペナルティというやつを僕に課した。反省文を書いたり、先生の手伝いをしたり、場合によってまちまちだけど、今度は奉仕活動になったようだ。
そして指示されて向かった先は三階にある図書室だった。司書の先生が言うには、図書委員だけでは手が足りないから、本の返却や修復を手伝ってもらいたいのだそうだ。
僕はそこで先に作業をしていた間宮理瑚と顔を合わせることになる。普段は自習や閲覧用に開放されている広い机の上に、たくさんの本が積まれていた。間宮は作業を続けながら僕を見上げ、いったん手を止めて少し首を傾けた。それから向かいにある椅子に座るよう人差し指で促した。細い首が頼りなげに傾く様は、さっき頭に浮かんだニンジンの白い花に似ている。
またそこから何かが浮かびそうになって、僕は少しの間その感覚を遮断して鈍らせることにした。説明を聞かなくてはいけないから、またボーッとしている訳にはいかない。授業の時によく使う手だ。やることがあればそこに没入することは出来る。
「汚れや破損がひどいものは司書さんが補修するから、私たちは仕分けをするの」
「分かった」
地味で単純だけど根気のいる作業だ。僕は頷いて椅子を引いた。床に擦れる音が錆びついたブランコの鎖の軋みに似ている。と思うと同時にゆらり揺れるサーカスの空中ブランコが目の前に浮かび陽気な音楽が脳内に流れ出す。ああ、だめだ。今はだめ。
僕は右手で顔を覆って、きゅっと目を閉じた。彼女は一瞬不思議そうに僕を見て、そのあとゆっくり瞬きした。白目の部分が青く透き通っているように見える大きな目が、密度の濃い睫毛の下に隠れてまた現れる。耳の近くの血管の中を急に勢いよく血が流れ始めた音がした気がしてどぎまぎしてしまう。
「間宮さん、だよね? 間宮さんも強制労働?」
ああ、こういう時もっと気の利いたことを言えないものか。下手な冗談で笑ってくれたらこのなんとなく気まずいような雰囲気も薄れる気がするのに、彼女は無表情に僕を見つめただけだった。
「ううん。私は自主的にお手伝い。本が好きなの」
「へえ」
「この図書室はバニラの香りがするから好き」
「……そうかな」
「そう、甘い香りがするでしょ。バニリンという化合物由来なの」
「甘いっていうより黴臭いよ」
なぜだかムキになって言い返してしまったけど、彼女は気を悪くした風でもなく、小さな声で話し続けた。
「それもあるね。でもほとんど紙とインクに含まれる成分の匂いだよ。珈琲やアーモンド、干した草の香りとか、少しのカビの臭い、そういうものが全部混じって懐かしいような匂いがするとおもうの」
「そうなんだ」
女の子はもっと騒がしくて甲高い声で喋ると思っていたけど、間宮の声はとても静かで密やかだ。なのに、僕の耳にまっすぐに届き、鼓膜を心地よく震わせる。
「文字にはたくさんの色があってね。本は香りと一緒にその物語を見せてくれるの」
「色?」
「たとえば『あ』は熟した林檎の赤、『い』は秋の銀杏と綺麗に晴れた空の色」
何を言っているんだ、と笑い飛ばしたかったけれど、それは僕にも分かる感覚だった。自分の意思とは関係なく、目の前の事象から別のイメージを拾って無限に追いかけてしまう、例のあれだ。でもどうして彼女が僕にそんな話をするのか不思議ではある。
「うふふ。なんでって顔に書いてある」
「え」
僕がびっくりして右手で自分の頬を触ると、間宮はくすぐったそうに左側に首を傾けた。
「だって塩谷くんもそうでしょ? 一年で同じクラスだった時、自分が見えたものの話をしてたよね。でもクラスの子たちがそんなの見えないって言ってから、何も言わなくなった」
「……僕には文字に色は見えないよ。色んなきっかけで急に関係ない音とか味とか匂い、あと映像がリアルに浮かぶだけ。あの時はみんなそうだと思ってたんだ」
「そう」
間宮はいつかのクラスメイトのように僕の心を抉るようなことは何も言わず、ただ白い花のように揺れた。
初日にそんなおかしな会話をしてから、間宮との距離が急速に近づいたかというとそんなこともなくて、放課後の僕らは黙々と作業を続けていた。
間宮の言ったことは思春期にありがちな妄想だ、とは僕には言い切れない。他の子と話す時とは違う感覚が常につきまとう。時々お互い探るような視線を交わして、そのたびに僕は少し苦みのあるお菓子か飲み物を舌の上でゆっくりと転がしているような気持ちになった。おそらくというか、確信に近いが彼女も同じように感じているのがなんとなく分かる。
ゆっくりと本の装丁を確認している間宮をちらちら窺う。彼女は本が好きだと言っていたけど、僕はどちらかと言えばマンガやアニメ、ゲームの方が自分の持つ奇妙な感覚を遮断して没入しやすいと思う。遮断するというよりもその世界に埋没して一体感を得る、に近い。
