焦爛の芍薬
紀 聡似
第1話
~~ 帰郷 ~~
真希が神奈川県の北鎌倉にある祖母の家に向かった理由は、いくつかあった。
その内のひとつは、久しぶりに祖母の顔が見たかったから。
真希の両親は、彼女が幼い頃に揃って事故で他界しており、そう記憶にも残っていない様な遠い存在になっていた。
身寄りが無くなった真希は、北鎌倉にある父方の祖父母の家に引き取られて、二十二歳の大学卒業まで育てられたのだった。
大学を卒業してから東京の企業へ就職し、現在は独り身の彼女にとって、母親同然の祖母の手料理、いわゆる「母の味」のような食卓に飢えていた。
東京に越してから一年後に祖父が病気で他界し、その後、祖母の美由紀は大きな屋敷で孤独に暮らしていた。
となり街に住んでいる「大船のおば」こと多江は、美由紀の八歳年下の妹で、週に数回ほど姉の様子を見に行ってくれている。
真希にしてみれば特別に祖母を心配せずにいられることが何よりも有難く、多江様様といったところだった。
秋の紅葉の季節だからか、平日だと言うのに列車内は混み合っていた。
これから鎌倉見物に行くのだろうか、語学に疎い真希でも、そこにいる旅行客のカップルがフランスから来たことくらいは分かった。
肌寒くなった時期にも関わらず、今日は天気が良く、列車内へ強い日差しが差し込んでいたからか、二人とも白いタンクトップに大きなリュックを背負って、楽しげに列車の隅で大柄な身を寄せ合って談笑をしている。
栗色混じりの、まだらな口髭をたくわえた男性の方は、真希から見るといやに年配に思えたが、それに対して相方の長いブロンドヘアの美しい女性は、また妙に若々しく感じた。
真希はじわりと考えた。
この年の離れているであろう二人は、果たして遠い祖国フランスの地では正当な「夫婦」と認められているのだろうかと。この男性には実は妻子がいるのではないだろうか。この女性はそれを知っているのか、そのことを知ったうえで付き合っているのだろうか。
真希はそんな余計なお節介にも思える、押しつけがましい不審を感じてならなかったのである。
北鎌倉駅は人気の鎌倉駅の一つ手前なことで、曜日や時間帯にもよりけりだが、真っ昼間はさほど下車する人数は多くない。
駅の混雑というものが大嫌いな真希は、そのフランス人カップルが下車しない素振りに少し安堵感を抱きつつ、その女性が放つ香水と体臭が混じり合った、ある種の独特な香りに鼻奥をすぼめながら北鎌倉駅のホームに降り立った。
さっきの不快な香りのせいもあってか、ホームに漂う太陽と秋の少し湿った空気の香りが、何とも気持ち良くて清々しく感じた。
真希の祖母の家は北鎌倉女子学園の少し先にある。
もちろん彼女もこの学校の卒業生だ。
自動車がすれ違うのがやっとなくらいの道幅に、それをさらに狭く見せるように緑翠の木々が映えるトンネルが続く。
その空間にこだまする賑やかな年頃の女子生徒たちの声を聴いた真希は、自身の高校時代を思い出して、簡潔にノスタルジックを感じずにはいられなかった。
あの頃は純粋に楽しかったなと、まだ世界が美しく見えていた時代が懐かしかった。
家の近くの目印である二又にたたずむお地蔵様は、彼女の幼かった頃と何も変わらず、菅を編んで作られた真新しい笠をかぶって、今もそのまま昔のまんまに微笑んでいる。
「あ、まただ・・・」
真希の左耳を襲う強烈な耳鳴り。
そう、彼女が祖母の家に向かう理由の、もうひとつがこれだった。
半年ほど前から始まったこの現象だが、原因は思い当たる節が真希にはないでもなかった。
左耳の耳鳴りと同時に、右目だけが白くかすんでくる。そうなると決まって見覚えのない女の子がかすみの中から姿を現すのだ。
顔はハッキリとは見えないが、古風な着物を着ていることは分かった。
この現象が起きると、その月の生理が早まったり、偏頭痛を起こしたりと体調面に不安が生じてくる。
「この子は一体誰なの?」
この現象は一ヶ月から二ヶ月に一辺の頻度で起こるので、これで四回目だった。
