第二話 バケーション(2/2)
「――っ、……う……」
「ええと、ごめんなさい」
泣きじゃくる弥生に、アヴリルはコーヒーを飲みながら謝った。
映画を観終わったところで喫茶店に入った二人だが、弥生はずっと泣きっ放しで、落ち着く気配がない。そんな彼女を前にして、アヴリルはいつになく困り果てていた。
「まさか、あなたがそこまで入り込むとは思っていなくて」
「うう……」
弥生は声を殺しながら、ぶんぶんと勢いよく首を振る。
それは気にしないで、という意味を込めたものだったが、この場ではアヴリルが弥生を泣かせて、彼女の謝罪を弥生が拒絶しているようにしか見えなかった。
「う……っ、すみませ……」
鼻声で上手く伝わったか自信がなかったけれど、アヴリルは苦笑混じりにコーヒーを啜っている。
「ちょ、ちょっと……顔を、洗ってきます……」
「ティッシュはいる?」
「……持ってます」
端的に答えながら、のろのろと席を立つ。
化粧室へ向かえば、幸い、そこには誰もいなかった。弥生は鏡の前に立つと、ポケットからハンカチを取り出して顔を覆う。そして、盛大なため息と共に肩を落とした。
(やっちゃった……)
自分の痴態を嘆くと同時に、恥ずかしさが込み上げてくる。
いくら映画の内容に涙腺を刺激されたとはいえ、外出中に隣で号泣されたら、アヴリルだって困るだろう。
それに、いくらアヴリルが寛大な心の持ち主だとしても、こんな調子ではいけない。弥生は乱暴に瞼を擦ると、涙の痕を水で何度も洗い流した。
「失礼しました」
「おかえりなさい」
程なくして席へ戻ると、アヴリルは何事もなかったかのような笑みで弥生を迎えてくれた。
その表情を見た途端、弥生の心に安堵と申し訳なさが入り混じった感情が押し寄せてきた。とにかく、彼女にはきちんと謝っておかないと。
そう考える弥生だが、こちらが謝罪するより先にアヴリルが口を開いたため、タイミングを逃してしまう。
「まあ、泣くと喉が渇くものだし、カフェオレでも飲みなさい」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
先ほどの泣きっぷりを指摘されて、弥生は頬を染めながらストローを咥えた。
いつの間にか注文されていたカフェオレは、甘さとほろ苦さのバランスが取れていて、とても美味しい。
ひと息ついたところで、改めてアヴリルの様子を窺う。彼女は穏やかな微笑を浮かべたまま、優雅な動作でコーヒーを飲んでいた。
「あの、さっきはすみませんでした。でも、本当にいい映画でした……」
「そうね。子供たちの作戦が拙くて、だけどいじらしくて、その塩梅が見事だったわ」
弥生が感想を述べると、アヴリルも同意するように小さく頷く。
映画の内容は、両親が不仲な家庭に於いて、そこの子供である姉妹が父親と母親を仲直りさせようと奮闘するというものである。
子供たちの考える作戦は滅茶苦茶で、そういうドタバタをコメディっぽく描きながら、愛らしい素直さと、不器用な真剣さを感じさせるものだった。
物語の中盤で、子供たちの想いに一時は仲を取り戻しかける両親だったが、やはりその溝を埋めることはできなかった。
父親が家を出ていくことになると、彼には姉がついて行くことになる。表向きは、わがままな母親や、姉にべったりの妹に嫌気が差したかのように振る舞いつつ。
本当は、炊事も洗濯も一人でできない父親が一人では可哀想だと、姉はあえて家を離れたのだ。
奇しくも、両親を仲直りさせるための作戦は失敗したが、家や妹が嫌いになったという姉の演技は成功してしまう。
「あの続きがあるのは、珍しいんですかね?」
「そうね」
確かに、普通ならそこで終わりそうではある。
しかし、展開の速さと残りの時間に違和感を覚えた二人の予想通り、物語はそこで終わらなかった。
舞台は一つの家庭から、二つの家庭へと移る。遠く離れた二つの家族の生活が、姉妹の文通という形を通して語られていくのだ。
