1・もふきゅん

 最寄り駅を降りてすぐ、あやしい雲行きと湿り気の含んだ空気を肌に感じる。

 微かに鼻をかすめるのは……雨の匂いだ。


 大学進学とともに上京して約1ヶ月、明日からゴールデンウィークがはじまる。

 慣れない東京での一人暮らし、勉強などなど、言葉にすればあっという間というか、必死に駆け抜けた1ヶ月だった。全力疾走、息切れ寸前にやってきた連休を目の前に、ほっと一息ひといきこぼれる。


 やっと、ひと休みできる。


 息が詰まって苦しかった呼吸が少しだけ軽くなり、足はいつの間にかご機嫌なステップを踏む。

 ただ、ちょっと憂鬱な点といえば【連休用の課題】

 思ったより少ないのは、先生方の優しさかもしれないけど、決してラクだと言える量じゃない。


「はぁー……」


 思わずため息が落ちた。

 気を取り直すついでにリュックを背負いなおして気付いた。


「あ、やべ。折りたたみ、家だわ」


 これから必要になるであろうアイテム。

 いつもリュックの中でガタガタと音を立てて存在を主張してくるモノがない。


「ほんと、ついてない」


 毎日ムダに持ち歩いていたはずなのに、雨が降りそうな日に限って忘れるとか最悪だ。


 駅の出入り口から出る前に、もう一度、空を見る。

 雲の流れはまだゆるい。

 雨の匂いは感じるけど、早足で家に帰る10分ちょっとなら、間に合うな。


「仕方がない」


 上京してから増えた玄関に並ぶビニール傘を思うと、コンビニには絶対寄らずに帰らなければ、と密かに決意する。

 そうと決まれば、踏みとどまっていた足は動き出す。駅から飛び出して、まっすぐ家へと進む。通い慣れた駅前の商店街通りをぐんぐん抜けて、道角を曲がろうとした瞬間。視界の端で横切る小さな影をとらえた。


「んっ⁉︎」


 それは俺がここ1ヶ月恋い焦がれていた存在。

 足を止めて、もう一度、確認する。見間違えるはずがない。


 灰色の雲に隠れた夕陽はかろうじて、その色を雲に写して夜の色と混ざり青紫になっていた。

 こく々と薄暗くなっていく中、街灯に照らされたたずんでいる猫はよく見えた。


「猫!」


 大きな声が出た。


 田舎ではずっと動物に囲まれていた俺は、上京して以来、動物不足におちいっていた。

 目の前に突然現れた、求めていたオアシス。駆け寄らずにはいられない。

 だが、俺はもちろん知っている。

 気持ち的にはゼロ距離ではあるが、相手ねこは違う。はやる気持ちを無理やりおさえこんで、ゆっくり足を慎重に動かす。身を少し低くし、手を下げて、敵意はないことをアピールしながらそろそろと近づく。


 そこである違和感に気づいた。


 猫にしては大きく、ゆるやかな曲線をえがく耳。

 丸顔というより三角に近いスマートな顔立ち。

 それに尻尾も冬毛のようなふさふさとしたボリューム。

 茶トラに見えた毛並みは、よく見ればがらはなく、黄金こがね色。

 フォルム、色、これはまさにーー


きつね。いやいやいやいや、こんな街の真ん中に狐なワケないよなー」


 一人でセルフツッコミしながら笑っている俺を猫は興味深げに、じっと見ている。

 手を伸ばせば、触れることができる距離になっても、猫が怯える様子はない。


 たしか、海外の品種で狐みたいな猫がいた気がする。

 こんな珍しい猫が歩き回っているとは、さすが都会だな。

 人馴れもしているみたいだし、逃げ出したのか?

 でも、首輪はない。

 野良?

 ……にしても、野良にはない優雅な空気がある、不思議な猫。


 俺は驚かさないように静かに腰を落とし、目線を合わせる。

 それでも猫が逃げ出さないことを確認して、そっと手を伸ばす。

 猫は俺の行動を拒否することなく、艶やかな毛を触れさせてくれた。


「あー……久しぶりのモフモフだ」


 コレだよ、コレ。

 毛布でも布団でもない、この手触りを俺は求めていた。


 東京に来てから思うことは、動物が少ない、だ。


 まったく動物を見ないわけじゃない。

 たまに飼い主と散歩する犬を見かけるけど、野良猫、野鳥などなど全然見ない。

 スズメやカラスなどはさすがに見るといえば、見るが、違う!

 そうじゃないっ!

 絶対的母数が違うんだっっ!!


 とにかく、数ヶ月前までは気軽に見て、触れていた存在が、場所が変わっただけで、こんなにも遠い存在になるとは。


「はぁ。癒される」


 猫がツッコミどころか返事さえしてくれるわけもない。

 見ず知らずの猫を触り続けるしかない現状。

 もしも、見知らぬ人が通り過ぎでもしていたら、完全に不審者判定されているに違いない。


 頭ではわかっているけれど、やめられない、められないこのモフモフ。


 予想はしていたけれど、まさか、ここまで自分の心が枯渇しているとは思っていなかった。

 でも、動物好きの俺からすると日々の生活にモフきゅんが足らないんだ!