僕は「図書室だより」を折る作業をしていたが、ざらつく安価なコピー用紙の手触りが指先から砂漠の砂の風景が伝えてきて集中できない。そこで意を決して間宮に話しかけてみた。
「……間宮さんはマンガとかアニメなに見るの?」
「見ないよ。うちはテレビがないの。漫画もネットもゲームも禁止だし、娯楽は本だけ」
「それはしんどい」
「そう?」
「僕なら耐えられない」
「面白いよ」
小さな口が「O」の形で止まって軽やかな口笛の音が聞こえてきそうだ。慣れないうちは無表情に見えたけれど、僕といる時は意外と表情豊かな気がする。そう思いたいだけかもしれないけど。
彼女の言葉を借りるとして、文字に色が見えるのなら、余分な情報が多くて集中できないんじゃないだろうか。
僕の疑問に間宮は真っ直ぐな黒髪をゆるゆると揺らしてわずかに唇を尖らせた。
「そんなことない。文字を追っていると、だんだん感覚が支配されて物語の世界に一体化していくの。夢を見ている時と似てるかもしれない」
「僕はアニメやゲームがそんな感じかも」
僕は指先に触れる紙の表面を眺めた。軽く圧迫して折り目をつける時に微かな音を立てるその毛羽立った繊維の感触は、鳥の鮮やかな緑の羽根と砂漠のオアシスを目の前に連れてくる。
「ウラジミール・ナボコフは『S』は空色と真珠色が混ざった不思議な色って言ってたんだよ。私は薄いピンクとレモン色が混じった可愛い色だとおもう」
「ウラジミ……?」
「『ロリータ』の作者だよ。作中で『ろ・りー・た』って発音する記述があるけど、音や文字に対してすごくこだわりのある人だなって、自伝を読んで納得した」
「読んだことない。ロリータって変態のことだと思ってた」
「違うとは言い切れないけど、それだけじゃないよ」
うふふ、と笑った唇の形がまた口笛の音色を響かせて、僕はこれ以上彼女の存在が内側に入り込んで混じり合わないように、きゅっと目を閉じた。そばにいる他人の存在を無意識に取り込んでしまうのは苦しいことも多い。だからこれは僕なりのOFFスイッチだ。間宮はそんな僕を見ながら、独り言のように呟いた。
「塩谷くんは一人でいるのが上手だね」
「……どういうこと?」
「なんて言うか……、一人でいても一人じゃないように見える。あまり喋らないけど話しかけるときちんと答えるし、誰か特定の人と仲良くする訳じゃないのにみんなに溶け込んでる」
「そうかな」
「私は無理。他人の感覚が自分の中にたくさん流れ込んでくる。だからなるべく静かにしてあまりいろんなものを受け取らないようにしているの。テレビがない生活は私にとってはいいことなのかもね。情報は本だけで充分」
「なるほど……」
何も納得してないし理解も半分だったが、僕はそれっぽく頷いてみせた。それすらもお見通しのような気がするけど、間宮の話は興味深いのでそれはこの際置いておこう。
「塩谷くんのが当てはまるか分からないけど、こういうのは『共感覚』って言うらしいよ。人によって感覚はいろいろだし、科学的根拠も薄いから思い込みだって言う人もいる」
「だけど、これは僕の中にたしかにあるものだよ」
「それを証明する手段は今のところほとんどないの」
母音の形「O」で終わった彼女の唇を僕はぼんやりと眺めた。僕にとって「U」と「O」は彼女の瑞々しい花のような唇の色をしているのかもしれない。そんなことを考えた自分が気持ち悪くなって、喉の奥が甘苦くなった。
「今日で最終日だね。一週間お疲れ様」
自分でペナルティを言い渡しておいて、労ってくれるのがハム子先生だ。華奢な顎を思案気に撫でる仕草が髭剃り後のおじさんみたいだな、と思う。
「間宮さんと二人でよく頑張ってくれたから助かったって司書さんが言ってました。もし塩谷くんがいいならこのまま続行でお願いできないかって言われたんだけど、どうしますか?」
「……やります」
僕は少しだけ迷うふりをして頷いた。作業は退屈だが間宮と話すのは面白い。彼女は僕の知らない色んなことを知っていて、秘密を打ち明けるような声音で教えてくれる。いつの間にか放課後の時間が楽しみになっていた。
「よかった! ありがとう。司書さんに伝えておきますね」
ハム子先生は肩に落ちてきた髪を後ろに払い、ちょこまかとした動きで歩き去った。これからは遅刻しても大目に見てくれるといいな、という目論見が少しはあったりもする。まあ大概その目論見は外れたりするんだけど、いつも通り振舞うだけだ。
放課後、図書室に向かうと、間宮はまだ来ていなかった。司書の先生にお礼を言われてくすぐったい気分ですっかり定位置になった机の前に座る。
