私の彼女に関する論考
たなべ
私の彼女に関する論考
彼女ができました。淑やかでそれでいてどこか豪胆で、とにかく、可愛い可愛い彼女ができました。いつも私を見つめてくれて、清い
私たちは双方ともこれまで恋人がいませんでした。私たちにとって「恋人」とは絵空事でした。だから私たちは最初、歩幅合わせから始めたのです。互いの歩幅で脚を広げて、歩くようにしたのです。初めはちぐはぐでした。まるで丈のずれたオートクチュール。でも一ヶ月経つ頃には、その齟齬も無視できるくらいになって、そうしていつしか彼女の曇りない気色を真横に、街道を歩けるようになりました。それは革命でした。歩幅が変わり、歩行速度が変わり、そうすると今まで見てこなかったものが見えてくるのでした。世界が彼女によって再定義されたのです。そして、これまで私はあまりに色々なものを無視していたと気づくのです。小さくて儚いもの。例えば、募金箱とか、人々の表情とか。私は私を何と権威主義的だろうと思いました。彼女は逆でした。彼女の歩くスピードは私より幾分か遅かったので、どうやら小さいことをよく気にするようでした。それで物事をミクロに見てしまうらしいのです。それ故に彼女は抽象思考が苦手でした。たまに私が概念的な話をすると、ぽかんとしていることがよくありました。私は逆に具体化が苦手だったのです。でもこの二人の短所が、何と歩幅を変えただけで、治ったのです。そして私たちはどんどん意思疎通を簡便化し、いよいよかけがえのない関係になりました。
私たちは色々なところへ行きました。国内なら北海道から沖縄まで、たまに余裕のある時、欧州にも出かけました。彼女は欧州の瀟洒な街並みが好きでした。ただでさえ光で満ちていた瞳がもっと輝きを増していました。七夕に京都へ行った時、それで鴨川河川敷にて星空を、殆ど見えないのですが、頑張って眺めていた時、私は「ああ、彼女はベガなんだ」と思いました。何の捻りもなく、開けっぴろげでしたが、これ以上に彼女の美しさ、清らかさを表す言葉はないように思えました。でもついぞこの言葉を彼女に伝えることはなかったのです。彼女を前にすると、何もかもが覚束なくなって、あれだけ近くに感じていた彼女が、まるで対岸の花魁のように見えるのでした。それがまた詩美で、実に人間ぽくて、醜い欲情の念さえ、彼女は浄化してくれるのです。
初めて海外に行った時、ベルギーのブリュッセル近郊のホテルに初宿泊したのですが、この時はいけなかった。薄らかで艶やかな照明がただでさえ艶かしい彼女の曲面を照らし出して、陶器のようでした。風呂上がりの、湯気を纏った彼女は、水滴をぽたぽた垂らして、タオルの覆いのないところ、つまり露わの滑らかな肌は、大理石を想起させました。そんな彼女が、私の横臥する隣、柔らかいベッドの上に寝転んできたのですから、この時の私の情欲と言ったら、記すにも記せないものでありました。何もしていないのに、彼女の吐息の音でだけで、私の奥には言い知れぬ何かがふつふつと湧き上がっていました。まるで絹のような息。綿のような身体。何度でも私は彼女に指を伸ばしました。人差し指をこう、突き出して、ゆっくりゆっくりと。でもいつまでも彼女には辿り着けないのです。磁石の同極同士のように反発し合って、近付かないのです。いつの間にか彼女はすやすや眠ってしまいました。私はその寝息をさえ愛おしく思って、彼女の吐いた息を全部吸い込んでしまいたく思いました。でもそんな大それたこと、出来ないのです。結局この夜は一指も触れずに明けました。
日本に帰ってからはなおのこと、彼女には触れられなかった。逸れないようにと、夏祭りで手を繋いだきりです。いつも彼女の壊れそうな手は私の手の10センチ先で揺れています。私の腕と同じ周期で揺れています。一度、それでもいいじゃないかと考えました。触れられなくたって、私たちは繋がっている。見えない架け橋が架かっている。肉欲的な邪な関係じゃない。神聖とさえ覚えさせる、神々しい関係だ。日本では人口が減少している。もっと言えば、先進国全体で見ても、人口増加は逓減してきている。つまり、生殖が行われなくなっている。かつて生殖行為はそれ自体ではなく、その結果に意味があった。でも今はそれ自体に意味が寄ってきている感じがある。道具的生殖。フランクに言えば、レジャーとしての行為。要は遊びだ。みんなみんな現実から逃げているんだ。それか現実を直視するのが怖いんだ。だから、遊んで遊んで、安心してるんだ。じゃあそれならいいじゃないか。何もしなくて。彼女に触れられないのは何も恥ずべきことじゃない。私たちは新人類だ。生殖という行為から解放された新たな人類。きっとそうに違いない。
