第五章 卒業編
第一話 バケーション(1/2)
ハイドンの告別という曲をご存知だろうか。
別れとはいつの時代も残酷なものであるが、卒業に限って言えば、それが全員に等しく一斉に起こるという点に於いて、幾分の救いがある。
告別のように楽器が一つ、また一つと消えていく孤独感を、少なくとも表面的には味わわずに旅立てることは、大きな喜びであると言えるだろう。
三月一日。弥生が在籍している高校にも、ついに卒業の季節がやって来たのだ。
「在校生による送辞。一年C組、小日向優梨」
卒業式の雰囲気に呑まれた弥生がくだらない考え事をしている間に、教頭のアナウンスに呼ばれた優梨が、舞台袖から原稿を持って登場した。
「一年C組、生徒会長の小日向優梨です。三年生の皆様、ご卒業おめでとうございます」
優梨の挨拶は、実に丁寧だった。体育館に集まった誰もが彼女を中心とした新たな学園生活に希望を持ったことだろう。もちろん、弥生もその一人だ。
しかし、問題はこのあとだった。
「本日は卒業生の皆様に、挨拶に代わって、ちょっとした恋の助言をさせていただきたいと思います。教科書に載ってることだけ頭に詰め込んでも、好きな相手の心は奪えません。大切なのは、押し倒す勇気と、肌に触れるタイミングです」
うわぁ、と弥生は思った。形式を重んじる厳粛なる卒業式のスピーチは、優梨の器には狭すぎるものだったらしい。
彼女は手にした原稿を一切見ず、口調こそ丁寧だが、まるで友達に話しかけるようなフランクなスピーチを続けた。
「恋の正体の九〇パーセントは距離感です。状況が味方してくれるときを待つのでなく、環境を自ら作り出そうと思うくらいのアグレッシブさが必要なんです。そのためには、授業中でしょうが食事中でしょうが、恋のトラップを考えるべきです」
在校生が涙ぐんでいる。
刻一刻と三年生との別れが近づいていることに泣いているならわかるけれど、優梨のスピーチに感動して涙を流しているのだとしたら、在校生の将来は大いに案じられる。
「最低限の社会的行動が取れていて、法にも触れず、自分以外の誰かとの幸せを追求している限り、この世界は何をやっても自由です。空気は読むものではなくて、作るものです」
心から役に立たないアドバイスである。
しかし、聞きようによっては、非常に外交的で積極性に富んだアドバイスに取れなくはない。
一方の弥生は、優梨ほどの天文学的サイズの器を持ち合わせていないため、明日にでも活かせるような教訓を、彼女のスピーチから発見することはできなかったのだが。
しかし、これに対する答辞は、それはしっかりとしたものだった。
「答辞。卒業生代表、三年A組、天野・クリスティーヌ・アヴリル」
蜜の色を流し込んだような金髪ハーフアップが、ステージに上がる。スポットライトが当たると、彼女の髪は秋雨上がりの麦畑のように煌めいた。
演壇のマイクを前に、アヴリルはすぐに原稿を読み始めることなく、感慨深げな面持ちでぐるりと体育館を見渡した。
その沈黙に生徒たちはざわめくこともなく、ひたすら彼女の言葉を待った。全校生徒が彼女のことを信頼している証である。しばらくして、アヴリルはゆっくりと口を開いた。
「卒業生代表として、ご挨拶を申し上げます。三年A組、天野・クリスティーヌ・アヴリルです」
彼女の声はよく通る。その硝子のように澄んだ声音は、マイクを通しても変わらないようだ。
「本日は、私たちのためにこのような心のこもった卒業式を挙げていただき、ありがとうございます。生徒会長の有益なアドバイスを胸に、今日、私たち一二一名は卒業致します」
優梨のアドバイスのどこが有益だったのか、凡人の弥生にはやはりわからない。
けれど、アヴリルは優梨への賞賛を交えながら、学園生活を振り返った上での感謝や別れの言葉を述べていく。
いよいよ、今日でアヴリルはこの高校からいなくなってしまうのだ。