 しかし、都会の人は冷たい。

 愚痴れば「じゃあ飼えばいいじゃん」って軽くワンパンチ返してくる。

 そう言う問題じゃないんだ。日常の中に存在していてほしいのだ。

 そもそも、一人暮らしで飼えるわけがない!

 飼育するためのお金問題しかり、何より、愛する動物、我が子に寂しい想いさせるなんて、言語道断である!

 都会っ子には理解し難いかもしれないが、田舎では、動物は自然と目に入る存在だ。

 町を歩けば、我が物顔で道を闊歩かっぽする野良猫。

 野鳥だって、スズメやカラスだけじゃないぞ。サギやタカやトンビ……名前を上げればキリがないけれど、触れればモフモフを、見ればキュン、そうやって癒しを得て生活していた俺にはツラすぎるよ。

 たとえ、電車の本数が増え、徒歩で行けるコンビニが増え便利になったとしても、俺の活力、エネルギー源はモフきゅんであったと身に沁みる1ヶ月だった。


「お前もそう思うだろう?」


 ひとしきり溜まりに溜まったフラストレーションを発散させつつ、撫でまくる俺に爪を立てることなく、クニャーンと小さく声を漏らす猫は、すでに心の友である。


「この辺にいるってことはご近所にいる猫だよな。この時間帯を通れれば、また会えるかな?」


 前足に手を差し込み、抱き上げようとした瞬間。



「なぁに、遊んでんだよ!」



 突然、頭上から降ってきた男の声と同時に背中から鋭い衝撃が突き抜けた。

 気がついた時には、俺は、地面に転がっていた。




「あ、へ?」




 視界は全面コンクリート。

 自分の身に起こっていることだが、状況がわからない。

 唯一、わかることは、ズキズキと背中を走る痛みがあることだけ。


 視界に2つ、黒い影が入った。

 衝撃の原因と思われる人物は、転がった俺を気にするでもなく言葉を続ける。


「ほら、行くぞっ」


 その言葉は俺ではない誰か。

 なんとか、手をつき起き上がって周囲を見渡すが誰もいない。

 薄暗い道にぼつんと自分がいるだけだ。


 フリーズしたまま再起動しない、ぼんやりとした頭で、なんとか状況を把握しようと視線をうろうろと動かす。


 もし、ほかに”いる”としたら、ついさっきまで抱き上げていた心の友、猫だけだ。

 まさか、猫に話しかけている?


「ちっ」


 大きな舌打ちが聞こえた。

 反射的に振り返ると、衝撃のーー多分、俺を蹴ったと思われる人物おとこの後ろ姿が見えた。


「ちょっ、待てよ! あ、あんたの猫を勝手に触ったのかもしれないけど、いきなり蹴ることないだろうっ!?」


 自然と大きな声が出た。

 溜まりに溜まっていたフラストレーションの解放。当然、俺の感情も解放的になっていて、普段だったら絶対的に口にしない言葉だった。

 俺は、行為に対する謝罪もなく、平然と立ち去ろうとしていた真っ黒な背中に、正直、モヤっとして、さらにイラっとして、火がついた。爆発した感情をそのままぶつけてしまうのは当然だと思う。


「なんだ、お前。俺のこと”みえる”のか?」


 悠然と歩いていた足をピタリと止め、上半身を捻るように振り返る男。

 薄暗い夕闇の中、おぼろげな後ろ姿と声だけだった男の顔をはじめて認識した瞬間、ぞわりと毛が逆立ち、寒気が全身を覆う。


 やばい。


 その言葉が脳内を埋め尽くし、警笛アラートを鳴らす。

 しかし、指先ひとつ、ピクリとも動かすことができず、男と目線があったまま、ただ、時が過ぎる。身体は固まり、呼吸がしにくい。

 唯一、自分の意思で動かせるのは目だけ。

 目の前に立つ男は、荒々しい動作からは想像もつかいないほど、恐ろしく整った顔だった。

 鼻筋は通り、肌は少ない明かりでも浮き上がる白さ。異国を思わせる顔立ちと黒と茶がまだらに混じった癖のある髮。長めの前髪をものともせず、俺を突き刺す強い視線。

 その瞳は視界の奥に映る、夕闇と同じ色をしている。

 男の存在と周りの風景が不釣り合いすぎると言うのに、どこか絵画のような幻想さ。


 俺は目を奪われていた。

 でも、その幻想さが、少しづつ恐怖を掻き立てていく。


 これに似たモノを俺は知っている。


 奥底にしまっていた既視感。

 じわじわと溢れ出す汗、低く響く心臓の音は、時間を刻む時計のように進み、針がぴったりと重なる。

 ……この感覚。まさか。


「へぇ。するどいと来たか……面白い」


 人ひとりは離れていたはずなのに、目の前に落とされた声。

 頭が理解した瞬間には遅く、星も月も見えない闇の中、見上げた先。


 男の瞳は、紫煙しえんのようにあやしく揺らめいていた。

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小野壱青年が望まなくても怪異はやってくる @k_k_

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