第2話
~~ 月夜の土蔵 ~~
「日記?おじいちゃんの日記はもうとっくに処分してしまったのよ。あの人からの遺言でね。処分するようにそう書かれていたのよ」
祖母は砂糖もミルクも入っていない食後のエスプレッソを味わいながら、真希に対してあっさりと平然にこう答えた。
「えっ、そうなの?」
「それに考えてもごらんなさいな。どこの誰が自分の書いた日記を他人に読まれたいと思うのよ?」
「それはそうだけれど・・・」
「私でさえ、あの人が書いた日記を読みたいと思ったこともないんてないもの」
「そうだったんだ。それは残念だなぁ」
真希は落胆してしまった。
何も収穫を得られないことに、つまらない気分になってしまった。
修平の葬式で澄夫から知らされた祖父母の秘密めいた告げ口。
一気に宙ぶらりんになってしまった「初恵ちゃん」とは一体誰だったのだろうか。
「まぁまぁ真希ちゃん、せっかくの里帰りな訳だし、ゆっくり過ごしていけば良いでしょ」
そう多江が声色軽く、ひょいと立って食器の片付けを始めた。
真希も(そうだよね)と半分思いつつ、もう半分は諦めの入った自分の気持ちを落ち着かせるために、未だに屋敷に残されている二階の自分の部屋に荷物を運び入れたのだった。
その日の晩はみんな愉快であった。
祖母の美由紀と叔母の多江と真希の三人であったが、昔話を懐かしみ、祖母の大好きな赤のビンテージワインと、真希の大好物である祖母の作ったシチューをそれぞれが堪能し、東京で独り暮らしの真希にとっては、とても賑やかで幸福な時間を過ごすことができたのだった。
途中真希は、高齢になった祖母が見せる笑いじわを眺めながらこう思った。
いつしかこの目の前にいる祖母と多江も亡くなってしまう時が来るのだろうかと。
今この眼前の賑わいや談笑、ここから得られる安心感は永遠ではないのだと、そう自分に言い聞かせていたのだった。
「ところで真希ちゃん、前に来た時に話していた年上の彼氏とはまだ続いてるの?」
浮いた話が好きな多江が急に真希に振ってきた。
「え、あ、う、うん、一応まだ続いているけど」
「あら一応って?何か意味ありげな返事の仕方だけど?」
「いいじゃない、今はその話」
「色々とあるんでしょ?多江ちゃんも分かるでしょう?」
と美由紀が真希のフォローに入ったところで真希の彼氏の話題は終わった。
久しぶりに飲み過ぎてしまった真希は、酔いを覚ましに玄関を出た。
この目の前に広がる月明かりに照らされた庭園も、少し湿気をおびた草の香しさでさえ、幼少期の純粋な自分を思い起こさせずにいられなかった。
ここへ向かって来た時に感じたノスタルジックを、再び真希は思い返していた。
あの頃に戻れたら、今の私はもう少しマシな人生だったのだろうか。
そんな無意味な問いかけを真希は自身に向けていた。
風のまったく無い秋の夜の空気は、ワインとシチューとその幸福感で火照った彼女の身体には、とても心地良かった。
確かこの庭の奥に立派な土蔵があって、真希はちょっとした隠れ家に使っていた時期があったのを思い出した。
そんな懐かしさに導かれて、酔った彼女はフラフラと真っ暗な土蔵の前に、気がつけば立っていたのだった。
土蔵の入り口付近の壁に、五寸釘を打ちつけて引っかけてある懐中電灯は、すっかり砂埃をかぶっていたのだが、スイッチを入れると未だに乾電池が生き残っていたのか、パッと彼女を驚かせるように、眩いオレンジ色を輝かせてくれた。
真希は土蔵の扉に手をかけた。
不用心にも扉に鍵はかかっていなかったが、重い扉を開けてみると、昼間に暖められたのか、土蔵に充満されていた空気がふんわりとゆるい風となって、開いた扉から溢れ出てきた。
その風は、少し冷えた真希の身体に温もりと、古くさい木材の香りを同時に感じさせるものだった。
~~ 疑惑の火種 ~~
夜の土蔵は不気味であったが、真希は酔っていたのもあり、恐怖心よりも好奇心の方が先に出ており、迷うことなく土蔵の床に足を踏み込んでいた。
土蔵の内部は二階構造になっていて、彼女の隠れ家は二階へ上がった部屋の片隅にあったのを思い出した。
そこでは小さな懐中電灯を置き、祖父母に禁止されていたスナック菓子や炭酸飲料を飲食したたり、中学生の当時では大人に否定されていた漫画雑誌などを読んでいた。
急に照れくさくなって後頭部がむず痒くなり髪をかいたが、瞬間、彼女の手が止まった。
明らかに見慣れない、テラテラと煌めく漆黒の、そう、真希の肩幅くらいの京葛籠があったのだ。
辺りに置いてある物とは比較的にその京葛籠は新しく見えたが、真希は迷うことなくその蓋を外した。
その中には大量に、数十冊に及ぶ祖父の黒革製の日記帳が無造作に折り重なるように放り込んであった。
俄然、彼女は違和感と矛盾を感じた。