母親と妹の家庭は、母親が働き出したことで妹が一人ぼっちになるが、今まで姉にべったりだった妹が徐々に外へ目を向け、友達を作り、成長していった。
父親と姉の家庭は、今まで仕事ひと筋だった父親が釣りや映画に連れて行ってくれるようになり、穏やかな生活の中で、人生や愛とは何かという会話が展開する。
派生して、同時に進行する二つのストーリー。
「あなたはどちらの家庭の話が面白かった?」
「私は妹のほうですね。あの子に友達ができるように、私も高校に入って、ようやく水無月の他にも友達と呼べる相手ができたので、自分のことみたいで擽ったかったです」
「なるほどね」
「でも、ラストはよかったのか悪かったのか……」
「ああ、確かにあれはね」
弥生の言葉に、アヴリルも同意する。
物語のラストは、二つの家庭がとある遊園地を訪れて、一つの家族に戻るのだ。姉妹が文通で示し合わせた、最後の作戦だった。
途中の珍しい展開に引き込まれたが、申し合わせたような大団円になってしまい、視聴者としては消化不良というか、肩透かしを食らったような気分になったのだ。
「でも、最後がハッピーエンドで、よか……よかった……」
「あら」
まずいと思ったときには遅かった。
再び込み上げてきた熱いものを堪えることができず、弥生の目からはぼろぼろと大粒の涙が零れ出してしまう。
慌ててハンカチを取り出して目元に当てるが、これといった効果は見られない。一度決壊してしまったものは、中々元に戻らないからだ。
「……顔を洗ってきます」
「ティッシュはいる?」
「意地悪です」
弥生はせめて嗚咽だけは漏らさないように唇を噛み締めながら、足早に席を立つ。
そんな彼女の背中を半ばまで見送ると、アヴリルは近くを通りがかった店員に、コーヒーのおかわりを注文した。
そのままなんとか昼食も済ませて、二人は喫茶店をあとにする。
「これからどうしましょうか?」
弥生がおもむろに尋ねた。
時刻はまだ昼下がりで、外を歩くには充分すぎる明るさである。このまま帰るというのも勿体ない気がするが、アヴリルはどこか行きたいところはないのだろうか。
「では、海はどうかしら? お出かけで海、というのは定番の一つでしょう」
「ああ、いいですね」
アヴリルの提案に、弥生は満面の笑みを浮かべた。
三月の海にどれだけの人が集っているのかはわからないけれど、二人きりになれる場所という意味なら、これ以上ない絶好のスポットと言える。
そうしてやって来た海は、案の定、閑散としていた。
時間帯の問題か、季節の問題か。どちらなのかは知らないが、砂浜に人影はなく、火曜サスペンス劇場のラストシーンのような光景が広がっているだけだ。
このシチュエーションに対して、何をするわけでもなくぼんやりと立ち尽くしてしまう弥生だったが、発案者であるアヴリルはうっとりと海を眺めている。
「海はいいわね。どうせなら、水着でも持ってくればよかったかしら?」
「まだ寒いでしょう」
「寒いと言っても、寒中水泳に比べるとマシだと思うわ」
「それはそうですけど……」
弥生が返す言葉もないといったふうにもごもごと口ごもっていると、不意にアヴリルが何かを閃いたように声を上げた。
「せっかく海に来たのだから、記念に写真でも撮っておきましょうか?」
「え? い、いえ、私はいいです。なんて言うか、恥ずかしいので……」
「あらあら。相変わらず、引っ込み思案なんだから」
こちらの申し出をやんわりと断る弥生に、アヴリルは想像通りだと言わんばかりに苦笑する。
「仕方がない。私まで恥ずかしがっていても埒が明かないし、あなたには私の写真を撮ってもらおうかしら」
「写真と言われても、携帯のカメラくらいしかありませんが……」
「ああ、それなら大丈夫。私がデジカメを持っているから」
そう言って、アヴリルはポケットからカメラを取り出す。