このように考えたこともありました。それで納得していた時代は大いにありました。でも、彼女の隣で眠る度考えるのです。この身体に触れられたら、というか触れたらどうなるんだろうって。やっぱり壊れてしまうのでしょうか、それともやんわり私を受け止めてくれるのでしょうか、それとも…?答えはいつまでも出ませんでした。或る人は触れればいいじゃないと言いました。或る人はそういうのは慎重にすべきだと言いました。一体、誰を信じればいいのです。そう言うと今度は、彼女に直接聞いてみればいいじゃない、と元も子もないようなことを言われるのです。そんなこと最初から分かっています。彼女の意見を聞けばいいなど、付き合う前、彼女の気持ちを推察し、懊悩していたあの頃だって考えていました。何度、シミュレーションしたことでしょう。「手、繋いでいい?」この一言を喉元まで出しかかって、よした日が何回あったことでしょう。手を繋ぐことが私にとって生殖の、肉欲の第一歩のような感じがしているからかもしれません。胃の辺りから発して、食道を通って行くのですが、喉元を過ぎた辺りから、急激に質量が増すのです。「好きです」「愛してます」こういう言葉は何故か簡単に、何事もなかったように出てくるのに、彼女の身体が思考に混じってくると途端に脳がその働きを中断するのです。拒絶しているわけではないと思うのです。私が彼女を拒絶する筈もない、そう思います。これは恐らくですが、キャパオーバーです。彼女の身体に触れたその瞬間に無数の分岐路が現れるのでしょう。それを処理しきれずに、私の脳回路は焼き切れてしまうのです。彼女は不可解そのものです。大量の意味を孕んで、まるで一つの国家が成立しているかのように、私には見えるのです。きっと前世は私が蛍、彼女がそれを眺め愛でる中宮だったのでしょうか。そんな根も葉もない妄想を掻き立てては、勝手に彼女と距離を作ってしまう私がいたのでした。彼女と歩くスピードは同じな筈なのに、身長もあまり変わらないから見ている世界はそれほど違わないだろうに、彼女の見る世界は、私とはてんで異なるようです。彼女と歩いていると、最近、見えない段差が私と彼女とを隔てているように感じます。一段、いや二段くらいあるかも分かりません。確かな実感を持って、この段差は私たちを途方も無く、かけ離れさせるのでした。女性を月に見立て、愛でる風習が幽かにまだ残っていますが、私には、今の私と彼女の関係には、これは大変残酷な例えと思うのです。夜空の月がどれだけ追いかけても、追いかけても追いつけないように、私もいつの間にか彼女に追いつけなくなっていました。あれだけ呼吸を合わせ、折角一緒にした歩幅、歩行速度もいつしか乖離して、前は私の方が幾分か歩くのが早かったのに、今ではまったくの逆です。彼女の歩くのは、さながら流水のようで、人混みをすらすらと躱して、あっという間に目的地へ辿り着いてしまうのです。逸れることも屡々ありました。では夏祭りの時のようにそれを口実に手を繋げばいいではないか、そう思うでしょう。私は、出来ないのです。もうこの頃には、彼女の身体に触れることに対する心理的障壁が、刑務所の塀のようになって、それを越えることは、同時に、耐え難い苦痛を意味し始めたのです。いつしか私はソファで寝るようになって、彼女がただ触れたものさえ、恐ろしく思えてきて、私の暮らす世界はどんどん窮屈になっていきました。私の周りで彼女の触れたことのないもの何て私の身体くらいなものでしたから。私が贅沢を言わなければ、こんな生活も良かったのかもしれない、私の我儘なのかもしれない、私が今彼女という存在を擁してなお、悩み黒ずんでいるのは私の所為だ、そう考えることもあります。彼女に、こんな彼氏で申し訳ない、ごめんなさい、許してください、と心の中で謝り倒すことも多々あります。私はこの苦しみに耐えられるほど苦しみを知らなかった。寂しい男です。苦労を知らぬ人間です。そんな私をそれでも愛してくれる彼女には感謝しかありません。ですが、彼女の私への愛情が増すほどに、私は苦しむのです。それに見合う対価を支払えないのです。無償の愛という言葉もあります。