祖母が『遺言によって処分した』と言っていた祖父の日記帳がなぜ、彼女の目の前の京葛籠の中にあるのだと。
何かある、と真希はこう直感したのと同時に、誤魔化した祖母たちは何かを隠しているだと脳内に確信の電気が走った。
真希は自分が噓をついて誘導尋問したように、祖母と多江も噓をついたという、いわば双方の罪悪感の衝突と、突如復活した好奇心によって胸の奥が痛いほどギュッと詰まって、下腹部が少しだけ疼いた。
しかし、今この場でこれだけの膨大な量の日記帳を読むことは不可能であった。
それに未だ屋敷の食堂にいる祖母と多江に怪しまれるという一種の脅迫感を得て、手に取れる分の日記帳数冊を、まるで本屋で万引きするかのように、肌着の内側に詰め込んで(実際に万引きしたことはない)足早に屋敷へ戻った。
玄関に入った真希の目の前に、何というタイミングなのか多江が立っていた。
必要以上にビックリしてしまった真希に、多江がまた更に彼女を上回るほどの驚き方をしたのがお互いに滑稽に写ったが、まるでホラー映画の中のような緊張感が、玄関を開けた真希には備わっていた。
「あぁびっくり、真希ちゃんがなかなか戻らないからお姉さんも心配したのよ。どこ行ってたの?」
「すみません、少し飲み過ぎちゃったみたいで。庭で酔いを冷ましていたんだけど・・・ちょっと部屋で休んできますね」
「大丈夫?気分が良くなったら、ゆっくりお風呂でも入ってね」
多江とそんなぎこちない会話を終えて真希は自室に戻った。
戦利品は年代別々の五冊の日記帳、つまりランダムな五年分の日記であった。
しかし土蔵の京葛籠にあった日記帳は、パッと見で換算すると数十年分あることになる。
その時点で不覚にもウンザリしてしまった真希であったが、やはり土蔵に隠されていたことに、自分は私立探偵にでもなったかのような妙な使命感に似た、彼女の完全な錯覚と呼べる探究心が沸き出していた。
なぜか彼女は祖父の日記帳を読む前に禊を済ませるかのように風呂に入り身を清め、歯を磨いて清潔になってから、祖母と多江に「おやすみなさい」の挨拶を済ませ、まるで寝る前の読書をするかのように、ベッドへ入りブックライトのスイッチを入れた。
真希が最初に開いた日記帳は、今から四十五年も前の物だった。
書かれている内容は基本的に仕事上のことが多かったが、世間で起きた出来事であったり、稀に趣味であった釣りのことが多かった。
当時の祖父の生活や時代背景、祖父はこんなことを思っていたのか、こんなことを考えていた人だったのかと改めて知ることが出来た。
しかしこれ以上、何か特別な内容は見て取れなかった。
ざっと流し読みではあったが、ランダムな五年分の日記帳を読み終えたときは、もう午前三時を過ぎていた。
彼女の酔いは醒めかかっていたが、急に疲れが出たのか瞼が重くなって、そのまま真希は眠りについてしまった。
~~ 夜明け頃の地震 ~~
朝、目が覚めて、真希は寝間着のまま一階の居間へ降りた。
すると祖父の誠司がテーブルの、いつもの決まった席で新聞を読んでいた。
「おじいちゃん!?久しぶり、元気でしたか?」
真希がこう声をかけると誠司はこう言った。
「真希、君もずいぶんと大人になったんだな。おばあさんのこと、頼んだぞ」
祖父は相変わらず紳士的で、キリリとした男らしさを感じさせていた。
「ところで真希。きみの調べていることだがな・・・」
真希は自分の身体がグラグラと揺れていることに気付いた。
同時にピシリピシリと、部屋の至る所がキシんでいる音がする。
そこまで強くはないようだが、地震だったようだ。
地震の揺れで目を覚ました真希は、祖父の夢をみていたことを思い出した。
寝ぼけている彼女には容赦なく、眩しい朝日がカーテンの隙間からキラリキラリと入り込み、真希は邪魔くさいとばかりに側臥位になって、掛け布団で顔を覆った。
掛け布団からお日様の香りがしていたことに、昨晩には気が付かなった。恐らく美由紀か多江が彼女の帰省に合わせて布団干しをしてくれたのだろう。
何とも言えないが、ありがたかった。
寝落ちは一瞬だったのか数十分経ったのか分からなかったが、頭がハッキリとしてきた真希は、先ほど見た夢の中の祖父の言葉である「きみの調べていることだがな・・・」の続きが何だったのか、それを聞きそびれたことに不謹慎ながら先程の地震を恨んだ。
それと同時に、昨晩収穫した五冊とはまた別の、まだ土蔵の京葛籠に入ったままの他の日記帳を読みたくなっている自身の嫌らしい欲求が沸き起こったことに気がついた。
そのあとキチンとした普段着に着替えてから、同フロアの二階にある洗面所で顔を洗い、身なりを整えたあとに一階の居間へ降りたが、そこには当然だが祖父の姿はなく、ただ祖父が決まって座っていた席に、窓から一直線に朝日が差し込んで祖父誠司の席を照らしていたのが、真希は妙に印象的に感じていた。