卒業証書を受け取るときも、論文の表彰を受けるときも、そして退場するときも、アヴリルはいつもと同じ微笑を浮かべたまま、表情を変えることがなかった。
弥生には、それがひどく物足りないような、寂しいような感じがした。
「アヴリル先輩……」
卒業生が退場したあとはPTAの役員が退場し、続いて在校生の退場となる。
「なんだか、あっという間だったねぇ。私たちも二年後には卒業なんて、嘘みたい」
「そうだね」
他愛のない雑談を交わしていた弥生と水無月は、渡り廊下を歩いて校舎のほうへ戻ろうとする。そのときだった。
「!」
不意に、グラウンドを横切る一つの影が視界に飛び込んで、弥生は思わず息を呑む。
「どうしたの? 弥生ちゃん。いきなり血相を変えて」
「……ごめん、水無月。私、ちょっと行ってくる!」
「え、ちょっ、弥生ちゃん!? ホームルームはどうするのぉ!?」
水無月の叫び声を背中に聞きながら、弥生は在校生の列を抜け出した。さっき、ちらりと見えた影。あれは、間違いなく。
***
「アヴリル先輩。こんなところで、何をしてるんですか?」
予想通り、校舎裏の壁にもたれていたのは、弥生の大切な恋人であるアヴリルだった。
「今頃、卒業生のクラスは最後のホームルームですよね?」
「ええ。だけど、先生のお話ならいつでも聞けるから。それより、今は綺麗に咲いた桜を見ていようと思って」
彼女の微笑がどこか寂しげに見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
「私がここで迎える春はこれで最後。もう、見納めになってしまうからね」
「……好きだったんですね」
弥生が尋ねると、アヴリルは静かに頷いた。
「ええ。校舎裏でひっそりと咲いている、この桜が好きだったの。とてもね」
ひらひらと舞い散る桜の下で微笑んでいるアヴリルの姿は、なぜかとても儚げに見えて。このままアヴリルが消えてしまうのではないかとさえ思った。
だから、彼女をこの場に引き留めたくて、弥生は振り絞るような思いで口を開く。
「先生にいつでも会えるように、この桜だって、アヴリル先輩が望めば、いつでも会えます」
弥生はアヴリルをまっすぐ見つめて、畳みかける。
「見納めになるなんて言わないで、またここへ遊びに来てください」
「そうね。あなたの卒業式にでも、見に来ようかしら」
「……寂しくなります」
思わず漏れた弥生の呟きに、アヴリルは目を細めた。茶目っ気を含んだ、けれど優しい眼差しで、弥生の顔をじっと見つめ返す。
「卒業しても会いに来るわ。帰りが遅くなる日はメールをして。迎えに来るから」
「そ、そんな……」
それはさすがに申し訳ないと、慌てて断ろうとする弥生の先を制して、アヴリルは続けた。
「私がそうしたいのよ。この一年で、あなたはとても可愛くなったから心配なの」
「アヴリル先輩……」
「そして週末には、二人の時間を過ごしましょう。あなたの家でも、私の家でも構わないし、遊びに行くのもいいわよね。連休には、少し遠出をしてみましょうか?」
弥生は小さく頷く。宥めるようなアヴリルの言葉が、心の中にじわりと染み入ったからだ。
「ああ、そうだわ。第二ボタンの代わりと言ってはなんだけど、私のネクタイを貰ってくれる?」
「え?」
「これからも、ここに残るあなたが寂しくならないように。それとも、弥生はこういう古風な習慣は嫌いかしら?」
困ったように眉尻を下げるアヴリルの問いかけに、弥生はぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
「……好きです。大事にします」
優しさに溢れる言葉に釣られて、弥生もちゃんと笑うことができた。
だから、もう大丈夫だと自分では思っていたけれど、アヴリルは、弥生の胸の奥に悲しさの色があることを見抜いていたようだ。
「弥生がそんなに不安なら、とびきりの元気が出る魔法をかけてあげる」
「魔法……?」