だから、論理的には対価何て支払う必要もないと考えることもできるでしょう。でも私は人間だ。感情があって複雑で、とても言葉では表せられないんだ。傲慢だと批判されるかもしれない、有邪気だと揶揄されるかもしれない。ですが、私はそれでも構わない。私は彼女の愛情に対してそれ相応のものを何かを返さなければいけない。これは論理ではありません。ましてや一般論でもありません。これは私の主観だ。意見だ。陳述だ。だから私は困っているのです。何故って、彼女からの愛情を何かに変換することなど、私には到底出来ぬ芸当だからです。ものをあげるのも違う気がする。「好きだよ」と言うのも「愛してる」と言うのも何か違う気がする。そこで或る人は言う訳です。身体に触れればいいじゃないと。どうやら愛は肉欲とそれに伴う行為によって具現化されると信じてやまないらしいのです。ただ私はこの価値観を理解できるほど、大人じゃなかった。簡単に言えばそういう話でしょう。実際、この考えを信じれば随分、恋愛が楽になると思います。それは大いにある。でも私は彼女の身体を道具にしてしまうことを嫌ったのです。私たちは、流石にまだ結婚とかそういう大事を考えるには尚早でしたから、生殖行為が本来の意味を持たないで行われることは目に見えています。するとそれはつまり、何の為にその行為をするのでしょうか。欲でしょうか、悦楽でしょうか、それとも何か社会的ステータスの為でしょうか。しかし、どれにしろ結局、道具なのです。私は、彼女が道具になる何て信じられない。何よりそんなことしたくない。私も疾風怒濤の思春期を過ぎていますから、その行為で何が行われるかについては大体、表面的にですが、把握しています。初めて人がそういう行為を行っている様子を見た時、これはこれはと思って、それらしき欲動があったことは事実です。でも、いざ今自分事と思ってみると、言い知れぬ嘔吐感に苛まれるのです。
彼女とはいつしか別離しました。半ば自然消滅のような形で、恐らく、今また会ってもあの時と同じく振舞えるでしょう。それくらい自然に私たちは解消しました。それを悲しいとも嬉しいとも困ったとも解放されたとも思わない私の脳がそのことを強く肯定している気がします。
最後に会った時、その別れ間際で彼女が「手、繋いでいい?」と言いました。勿論、異論はなかったので私たちは夜の街道を駅まで手を繋いで帰りました。久し振りに握る彼女の手は、温かくて柔らかくて、何より私の「身体接触論議」を全て粉々に打ち砕いてしまいました。何でこんな簡単なことに悩み切っていたのだろうと思いました。駅の改札前で彼女の手を離す時、離さなければいけないのに、離せなかった。じっと固まっている私の手を彼女の手はするする通り抜けて、行ってしまったのですが、彼女の指先が私の手を離れるその瞬間まで、いや、離れた後も、手に全神経を集結させ、彼女の触感全てを
彼女の写真は全部消してしまおうと思って、スマホの写真ロールで一枚一枚消していったのですが、たった一枚だけ残している写真、というか動画があります。それはあの夏祭りの日の動画です。屋台が両側に立ち並んで、人混みの中を彼女が前になって進んで行きます。手を繋いでいます。そうして暫く口も聞かず黙々と屋台街を進んで行くのですが、彼女は金魚すくいのところで立ち止まるのです。そうして「これやろー」とだけ言って、手を離して、300円支払って、彼女は金魚すくいをするのです。不釣り合いなほど彼女が真剣な顔をしていたので、それをくすくす笑う私の声が入っています。結果、二匹捕れました。それを彼女は「私たちだね」と言って笑うのです。そうしてまた「手、繋ご」と彼女は言うのですが、その声はどこか儚げで揺らいで聞こえました。そこでカメラは捉えるのです。彼女の曇りなき眼を、邪気などどこにも感じさせない清い眼を。頬を紅らめ目を側める純朴たる感情を。
私はこれを信じることにしました。そうして生きています。彼女は私に教えてくれました。肉欲には清いものもあるんだと。守りたくなるような肉欲もあるんだと。この事実は大いなる何かを私に齎したでしょう。それが本当のことか分かるのはいつか、見当も付きません。ですが、それを悠然と待つことが出来るのが、きっと生きることの素晴らしさだと思うのです。
私の彼女に関する論考 たなべ @tauma_2004
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