第五話 デボーション(5/5)
飛ばした意識は何度も呼び戻されて。なんのために着ていたのかわからなくなったサンタコスは、とっくにベッドの下に落とされて。
そうして、弥生とアヴリルはひたすら快楽の波に揺蕩い、奔流に飲まれた。
――まだ冬の陽が昇り切らない、ぼんやりとした薄闇の中。うっすらと瞼を持ち上げれば、深い灰茶色の瞳が弥生を見つめていた。
「やりすぎてしまったわね」
そう嘯く彼女は、まったく反省なんてしていないに決まっている。愛しげに弥生を見つめ、しかし次の瞬間、口角を吊り上げて小さく笑う。
「だけど、昨夜のあなたは、いつにも増してよかったわ」
その満足げな口調。朝から本当にやめてください。
けれど、お互いに横向きで向かい合う体勢で、アヴリルの温かい腕に包まれて、言葉こそないものの、やっぱり幸せだな、と実感した弥生であった。
今日はこの部屋で一緒に身支度を整えて、登校する。弥生は和菓子店のアルバイトが、アヴリルは生徒会長の仕事がないので、帰りも一緒に下校するのだ。
残念ながら、明日には旅行中の両親が帰ってくるのだが、今夜はイブなので、校門前で待ち合わせをして、近所のスーパーで買い物をして、また二人で過ごす。
実はあの悲しい日曜日、弥生はそれでもアヴリルのために革手袋を買いにいった。綺麗にラッピングが施されたそれは、勉強机の引き出しの奥に、そっと仕舞ってある。
昨夜、アヴリルが開けたのがクローゼットで本当によかった。まさか、あんな想像もつかないものが出てくるとは夢にも思っていなかったけれど。
それに、昨夜のアヴリルは後半こそいつも通りではあったものの、なんだかとても可愛かった。
夜のアヴリルといえば、物慣れない弥生をリードしてくれるテクニシャンというイメージが定着していたのに、彼女のほうもいざ攻められると、あんなふうになってしまうなんて。
切なげな表情も、あれほど快楽に喘ぐ声も初めてだったから、思わずきゅんと来てしまった。
あくまで前半までとはいえ、昨夜のアヴリルがあまりにも可愛らしかったので、思い出した弥生の口元が少し緩む。
こうしている今も絡み合っている両脚。実はしっかりと起きている彼女の存在を感じられて、つい笑い声が漏れた。
「何を笑っているの?」
「いえ、なんでもありません。ただ、昨夜のアヴリル先輩が可愛かったなって……あっ」
刹那、彼女の顔がぴくりと強張った気がした。
弥生ははっと口元に手を当てる。いけない。こんなことを言ってしまったら、また。これまであんなに学習してきたというのに、まだまだ足りていないようだ。
調子づきそうになって慌てて口を噤んだけれど、彼女は腕を解いて、ぷいと反対方向を向いてしまった。自分だって、さっき同じようなことを言っていたくせに。
とはいえ、アヴリルの丸みを帯びた肩や、滑らかな背中を見つめていたら、だんだんおかしな気分になってきた。ちょっと、どうしよう。
彼女が弥生にこんな姿を見せるのも初めてかもしれない。
まだまだアヴリルの新しい顔を知ることができる。そう考えただけで、弥生は心の底から嬉しくなってしまった。
そこに鳴り響くアラームの音。もう起きる時間だ。
思いのほか、あっさり機嫌を直してくれたアヴリルと一緒に、弥生が作った朝食――パストラミとチーズを挟んだマフィンとコーヒーだけだが――を済ませ、順番にシャワーを浴びた。
冬空の下も、アヴリルと並んで歩けば寒くない。彼女の手が弥生の手にそっと触れて、密かに指が絡められる。たったそれだけのことで、泣きたいほどの幸せを感じてしまう。
明日の朝はまた別々だけど、きっとアヴリルの手には、例の革手袋が嵌められているはず。その光景を想像して、また胸の奥が温かくなる。
家を出て、通学路を歩くこと約一〇分。
坂道を上り終え、校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替えたところで一旦お別れという間際、弥生の耳元に触れた吐息が語りかける。
「今夜が楽しみね。せいぜい覚悟していなさい」
「は?」
蜜のように甘い声は媚薬を思わせるほど官能的で、しかしとても意地悪だった。
そのまま三年生の教室棟へ向かったアヴリルの囁きがいつまでも耳の奥に残っていて、それはどういうわけか、昨夜の一部始終を思い出させて。
弥生は他の生徒たちが徐々に登校し始めている廊下に茫然と立ち尽くすと、一人きり体を熱くしていた。
***
その夜がどんな時間だったのかなど、もはや説明するまでもないとは思うのだが。
放課後に待ち合わせて、お菓子や飲み物をたくさん買って、通学路の坂道を下りたところにある小さなパティスリーでケーキまで購入してしまった。昨夜、あんなに何回もしたんだから、今夜は飲み食いに没頭してもいいよね?