「私は弥生を隠し撮――撮影することが趣味の一つだから、普段から持ち歩いているの。貸してあげる」
「不穏な言葉は聞かなかったことにするとして……。さすが、いいカメラですね」
アヴリルが差し出したカメラを受け取りながら、弥生は感嘆の声を漏らした。手のひらサイズのそれは比較的最新の機種で、説明書がなくても扱いやすそうだ。
「実はこれ、舞から貰ったのよ。タダで」
アヴリルがさらりと衝撃的な事実を口にする。弥生はしばしフリーズしたが、はっと我に返ると、冷や汗を掻きながら聞き直した。
「舞先輩からタダで? これ、今までにも使ったことありますか?」
「もちろん、使わせてもらっているわ」
「撮ったあと、何も起きませんでした? 変なものが映り込むとか、撮られた人の魂が抜けたとか」
「そんな。呪いのカメラではないのだから」
アヴリルはくすくすと笑っているけれど、元の持ち主が悪魔のような人なので、なんとなく怖い。だが、どうやら安全らしいので、ひとまず安心する。
「舞ったら、新しい機種が出ると、つい通販ボタンを押してしまうのだそうよ。要するに、お下がりね」
「そういうことなら納得です」
アヴリルの説明に、ほっと胸を撫で下ろす。そんな弥生の反応にまた一つ笑みを零すと、アヴリルはどこか悪戯っぽい口調で続けた。
「さて。せっかく景色のいいとこに来ているのだし、綺麗に撮ってね」
「ど、努力します」
その言葉を皮切りに、撮影会が幕を開けるのだった。
***
実際にアヴリルを撮ってみると、非常に楽しかった。
シャッターボタンを押すたびに、フレーム内の彼女が表情とポーズを変える。ほんの些細な変化なのに、まるで印象が変わったりもする。
「ふう、こんなものかしら」
ひとしきり撮影したあと、アヴリルが満足そうな笑みを浮かべた。
どこまでも広がる海をバックに微笑む姿はとても絵になっていて、弥生は思わず見惚れてしまう。
しかし、いつまでも見ていては迷惑だろうと思い直し、すぐに気持ちを切り替えて、手元のカメラに視線を落とした。そんな弥生の近くに、アヴリルが歩み寄ってくる。
「どんなふうに撮れているか、見せてちょうだい」
「はい」
アヴリルが弥生の隣に並んで、カメラのモニターを覗き込んでくる。
元々、アヴリルは目立つ外見をしているのだが、こうして枠に収めて見ると、日仏ハーフ特有の整った外見が引き立つと感じた。
「これが一枚目ね。思っていたより、綺麗に撮れているじゃない。ああ、でも表情が少し硬いわね。もう少し自然体で撮りたかったのだけど……。あ、次に行っていいわよ」
「は、はい……」
アヴリルの髪から漂ってくる芳香を意識しないようにしつつ、撮影した写真をひとコマずつ送っていく。
そうして何枚目かの、砂浜をバックに満面の笑みを浮かべているアヴリルを表示した、そのときだった。
「おやおや。これはまた、いい写真じゃないか」
「弥生が撮ったにしては、少しの変態性も見られないのが不思議ね」
いつの間にか、背後に立っていた二人の少年少女が口々に感想を言い合う。
その聞き知った声に半ば反射的に振り返ると、そこには予想通りの人物が佇んでいた。皐と舞である。
「……二人とも、どこから出てきたんです? 海から?」
この状況で最も会いたくない二人の登場に、弥生はひくりと口元を引きつらせながら尋ねた。
「馬鹿ね、私が海から現れるわけないでしょう。海は眺めたり、弥生を沈めたりするものであって、泳ぐのは好きじゃないわ」
「姉さんは面倒くさがりだもんね。べとべとする海水はあとが厄介だから、嫌いなんだよ」
「いえ、そんな話はどうでもいいんですけど」
さらりと補足を加えた皐に突っ込みを入れると、舞はそうね、と頷いた。
「それで、あなたたちは土曜の昼下がりに、こんなところで何をしてるの?」
「それはこちらの台詞よ。舞こそ、水無月さんを放ったらかしにして何をしているの? 皐くんとデート?」