居間を抜けて食堂へ入ると、すでに多江が働いていた。
「あら、真希ちゃん、おはよう。よく眠れた?」
「おはようございます。うん。もうご飯の支度をしてくれていたの?ありがとうございます」
「さっきの地震、少し揺れたわね。でも栃木で震度三程度だったみたいだから酷くなくて良かったわ」
そんな話に誘われたかのように、祖母の美由紀も真希のあとに食堂へと入ってきた。
祖母とも朝の挨拶を済ませたが、とっさに先ほど見た祖父の夢の話をしたくなった。
が、しかし無意識に真希は口を紡いでしまった。
昨晩の会話の流れからして、今の祖母と多江に「祖父」とか「初恵」というキーワードは封印した方が都合が良い。
直感的にそう思ったからだった。
~~ 隠された日記帳 ~~
真希は思った。さて、今日は更に別の祖父の日記帳を調べてみることにしようかと。
北鎌倉に里帰り中なのだが、同級生に会うとか何かしたいことも特別に行きたい所も無かったし、あまり外を出歩くという行為は慎みたかった。
多江は午前中に大船の自宅へ帰っていった。また夕方には来てくれるようだが、忍んで祖父の日記帳を読みたい真希にとって、多江の帰宅は都合が良い出来事であり、更に好都合だったのが祖母も用事が出来て外出するとのことだった。
おかげでこの日は本格的に祖父の日記帳を調べることが出来る。
そんな悪知恵に近い企みと共に、真希は人の目を盗むことに快感を覚えてしまっていた。
「おかしいなぁ」
真希は早速、土蔵の二階にて祖父の日記帳を調べ始めた冒頭で、いきなり大きな疑問にぶち当たったのであった。
まず数十年分ある日記帳を年代別に並べて、時系列で読んで追っていこうと思っていた。
ところが、ある年から二年分の、つまり二冊分の日記帳が見当たらないのだ。
それは今から五十年も前に書かれた古い物であった。
その前後の日記帳を開いてみたのだが、当時の事件や事故に対しての祖父の見解だったり、やはり内容は特別変わった点はない。
今日も天気が良く土蔵の二階は少し蒸し暑いからか、真希の額には薄らと汗がにじんでいた。
その汗は暑さから出た汗なのか冷や汗なのかどちらか分からなかった。
真希の言いようのない不穏な心持ちが発汗させたのかも知れない。
一体この日記群から欠落した二冊はどこに行ってしまったのだろう。
この二冊が、ひょっとしたら「祖父」と「初恵」の関係性の謎を解く鍵が隠されているのかもと、ぼんやりとだけ想像がついただけに、口惜しい気持ちが抑えられなかった。
しかしその二冊の日記帳の在処は、真希は何となく察しがついていたのである。
彼女は土蔵を出てから誰も居ない屋敷へと戻った。
無意識に近い歩き方をして、考え事をしながら祖父の書斎へと向かったのである。
真希は常々疑問に思っていたことがあった。
亡くなった祖父を感じられるからだろうと思っていたのだが、真希は祖母がいつも祖父の書斎に居ることを不思議に思っていた節があったのだ。
この部屋には何かあるのであろうか。
そんな毒気が彼女の心の奥底に数年前から浸透しているのは自分で大いに自覚していた。
祖父の書斎には鍵がかかっていなかった。
これは当たり前なのだろう、祖母が居る時でさえも鍵など一度もかかっていたことは無かったから。
書斎にはいつもの通り暗紅色の絨毯が広がっている。
電灯を点けていないせいか書斎がやけにどんよりと暗く見えたのは、今の真希の心理状態の表れのようだった。
日記帳があるとしたらこの部屋だと、彼女には根拠のない自信があった。
真希は今度は本物の泥棒にでもなったかのように書斎の机や引き出し、本棚などを日記帳を求めてあさり始めた。
数十分間探しまくったが、日記帳は見当たらなかった。
血眼になって視覚を酷使し過ぎたのだろうか、急に窓の向こうの緑色の景色を欲した真希は、ふと中庭へ視線を逃したときハッとした。
祖母がいつも腰掛けているウォールナット材の安楽椅子が視界に飛び込んで来たのである。
椅子には大きめな黒のビロードに金色の鳳凰のような刺繍が施されたクッションが置かれていたのだが、彼女は何の迷いもなくそのクッションを宙へ放った。
本革張りで胡桃色の分厚い座面が出てきたが、彼女はこの座面を当たり前のように、乱暴かつ強引に引き剥がした。
「あった!」
真希はこの安楽椅子に隠されている欠落していた二冊の日記帳を発見したのであった。
根拠のない自信があったクセに、真希は実際には心底から驚いてしまっていた。
焦爛の芍薬 紀 聡似 @soui-kino
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