商店街のデリカテッセンは、クリスマスらしく綺麗な設え。
気の進まなさげなアヴリルを押し切って、弥生が買ったチキンレッグのローストには可愛い飾りがついているし、サラダも彩りがクリスマスカラーで雰囲気を盛り上げて、食べるのが惜しくなってしまうほど。
玄関に置いておいた小さなツリーをローテーブルの上に飾って、グラスを出して、ささやかだけどイブを祝いましょう。
ダッテ、クリスマス、ナンダモノ。
「何を言っているの? 今朝のことを忘れたの?」
「ええ……」
やっぱり、報復をするつもりでいるのか、この人は。
あらかた食事が済んだところで、いつものように涼しげな表情ですっと立ち上がったアヴリルは、そのまま弥生の手を引く。
一瞬、抵抗しようかとも考えたけれど、あとのことを考えると大人しく従っておいたほうが身のためだと思い直し、弥生はのろのろと彼女のあとをついて行く羽目になった。
(いやでも、そもそも私、寝不足なんですよ? アヴリル先輩もですよね?)
明日も学校がありますし……と言おうとした弥生の手を取ったまま、アヴリルがサイドランプをつけて、ベッドに腰を下ろす。
ネクタイを解き、セーラー服の襟元についているボタンを外す彼女の姿はオレンジの淡い光を逆光にして、その相貌が濃い陰影を浮き上がらせ、ひどく色っぽかった。
「弥生。もう一度、あれを」
「あれ?」
一方の弥生は立ったままで、手を繋がれた状態でアヴリルを見下ろし、きょとんとしてしまう。彼女の目尻がわずかに緩んだように見えた。
「あの衣装よ。サンタクロースの」
「ええっ、もう嫌ですよー!」
「お願い」
「だって、言うことを聞くのは昨日だけの約束じゃないですか」
「いいから」
心なしか、真剣な目をして弥生を見つめるアヴリルは、まったく引く気配を見せずに、やや強めの口調で言った。もう、この人はやっぱり強引だ。それに、そんなに言うなら自分で出してくればいいのに。
そんなことを思いつつ、弥生はすぐ背後のクローゼットに手をかけた。
そういえば、昨夜の弥生はいつの間にか意識を飛ばして眠りこけてしまったのだが、もしかするとアヴリルはハンガーにサンタコスをかけて、再びここへきちんと仕舞ったのだろうか。そういうところは、さすがアヴリルだ。
心の中で密かに感心しながら扉を開ければ、昨日は奥のほうにかけられていて目につかなかった真っ赤なサンタクロースの衣装が、今日は一番手前にかかっていて。
そして、ポールにかける金具の部分にもう一つ、見たことがないものがぶら下がっている。そこには、白くて小さな細長いペーパーバッグが引っかけてあったのだ。
思わず振り返ると、アヴリルはふっと口元を綻ばせた。
「……これって」
「あなたのものよ。開けてごらんなさい」
ハンガーごと外し、慌てて中を覗けば、包装紙とリボンのかかった細長い箱が姿を現す。丁寧に開けると、出てきたのは箔押し加工が施されたギフトボックスだった。
ドキドキしながら蓋を開ければ、透明感が美しいアクアマリンのプチネックレスがそこに納まっている。
「すごく綺麗……。あの、ありがとう、ございます……」
感極まって、上手く言葉が出てこない。なんだか涙が出てしまいそうで、思わず唇を引き結ぶ。弥生へのクリスマスプレゼントを、こんなふうにサプライズにしてくれるだなんて。
(だからだったの? アヴリル先輩が私の部屋に内緒で入るなんて、普段なら絶対にしないようなことをしてくれたのは)