バニラとアーモンド、化合物の香り。入荷したばかりの新しい本は理科実験室の匂いがする。真新しいページを試しに開いたら、薄い紙の端が右の中指を掠め、ちくりと痛みを感じた。
「あ」
声を発したのは僕ではなかった。いつのまにか僕の目の前に立っていた間宮だ。まるで自分が痛みを感じたように、眉を顰めて左の指を押さえている。
「大丈夫。これは間宮の痛みじゃないよ」
この一週間でそんなことを言えるようになってしまったくらいには、彼女の感じていることが分かった。どうやら彼女は他人の感覚を鏡写しのように感じるらしい。たしかにこの調子では、他人の感覚を取り込んでそれをどうにかそれに慣れて自分と切り離すには、一人でひっそりとしているか、ある種の訓練が必要だ。無言で絆創膏を差し出され、ありがとうと受け取る。
しばらくそのまま作業をしていたら、いつもは図書室に来ないような男子三人組がやってきて、参考図書を探すのがめんどくさいと騒いでいた。司書の先生に注意されても彼らはお喋りを止めない。大きな声を出している訳ではないが、ここは静かなので音が響く。そのうちエロコンテンツを親にバレないように見るにはどうしたらいいかとか、下世話な話をこそこそと始めて僕はげんなりした。
口と鼻いっぱいに魚の内臓のような生臭さが広がる。そういうことに興味津々な年頃だから仕方がないとは思うけど、ここで話すことじゃない。間宮はさぞかし嫌な顔をしているだろう。
男子がみんなあんなだと思われたら嫌だな、と上目遣いに窺うと、意外にも彼女は微笑んでいた。
「ああいう話嫌じゃない?」
「別に。文豪作品の方がもっとおかしいし。あれくらい可愛いものよ」
「おぅ……」
思わず変な声が漏れた。そうなのか。僕はあまり本を読まないから、国語の教科書に載っているような綺麗な文章を書く人たち、くらいの認識しかなかった。
「言葉が色と一緒に脳の中に直接入ってきて、極彩色の曼荼羅か万華鏡を覗いているみたいね。あと、濃厚な味付けの肉を食べている気分」
「お腹いっぱいになりそう」
濡れた御影石のような黒い瞳を見ていたら、手元が狂いそうになる。我ながら間抜けな答えだなと思うけれど、偉大なる先人たちが描いためくるめく官能の世界に取り込まれたら戻って来られないかもしれないとは言いにくい。間宮も何も知らない顔してなんてこと言うんだ。
なるべく作業に集中しようとしているのに、急に間宮が「ねえ」と声を掛けてきた。
「塩谷くんはレモンとクリームチーズのケーキみたいな感じがするわ」
「え、ど、どういう意味」
「なんだか甘酸っぱそう」
何を言われているのか僕にはさっぱり理解できないが、どこか湿った囁きが耳から入って脳を掻き回した。目を閉じて拒むことも出来ずに、口の中に甘さとスパイシーな香辛料の香りが広がる。ぐるんぐるんと回る思考の中で思いついた言葉がそのまま口から漏れて出た。
「……間宮はチャイみたい」
「うふふ」
口笛に似たUの形はキスをせがんでいるみたいだとふと思い、またそんな自分の思考が気持ち悪くなってしまう。でもあの唇に直接触れたら、なんて想像したら、きっと皮膚や血管を食い破るほどに熱くて苦しいのに全身を溶かす甘い熱に肉体が霧散してしまうかもしれない。彼女と僕の身体は絵具と水みたいに溶け合い、お互いの区別がつかなくなってしまうような気がする。それは恐ろしいけど甘ったるい誘惑だ。僕は自分の口を右手で押さえて、赤くなりそうな、いや、既に赤いであろう頬を隠そうと試みた。
間宮はそんな僕を揶揄うように左手を揃えて唇に当てた。軽く押し当てた指が唇に柔らく沈むところがはっきり見える。周囲の音が遠ざかり、甘苦しい液体が喉を滑り落ちる。目の前にいる幼げな少女と二重写しに妖しい紫の花を咲かせた植物が艶やかな茎を伸ばして僕を取り囲んだ。
「うん、やっぱりあまいね」
無邪気な笑みと小さな小さな彼女の声。彼女はただ口に手を当てて笑っているだけだ。なのに僕は彼女の唇の感触をまざまざと感じることが出来る。たとえいま目を閉じようと耳と脳はそれを拒むことが出来ない。
バニラとアーモンド、珈琲と干した草の香り。揺れる紫の花の茎。そこに加わる香辛料と甘さが、僕の脳を溶かし彼女の一部が流れ込む。僕たちの境目は失われ、僕の一部も彼女のものになったのだと悟った。
◆ ◆ ◆
【参考】
ウラジミール・ナボコフ
「ロリータ」
「記憶よ、語れ」(自伝)
ジョエル・サリナス
「世にも奇妙な脳の知覚世界~多重共感覚研修医の臨床ノート~」
不純粋培養 鳥尾巻 @toriokan
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