ようやくカメラの液晶から顔を上げたアヴリルが問いかけると、舞は明らかに嫌々といったふうに肩を竦めた。
「弟とデートをするほど暇でもないわよ、私は」
「その台詞は、そっくりそのままお返しするよ」
舞の言葉に、皐が即座に切り返す。
かく言う弥生も、舞とデートをしろと言われたら、地の果てまでだって逃げるだろう。水無月は、よくこんな毒の塊と付き合っていけるものだ。
「ふむ、弥生ほど考えが顔に出る人間も珍しいわね。出にくくなるように、私が形を変えてあげましょうか?」
「え、遠慮しておきます」
本気なのか冗談なのかわからない舞の台詞に、弥生はぶんぶんと首を横に振る。
「まあ、いいわ。私たちは暇潰しに海を見に来ただけよ。まさか、暇だけじゃなくて弥生まで潰せるとは思わなかったけど」
「待ちなさい、舞。今日という日が終わるまでは、彼女を潰しては駄目よ」
「今日が終わったら潰されてもいいんですか!?」
アヴリルのとんでもない台詞に、思わず声を荒げてしまう。
そんな弥生の反応に構わず、舞はカーディガンのポケットから携帯電話を取り出し、嬉々として画面をタップした。
「いつがいいかしら。カレンダーに予定を入れておいてあげるわ」
「た、楽しそうに悩まないでくれる? さっきのは言い間違いだから、まずは私の話を聞きなさい」
「聞くだけならいいわよ」
舞とアヴリルが、わいわいとどうでもいい話で盛り上がり始める。
「弥生さん、ちょっと」
「え?」
ふと気づくと、二人から少し離れた場所に皐が移動していた。
未だ騒いでいるアヴリルと舞には声が届かないと判断したのか、さっきより肩の力が抜けているように感じられる。
「どうやら、天野との仲は順調みたいだね。正直に言うと、君たちの交際がここまで長続きするとは思ってなかったよ」
「ええまあ、おかげ様で……って、皐先輩ってば、そんなことを思ってたんですか!?」
「だって、相手はあの天野だろう? 引く手あまたな高嶺の花じゃないか。そんな天野の心を掴んで離さないなんて、弥生さんも中々やるね」
「色々と返答に困る台詞ですね……」
「僕が言いたかったことは、だ。どんな経緯であれ、君たちが付き合い始めたことは正解だったんだろうっていうことだよ」
妙な言い回しと雰囲気に、おや、と思ってしまう。普段の皐の物言いでもないし、どこか達観した雰囲気は、いつもの掴みどころがないそれとも一線を画している。
そんな弥生の視線を受けても、皐は物怖じせずに続けた。
「弥生さんは何も間違ってないし、天野も間違ってない。二人とも、正しい道を順調に進んでるはずさ」
「道?」
今までで一番意味不明な発言だったので聞き返すが、皐は言いたいことを言ってすっきりしたとでも言うように、表情を緩めた。
「やっぱり、好きな相手にはガンガン攻めていくのが正解だったのかな。尤も、僕の場合は完全に振られたようなものだから、今さら感が拭えないけど」
「よくわかりませんが、このまま私たちに合流するつもりじゃないんですね?」
「もちろん。むしろ、姉さんは僕が引き止めておくから、先に行くんだ。頑張れ、弥生さん!」
漫画やアニメを見過ぎたような台詞だったが、皐に弥生たちと合流するつもりがないというのなら助かる。
彼だけならともかく、弥生には舞を相手にするのは荷が重い。撮影もまだ途中だが、アヴリルを回収して、さっさと場所移動をしたほうがよさそうだ。
そう判断を下すと、弥生はアヴリルに、皐は舞に声をかけ、各自その場を離れることにした。
***
神宮寺姉弟と別れて、足の赴くままに街を歩いていた二人。
そうこうしているうちに、時刻は十七時。楽しい時間が早く過ぎるというのは、やはり本当なのだと実感してしまう。しかも、それが休日ではなく、平日の放課後だったらなおさらだ。
気づけば、気の早い太陽は空に背を向けて、そろそろ月が一人ぼっちになる頃合い。地元に戻った二人が最後に足を運んだのは、街を見渡すことができる神社の境内だった。