ギフトボックスから取り上げたプチネックレスが指先に絡み、弥生の誕生石でもあるアクアマリンが淡く光る。
昨日、そのことを白状したときのばつが悪そうな、けれどどこか照れたようなアヴリルの表情を思い出し、笑みと涙と、弥生の胸の奥から溢れ出す温かい何かが一度に込み上げてきて、抑え切れなくなりそうで――。
「衣装も早く」
「……はい?」
「自分でできないというのなら、私が着替えさせてもいいけれど。その服の構造は、もうわかったからね」
「ええっ!?」
ちょっと。ちょっと待ってください。私の中から溢れ出しそうだったこの感情、どうするんですか。どうすればいいんですか。どうしてくれるんですか。
弥生が胸中で声にならない叫びを上げている間も、アヴリルは無言で見つめ返してくる。
その視線はまるで、どこに疑問があるの? 早く着替えなさいと言わんばかり。いや、むしろ、そこはかとなく期待がこもっているような。
そして、弥生はまた逆らえずに。
昨日、反省をしたはずだった。できないことはできないと、はっきりと伝えなくてはならない、と。
けれど、有無を言わせない目つきのアヴリルを前にしてしまうと、やはり何も言えない弥生なのであった。
***
渋々と、再び着替えた真っ赤なミニスカートのサンタコス。
ベッドに腰掛けたままのアヴリルが、昨日とまったく同じように、弥生をじっくりと眺めている。
「まさか、またこの格好で……する、とか?」
「当たり前でしょう。今夜がクリスマスの本番よ」
「……」
「いくら見ても飽きないわね。あなたのその姿は」
「やっぱり、へんた――」
にやりと笑ったアヴリルから突然腕を引かれ、片手で強引に顔を引き寄せられたかと思うと、そのまま唇を塞がれる。ああ、これはもう、いつものパターンだ。昨夜の可愛いアヴリル先輩は、一体どこなの。
「ん、……ぅ」
「何か言いたいことがあるの?」
「んん……っ」
息継ぎの合間にくすりと笑い、不意に唇を離した彼女は、弥生の体の向きを変えて、背後から抱きしめながら片手で髪を掻き上げてくる。
露わになった首筋に唇が当てられて、否応なく期待に震える胸がドクンと脈打つ。彼女は、麻薬だ。
「ま、待ってください。まだ、お風呂が……」
「あとでいいわ」
アヴリルの腕から逃れようとする弥生を羽交い締めにするように、彼女の指先と、ひやりと冷たいものが肌に触れる。
「あ……」
反射的に声を上げれば、纏めた髪を弥生の右肩から前に流されて、さっきのプチネックレスが首の後ろに留められた。
「絶対に外さないで」
そう言って、彼女が後ろからもう一度抱きしめてきて、首筋のプチネックレスに唇で触れる。
その姿を横目に、自身の胸元に指先で触れれば、銀色に光る細い鎖の周りや、胸の谷間にたくさん散らされた赤い所有の印が、熱くなった自分の体温のせいで、その色を濃くしていくのがわかった。
「あなたの体中に、私の名前を書いておきたいくらいよ」
「いっぱいつけたじゃないですか」
「この程度では足りないわ」
「まさか、これ、首輪のつもりじゃないですよね?」
振り返った弥生を見つめるアヴリルの瞳がわずかに見開かれたかと思うと、柔らかく緩んだ。凄絶な色気を纏って細められた灰茶色の双眸は、また弥生を捉えて離さない。
「……そうね、そういうことになるのかしら」
首輪なんてつけなくても、とっくの昔にアヴリルに雁字搦めにされている弥生である。