かすみの中の少女が古風な着物を着ているという理由だけで、何か祖母と関係があるのではないかと、半分こじつけな考えになっているが、病院へ行ったってろくな診断をされなかった真希からすると、同じ女性として祖母から何か助言でももらえるかもという淡い期待があった。
左耳の耳鳴りと右目のかすみの現象が治まる頃には、真希は祖母の屋敷に着いてしまった。
思いがけず、大船のおばの多江が屋敷の門前でほうきで掃いていた。
「多江さん、ただいまです!」
「あら真希ちゃん!もう着いたの?夕方に来るからってお姉さんが言うものだから驚いちゃった」
「私も多江さんが来ているとは思ってなかったからビックリしちゃった」
「久しぶりだもんね。お姉さんも真希ちゃんが来るから落ち着かなくって、そしたら私までも落ち着かなくなっちゃったから表を掃除してたの。真希ちゃん、今日は私も泊めてもらうのよ。一緒に飲もうね」
多江は昔から瘦せ型だったが、その身体の線の細さを感じさせないバイタリティ溢れる気概の様なものを今も相変わらず放っていた。
真希は祖母の美由紀と二人っきりよりも多江が一緒に居てくれた方が、会話が不得意な彼女からしても要らない気遣いもせずに済むし、何よりも三人の方が明るい雰囲気になるので、多江の存在は大いに助かるのだった。
真希は密かに多江が来てくれているのでは?と期待していたので、さっきの「思いがけず」と言うのは、つまり嬉しさ余っての、そのときの気分の高揚からついて出た言葉である。
江戸時代からあるという古い門に大きなナナフシが張り付いていた。
その時、真希は後ろから誰かが追ってきているのではないかと急に不安な気持ちになり、今来た道を振り返ってみたが、どこにも人影はなく杞憂に終わった。
「真希ちゃん、どうしたの?」
「う、ううん、なんでも」
門をくぐり、手入れの行き届いている庭園を一分弱歩くと、ようやく玄関に辿り着ける。
美由紀のような年寄りが独りで過ごすには何とも広すぎる邸宅であったが、当時両親を亡くした幼い真希にとって、これほど面白い家は他になかった。
つまり単純に言えば、祖母の豪邸において真希は「両親からの愛情の欠如」を除けば、何の不自由もなく彼女が生活を送るのに申し分ない環境であった、と言うことである。
上から見ると口の字型をしている邸宅の真ん中には中庭があった。
その中庭がよく見える十六畳ほどある祖父の書斎。
十六畳もありながら、この屋敷内ではさほど広い方に入る部類の部屋ではないが、暗紅色のビロードで出来た絨毯が広がっているその書斎に祖母は大抵居るのだった。
「おばあちゃん、ただいま」
「おかえり真希ちゃん、疲れていない?今日は良い天気で良かったわね」
美由紀は真希の顔は見ずに中庭に向かって返事をしたが、この部屋に美由紀がいる場合は、今のように返事をするのが習慣なのであった。
祖母の美由紀は白髪頭になっていても、一針の乱れもなくピシリと髪を結い上げ、レッドライラック色にコーティングされた鼈甲の眼鏡をかけた表情からは、昔から今現在も気品の衰えは感じさせないでいた。
その時、真希の鼓膜を小さく震わせていたのは、遠くにある大広間の古びた大きな柱時計の正午の鐘であった。
「多江ちゃんがお昼の支度を済ませているから、さぁ行きましょうか」
そもそも真希は当初夕方に到着する予定であったのに、なぜ美由紀はそこに触れずに当たり前のようにことを運んでいるのだろうか。
真希はいささか違和感を感じながらも、そんな予定外も想定内なのかと、歳を重ねるとはこういうことなのかと腑に落としていた。
彼女がそう納得できたのは、多江が食堂で真希の昼食までしっかりと準備をしていたのを目の当たりにした時であった。
祖母の料理は夜の楽しみに残しておこうと彼女は思った。
真希は祖母が作ったクリームシチューが大好物なのだ。
何か特別な高級食材を使っている訳でもない、ごくありふれたシチューなのだが、あのホクホクとして溶けかかったジャガイモのやわらかさと、鼻口に抜けるバターコーンの甘い香りは、祖母の美由紀のシチューでないと味わえない。
どうしても真希はこのシチューを食べておきたい理由が他にもあったのだ。