「神社には初詣のときくらいしか来ないので、なんだか新鮮です」
「身近な場所に限って、あまり行かなかったりするものだからね」
駅、弥生の家、住宅街。そして、二人が一緒に過ごしてきた高校。丘の中腹にあるこの神社からは、すべてが一望できる。
消えゆく光が染めていく街並みを眺めながら、弥生は感嘆の息を漏らしていた。
「すごい。ここからだと、まるで街が掌に収まるみたい……」
黄昏の世界に見惚れる弥生を静かに見守っていたアヴリルは、そこで軽く頷くと、弥生に向かって手招きをした。
「弥生、こちらへ。ここからの景色も見事なのだけど、私があなたと一緒に見たいのは、この風景なの」
「……桜?」
アヴリルに促された場所から見える風景の中に、たった一本の桜の木があった。それを見つけた弥生の口から、掠れたような驚きの声が漏れる。
その桜はオレンジの光の中で、花びらをいっぱいに開き、優雅に咲き誇っていたのだ。まだ三月半ばなのに次々と花を開くその様は、まるいで狂い咲きのようだった。
「狂い咲き、というわけではないわ。この木は、寒咲の大島桜だからね。私の知る限り、この木が、この街で一番最初に花開く桜よ」
アヴリルは、弥生の驚きを汲み取ったように説明をしてくれる。
「この木は元々白い桜で、それ自体でも綺麗な花なのだけど、一日のうちでこの時間だけは、ほんのりと黄昏色に色づくわ。その姿をあなたと見たかったの」
「アヴリル先輩……」
「それに、今日は弥生がこの世に生を受けた日でしょう? 誕生日プレゼントとして、この瞬間の景色をあなたにあげようと思って」
「……」
黄昏色に色づく最初の桜を見ながら、綺麗、という言葉でさえ表現し切れずに、弥生はただ言葉を失っていた。そのときだった。
「あら? アヴリル姉様に弥生さん。お二人でいらっしゃるとは珍しいですわね。いえ、初めてでしょうか?」
二人の声を耳にしたらしいフェヴリエが、なぜか巫女服姿で現れた。
「フェヴリエじゃない。今日はこちらのお宅にお邪魔していたのね」
「わたくしが働けば、和装と洋物の組み合わせが好きな一部のコアな参拝客が来てくださるそうですから。親族として、手伝わないわけには参りませんわ」
「親族? もしかして、この神社の宮司さんって、フェヴリエさんの身内の方なんですか?」
弥生の問いかけに、フェヴリエはこくりと頷く。
「ええ。母のいとこの旦那様が宮司を務めているのです。ちなみに、わたくしとアヴリル姉様はいとこなので、姉様にとっても身内に当たります」
「そ、そうだったんですか」
「はい。というわけで、どうぞ」
「え? どうぞ?」
聞き返したところで、フェヴリエが何を示しているのか気づいた。
「ええと、お賽銭ですか?」
「ちゃりんと」
「……まあ、そうですね。神社に来たんですから」
催促されたことはともかく、お参りくらいはしておくべきだろう。
アヴリルも同じ考えだったのか、二人は鞄の中から財布を取り出す。そんな彼女たちに、フェヴリエが満面の笑みで語りかけた。
「どうぞ、お二人はご自身の恋路を祈願なさってくださいまし。ちなみに、“地獄の沙汰も金次第”という言葉がございますわよ」
「商売熱心なのはいいことですね……」
情け容赦ないプレッシャーを受けながら、弥生とアヴリルは揃って賽銭箱に硬貨を投げ込み、お参りをした。
弥生はアヴリルとの末永い未来を祈ると、目を開けて、フェヴリエの元へ戻る。すると、アヴリルがまだお祈りをしていることに気づいた。
「何か、長いことをお祈りしてるんでしょうか?」
「真心を込めて祈っておられるのでしょう。作法通りですわ」
願いを口にすると叶わなくなると言われているので、こちらから尋ねるのはやめておこう。
そんなふうに、お参りを終えた二人は、フェヴリエに別れを告げて神社をあとにするのだった。