思わず目をしばたたかせた弥生を見つめ、アヴリルは甘く囁いた。
「これからも私たちは、絶対に、ずっと一緒にいられるという誓いを、あなたに捧げるわ。さあ、目を閉じて」
アヴリルの指先が、弥生の頬を軽く撫でた。弥生が素直に従うと、唇に柔らかな感触が降ってくる。
それは、契りを交わすようなキスだった。
静かで、優しく、穏やかで。この世の何よりも神聖なもの。
唇の温もりが教えてくれる。彼女の想いが伝わってくる。アヴリルは、弥生のことを心から愛してくれているのだと。
桜が舞い散る春の日、二人の心が、今まで以上に強く結ばれたのを感じた。
口づけは始まりと同じく、緩やかに終えられた。アヴリルはゆっくりと身を引くと、弥生の瞳を覗き込みながら言う。
「大丈夫よ。私と弥生は、ずっとずっと一緒だから」
「アヴリル、先輩……」
弥生の眦に浮かぶ涙が、ぽろりと零れて頬を伝った。
「……大丈夫です。ちゃんと信じられます。例え少し距離が離れたとしても、ずっと一緒にいられるって」
その言葉を聞いたアヴリルは、少しだけ擽ったそうに苦笑すると、小さく首を傾げた。
「それなら、なぜ泣いているの?」
「これは、嬉し涙です」
アヴリルがくれた誓いがとても嬉しくて、自然と泣けてしまっただけだ。
卒業していくアヴリルを見送らなければならない。それは、とても悲しい現実。けれど、弥生の胸は今、寂しさよりも、もっと大きな幸福感でいっぱいになっている。
弥生とアヴリルの関係は、これからもずっと続いていく。彼女がくれた未来の予感は、卒業の寂しさ以上に、胸を甘く切なく締めつけるようだった。
卒業するアヴリルに負けないように、弥生ももっと成長していきたい。なぜなら、大人になっていくアヴリルは、今まで以上に弥生の心を奪うから。
***
空も、木々も、そして人々も、冬の重い衣を脱ぎ捨てたくなるような、柔らかい日差しが降り注ぐ三月十四日。
春色に染まり始めた街並みを眺めながら、私は駅前へ続く道のりを歩いていた。
「待ち合わせ時間まで、あと二〇分くらいかな」
ちらちらと時計を見ながら、弥生はゆっくりと踵を進めていく。
気づけば幸せで頬が緩んでしまうのは、三日ぶりに会うアヴリルの笑顔が、自然と頭を過ぎってしまうから。
『弥生、一つ聞きたいのだけど。二〇日の放課後は空いているかしら?』
『はい。ちょうどその日はバイトも休みなので、特に予定はありません』
『そう。では、一旦帰って着替えてからでいいわ。あなたさえよければ、映画でも観にいかない?』
そんなやり取りをしたのは、つい数日前のこと。いつものようにさらりと話を振ってきたときの、しかしこの上なく優しい彼女の声は、今でもはっきりと思い出せる。
アヴリルとのデートは、これで何度目になるだろう。
イベントや大切な日はいつも二人で過ごしてきたけれど、彼女が高校を卒業してからは、これが初めてのデート。
だからなのかはわからないが、昨日はほとんど眠れていない。その様子は、まるで初デートに浮かれる男子生徒の状態とでも言うべきだろう。
そして結局、弥生が目的地に辿り着いたのは、予定時刻の十五分前だった。
「確か、待ち合わせ場所は、っと……」
時計から顔を上げて、軽く周囲に視線を向けてみる。すると、人混みの中でも、ひと際目立つ金髪ハーフアップが視界に飛び込んできた。
「アヴリル先輩、もう来てたんですか? すみません、お待たせして。急いだつもりだったんですけど……」
「いえ、大丈夫。私も今、来たところよ」
そんなベタすぎる言葉を交わしたのち、二人は肩を並べて歩き出した。
「それにしても、こうして改めてデートをするのはいつ以来かしら? やっぱり、同じ学園に通っていないと、どうしても顔を合わせる機会が減ってしまうわね」
「寂しいですか?」
「当然よ。そういう弥生はどうなの?」
「……私も寂しいです」
アヴリルに尋ねられるがまま答えると、彼女は弥生の手を取り、指を絡めて握り締めてくる。