シチューの禁断症状が現れ始めた真希は、多江が作った海鮮たっぷりのナポリタンを必要以上にフォークで巻き続けながら、食堂の奥にある調理場の入り口に視線をやった。
桔梗の花の刺繍が施された大きな生成り布の暖簾の先に、真希の意識はシチューへの期待感に完全に捕縛されたのであった。
真希は祖母のシチューをすでにリクエスト済みであり、これもまた真希が帰郷する理由のひとつになっていた。
~~ 帰郷した本当の理由 ~~
「そうだ、おばあちゃん、おじいちゃんのことで聞きたいことがあるんだけど」
「なにかしら、改まって」
「この前の修平さんのお葬式の時なんだけどね、修平さんの叔父さんの・・・」
「澄夫さんだね、おしゃべりで有名な」と多江が勢いをつけて口をはさんできた。
「そうそう。その叔父さんが私に変なことを聞いてきてさ」
ここまで話すと、美由紀の額が後ろ側にピクリと少し動いたのが真希は見逃さなかった。
修平とは、真希の死んだ父の義弟であり、この夏に癌で亡くなった叔父のことである。
澄夫は真希たちの遠い親戚にあたる人で、美由紀よりも少し年齢は上をいっている。
「で、澄夫さんがなんて?」
「おじいちゃんのことでね、おばあちゃんから何か聞いていないのか?って。私は、何も聞いてませんよって答えると、ふふんとちょっと含み笑いして・・・」
するとまたしても真希の話に割り込むように多江が口を開いた。
「また余計なことを・・・今さら何の話を持ち出そうとしてるんだか!」
真希の祖父、西条誠司は不動産業を複数社経営していた実業家であった。
誠司が亡くなってからは遺産分与で親戚に会社を分散させ、誠司の兄弟、その子供たちが引き継いで、今でも世間では名が通る企業として手広く会社経営をしている。
彼女はそんなところまでは知っていた。
「で、おじいちゃんがどうかしたの?」と真希が祖母の美由紀に聞く。
「知らなくていいのよ」とまたすぐさま多江が口を挟んだ。
パスタに絡んだケチャップソースが少し固くなっていた。
多江の作ったナポリタンは、秋の空気で少し冷め始めてきていた。
「おじいちゃんのことってなに?なんで私にそんなこと聞いてきたのかな。修平さんの叔父さんの・・・その澄夫さんとなんの関係があるわけ?それとも私がなんか関係していたの?」
再度の真希から祖母への質問を、またもや多江が邪魔するように答えた。
「見ての通り、お義兄さんは一代でこの西条家の財産をここまで築かれたのよ。色々な人に妬まれたり羨ましがられて当然。つまらない噂話を流すのが好きな人がいるのね。真に受けなくて良いのよ、真希ちゃん」
こう話す多江の表情とその言葉使いは、明らかに真希の気持ちをはぐらかしているに違いなかった。もちろん多江もその腹積もりで話をしていた。
そこで真希はこう切り返した。
「澄夫さんは笑って最後にね『君のおばあさんはおじいさんに、もっともっと感謝するべきなんだよ』って言ってたけど、私は別に嫌な言葉に聞こえなかったの。でも多江さんにそう言われると、何か隠したくなるようなことでもあるかなって余計に勘ぐっちゃうんだけど」
美由紀と多江はさすが姉妹である。
二人そろって両目を天井へ向けたのだった。
まるで何かに失敗したかのような表情で。
~~ 真希がついた嘘 ~~
修平の葬式のときにそんな言葉をかけられた真希は、ふと疑問が浮かんでしまった。
真希は祖父母に育てられてきたが、金銭面で困ったりした記憶もなく、両親を失った彼女を本当に優しく接して成長させてくれた。
真希から見ても祖父母との関係性は良好で、祖母はお手伝いさんや多江に家事の全てを任せていた訳もなく、ことに食事に関しては、徹底的に祖父の誠司や孫の真希の栄養管理を重要視して食卓の用意をしてくれていた。
修平の叔父、つまり澄夫はどうして祖母美由紀が亡くなった祖父誠司に「もっともっと感謝すべきなんだ」と真希に言ってきたのか。
人は自分に一切の非が無いと、あからさまに他人事の不祥事に関しては絶対的に強気というか、勝ち誇ったかのような嫌味な言い方をするものだ。
真希は澄夫の言い方から、そんな嫌味を感じ取れたのだった。
祖父と祖母は昔に何かあったのだろうか?