この間からの出来事で、改めてよくわかった。弥生が彼女から離れるなんて、絶対にできないということが。
恐らく、それはずっと前から。アヴリルと初めて出会ったときから、決まっていたことなのかもしれない。
回された腕に力がこもる。強い力に捉われてなお、もっと捕まえていてほしいと、そんなことすら思った。
「弥生」
吐息がかかるほど近くで囁かれる弥生の名前は、体の奥底にある官能の泉をさざめかせるようなトーンで、肌が粟立っていく。落とされた唇は、まるで弥生の全身を、細胞の一つ一つまでを性感帯に変えていく。
胸元で光るアクアマリンに口づけた彼女は、ちくりともう一つ印を刻んだ。それを舌でなぞるものだから、弥生はまたくらくらとして、すべを任せてしまいそうになる。だけど。
「ま、待って。お願いします。私、も……」
このまま流されてしまえば、うっかり忘れてしまう。
弥生は必死でアヴリルの腕を抜け出して、勉強机の一番下にある引き出しを開けた。取り出した平たい箱には、赤の包装紙に金色の細いリボンがかかっている。
こちらをじっと見つめていた彼女の手を取り、それを載せれば、驚いたような瞳が弥生に向けられた。
「これは……」
「あの、クリスマスプレゼント、です」
「私に?」
「はい。気に入ってもらえるといいんですけど……」
箱から現れたブラウンのレザー手袋が、アヴリルの細く繊細な長い指に、ぴったりと嵌められた。彼女は両の手の甲をこちらに向けてみせる。
「似合う、かしら?」
「はい、とっても。想像以上です」
思わずはしゃいだ声を上げてしまうと、アヴリルがまたその目を細めた。
そういう顔が、また弥生の背筋をぞくりとさせる。肩にかかった長い金髪をさらりと払う仕草も、つと口の端を持ち上げる表情も。
「あなたの首に嵌ったのが首輪だとしたら、私の手に嵌ったこれは手錠ね」
「それ、いいですね。アヴリル先輩も、永遠に私に繋がれればいいんです」
「私はとっくにあなたに囚われているわ」
革手袋の両手が再び弥生を抱きしめて、そのまま体を反転させたかと思うと、ベッドに押し倒される。こんな状況で、なんてずるいことを言う人なのだろう。
アヴリルのほうこそ、自分の一挙手一投足がどれだけ弥生を翻弄しているのか、わかっていない。
こうして、お互いにお互いを繋ぎ合って、心も体もずっとそばにいて、そんなふうに生きていけたらどんなに幸せだろうと思った。
見上げる瞳は、ベッドサイドの淡い光に照らされながら切なげに揺れ、彼女の腕が、弥生の頭を抱え込むように優しく包む。
「ありがとう。来年も、こうして一緒に」
「はい」
「再来年も、その次も」
「はい」
「死ぬまで、私と」
「え? それって……」
一生、私と一緒にいてくれるっていう意味ですか?
咄嗟に聞き返そうとしたけれど、アヴリルはそれ以上を語らなかった。代わりに、くすりと微笑み、弥生の頬を愛しげに撫でてくる。
「メリークリスマス、弥生」
「アヴリル先輩……」
「愛しているわ」
「ん……」
メリークリスマス。
私も、アヴリル先輩のことを愛してます。誰よりも。
そう答えたかった言葉はすでに呑み込まれ、弥生はアヴリルの温かな腕に包まれて、彼女の痛いほどの愛に溺れて、どこまでも溶けていってしまうのだ。
多分、これからもずっと。
©涼水藍那2024.
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