元々、さり気ないエスコートが上手いアヴリルではあるけれど、こうしてふと見せる恋人らしい仕草に、弥生はいつもドギマギさせられてしまう。
だが、今の気持ちは偽らざる私の本音だ。アヴリル先輩が大学に通い始めれば、自分たちがこうして会う機会は、ますます減ってしまうのだから。
今はちょうど、学生たちが帰路に就く時間。街を歩けば、そこかしこに制服姿の学生たちの姿が窺える。
どこかの女子校の生徒らしき集団が道を横切っていくのを眺めながら、アヴリル先輩は目を細めていた。
「やっぱり、アヴリル先輩からすると、懐かしく感じますか?」
「ええ。まだ卒業から少ししか経っていないのに、こんな気持ちになるとはね。これまで当たり前に通っていた場所が、今はひどく遠くに感じるわ」
「でもそれは、それだけ学園生活が充実してたっていうことですよね?」
「そうね、その通りだわ」
弥生の問いかけに、アヴリルは力強く頷いてみせる。
「あの高校で過ごした三年間。私は後輩の規範となる、いい先輩でいられたかしら?」
「もちろんです。生徒会長としての役目も、立派に果たされましたし」
一年生の頃から生徒会役員を務めていたというアヴリル先輩は、教師の間でも歴代最高の生徒会長と称され、一般生徒からの信頼と人望も厚い。
生活態度も真面目で、成績も問題なし。何より、彼女の持つカリスマ性と面倒見のよさは、誰もが認めるところだろう。
そんな彼女だから、ミッション系の大学の推薦入学の話に事欠かなかったことも、当然だと思う。
「そう。あなたにそう言ってもらえると、なんだか自信が湧いてくるわね」
アヴリルは満足そうに頷くと、小さく首を振った。
「実際、卒業をしてみれば、この三年間はまるで夢だったように思うわ。楽しくて、幸せで、充実していて。目を覚ましたら手から零れてしまう、そんな夢だったのではないかしらって」
言いながら、アヴリルは自分の掌を開いて、じっと視線を落とす。
その気持ちは、弥生にもわかる。幸せなときはいつも短くて、春に咲く桜のように、すぐに去ってしまうから。でも、それでも。
弥生はアヴリルの手を取り直して、改めて握り締めた。
「でも、手に残ったものもあります。例えば、思い出とか……」
「あなたとか、ね」
二人は、再びぎゅっと手を繋ぐ。
「では、そろそろ行きましょうか。ちょうどバスも来たことだし、これに乗り遅れると、映画にも間に合わなくなってしまう」
「そうですね」
そう言って、二人は手を繋いだままバスに乗り込んだ。とりあえず、近隣で一番大きな街で映画を観ることにして、そこから先は決めていない。
「行き当たりばったりになると思いますけど」
「それも楽しいと思うわ」
そんな会話をしているうちに、バスが目的の街に辿り着いた。
ステップを下りれば、大きなビルが建ち並ぶ。二人の地元もそれなりに人口は多かったが、やはり商業地とは賑わいが違う。
映画館がある繁華街までは少し歩く必要があるのだが、休日ということもあり、人通りは多い。
そんな中、アヴリルの姿はよく目立った。進行方向から歩いてきた女性たちも、彼女を見て、綺麗だのなんだのと囁いている。
(もう少し、私もお洒落をしてくるべきだったかな)
ピンクのパーカーと赤いミニスカート、レースハイソックスにスニーカー。
別におかしくないというか、弥生のほうが女子高生的に普通だと思うのだが、ガーリー系のアヴリルと並ぶとカジュアルすぎて、自分がコーディネートを間違えた気分だ。
「まあ、容姿の上品さも関係してるんだろうけど」
「何か言った?」
「あ……。いえ、大したことじゃありません。それよりほら、着きましたよ。早く入りましょう!」
折よく映画館が姿を現したので、誤魔化して入場を促す。ひとまず、今は映画を楽しむことにしよう。
©涼水藍那2024.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。