真希も最初はその程度の軽い疑問であったが、突然降って湧いたような話であったため、彼女は知る、もしくは知っておかなければならない出来事でもあったのだろうかという好奇心がムクムクとふくらんできていた。
真希はさっき『私は別に嫌な言葉に聞こえなかったの』と祖母らに話したが、本来は逆に感じた印象を、敢えて噓をついて言ったのだった。
「真希ちゃん、これはくだらない話なのよ。気になるだろうけれど、もう関係のないことだから気にしないでもらえるかしら?」
そう言った祖母は、完全に冷め切ってしまったナポリタンを久しぶりにフォークで巻き取り始めた。
「そうですよ、せっかく真希ちゃんの里帰りなのに、もっと楽しいお話をしましょうよ。あ、お姉さん今晩は真希ちゃんの大好きなシチューの材料、全部揃えてありますから」
「そう、ありがとう多江ちゃん」
またもはぐらかされた真希だが、彼女の知りたいという欲求はますますふくらむ一方になったのは記すまでもないだろう。
それに、真希はもうひとつ嘘をついていた。
真希が言った『修平さんの叔父さんは笑って最後に』は、実はこの言葉は本当ではないのだ。
澄夫が真希に言った本当の言葉とはこうだった。
「初恵ちゃんの話は知っているかい?・・・知らない?そうか・・・君のおばあさんは、おじいさんにもっともっと感謝するべきなんだよ」
冒頭に「初恵ちゃんの話は知っているかい?」と言った、これが含まれたものが正しい澄夫の言葉だったのである。
真希はさっき直感的に「初恵ちゃん」というキーワードは、軽率に使うべきではないと察知して封じたのだった。
恐らく「初恵ちゃん」という言葉を使った瞬間、真希は美由紀や多江の良からぬ何かしらの感情を逆撫でしてしまうのではないかと、そんな先天的に持ち合わせているであろう防衛本能が働いた気がしたのだ。
真希が知りたいのは、祖母が祖父に感謝しなければならない理由もそうなのだが、この「初恵ちゃん」という人物が一体何者なのかということもあった。
真希という人生に、突然現れたこの初恵という登場人物の謎を知りたいと率直に思ったのである。
偶然なのか、耳鳴りで現れる少女との関係を結び付けようという意識も彼女の中で働いていた。
真希はその謎を解く鍵はきっとこの屋敷にあるはずだと確信していた。
そんな好奇心に似た妙な興味に後押しされ、彼女が職場で有給休暇を取ってまで祖母に会いに来た理由の内のひとつはこれだった。
祖父の誠司は筆まめだった。
真希が思春期だった頃、仕事で多忙であった祖父から度々手紙をもらっていた。
この手紙は道徳的な話から、シャレた話も含まれていた。
両親の居ない当時の彼女にとって、心の隙間を埋めてくれる短編小説のような存在だったのだ。
真希の記憶が確かならば、祖父は毎日の日記を書いていた。
久しぶりに祖父の活字が恋しくなった真希は・・・
「ねぇおばあちゃん、おじいちゃんが書いていた日記を見せてもらいたいのだけれど・・・」
真希のこの一言で、数十年間止まり続けていた古い歯車が、たった今ギシリと重い音を立てて回り始めたのだった。
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