帰り道も、二人で色々なことを話しながら歩いた。残りわずかな春休みの予定は立ててありますか、とか。新学期に向けた準備は終わりましたか、とか。
たくさんの会話の中で、弥生が英語の宿題で苦戦していることを知ったアヴリルは、後日、個人授業を開いてくれると言った。
幼少期は両親の仕事の都合で海外を転々としていた彼女は、英語とフランス語がほぼネイティブで、日常会話程度ならドイツ語やスペイン語も操れるそうだ。
「ねえ、弥生」
「はい?」
改まってアヴリルに名前を呼ばれて、弥生は首を傾げる。すると、彼女は淡々とした声音で尋ねてきた。
「今日はたくさん邪魔が入ってしまったけれど、私はあなたを楽しませることができたかしら?」
「え? は、はい。それはもちろん」
突然、アヴリルから不意打ちを食らった。反射的に返事をすると、彼女は苦笑混じりに弥生を見つめた。
「本当に?」
本当だ。楽しくないわけがない。
確かに、今日は行く先々で知り合いに出くわしてしまったけれど、アヴリルと過ごす時間はとても充実したものだった。
誕生日プレゼントにしてもそうだ。弥生はアヴリルが一緒にいてくれるだけで充分なのに、彼女はわざわざあの風景を見せてくれた。これ以上ない贈り物と言えるだろう。
弥生はアヴリルの目をしっかりと見つめて、力強い口調で答える。
「本当です。今年の誕生日は、私にとって忘れられない一日となりました」
「そう……。よかった、あなたの素直な返事が聞きたかったの」
刹那、アヴリルの表情が緩んだ。やや切れ長の目尻が、ゆるりと下がる。
その変化で、彼女が緊張していたのだとわかった。喜んでくれたのだとしたら、下手に言葉を取り繕わなくてよかった。
「月が綺麗ね」
ふと隣から聞こえたアヴリルの声に、弥生も顔を上げて、オレンジから濃紺へと変わりつつある空を見る。
「本当に――」
そう頷きかけたところで、弥生の動きは完全に停止した。動きどころか、呼吸まで止まる。
心臓さえ止まりそうな静寂に、弥生の体は捕らえられていた。何かが起きたのだと気づいても、弥生はアヴリルのほうを振り向くことさえできずにいる。
春の夕暮れ。冷え切った空気に晒されていた頬へ突然触れた、熱い感触がなんなのか。
「……あ、あの……?」
たっぷり一〇秒は過ぎた頃、ようやく弥生は事態を把握した。そして、間を置かず、弥生の頬に触れた熱が離れていく。
だが、離れたかと思いきや、まだ熱が伝わるほどに近くからアヴリルが囁いた。
「弥生」
彼女の吐息が頬を擽る。
アヴリルが言葉を紡ぐたびに、微かに唇が触れるほど近くから名前を囁かれるたびに、大人しかった弥生の心臓は、一気に破裂寸前なほどの早鐘を打ち始める。
「ア、アヴリル先輩……?」
「もう一度言うわ。月が綺麗ね」
繰り返される言葉に込められた意味に、弥生はようやく気づいた。
そして、弥生が理解したことをアヴリルも察したのだろう。くすりと悪戯っぽく笑みを零して、アヴリルの唇は、今度こそ弥生の頬から離れていった。
「さっき、私が何を願掛けしたのか、聞きたい?」
弥生は声を出すこともできないまま、小さく頷く。
「私はね、あなたとずっと一緒にいたいと思っているの。死が二人を分かつまで、ずっと。だからさっきは、“弥生と永遠を過ごせますように”とお願いしたわ」
「……っ」
弥生は息を呑んだ。アヴリルが、自分と同じことを考えてくれていただなんて。
そのことを知った弥生は、万感の思いで、アヴリルの手をきゅっと握る。すると、彼女はそんな弥生の手を優しく握り返してくれた。
そして、鼓膜を震わす綺麗な声は、相変わらずの穏やかさを纏ったまま、再び囁いた。月が綺麗ね、と。
©涼水藍那2024.
ルナティック・Honey 涼水藍那 @szm9141
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