ある日、に戻った生活

マリアンナがボイトレから帰るところで、細野がふらっと顔を出した。

「よう、細野。どうせ蔀屋を襲ったの、お前だろ」

「お久しぶりなのにいきなりそんなことを言われても、困るわ」

「とにかく、私の邪魔をするつもりなら帰ってくれ。今は忙しいんだ」

「人間として、ですか?」

「あ? どうでもいいだろそんなこと。それに、蔀屋だって関係ないだろ。どうしてそんな関係のないやつらを、回りくどいことをして迷惑かけているんだ」

「関係ないなら、あなたが気にすることはないじゃない。蔀屋のことなんて、私も知らないし。とりあえず、話に付き合ってもらうわ。嫌とは言わないで、もし言ったら、かわいいしーちゃんがどうなるかわからないわ」

「……てめえ、黒野に手を出したのか?」

 マリアンナはその言葉を聞いて、怒りに震える声を出したが、それをなんとか収めた。実のところ、細野は黒野白也の顔と名前を知っているだけで、どうこうしようとするつもりはない。ただハッタリをかけただけだったのだが、それでも十分通用した。マリアンナの気を引くことができれば、こっちの勝ちだ。目の前の憎き吸血鬼さえどうにかできれば、ただの人間の気弱な小娘なんて、どうにでもできる。

「それには答えられないけれど、話を聞いてくれる気になった? それじゃ、早速本題に入りましょうか」

「わかった」

 二人はマリアンナの使っていたスタジオに場所を移した。ここなら、思う存分暴れても許されるだろう。

「それじゃあ、時間ももったいないし。早速話をしましょうか。……いい加減に死んでほしいわ」

「久しぶりに顔を出したと思ったら、それかよ。お前、嵯峨野さんのこと、忘れてないだろうな」

「もちろん。でも、今はそんなこと関係ないじゃない」

「何が関係ないんだ、殺すぞ」

「まあ、落ち着きなさいって」

 マリアンナの恩師――初代嵯峨野マリとでもいうべき人物は、目の前の細野晴に殺されていた。マリアンナ自身も瀕死の重傷を負い、目の前で嵯峨野が庇って死んだ。その時の記憶が、嫌でも蘇ってくる。目の前の存在を見るたびに、体が震えて、汗が止まらなくなる。心拍数が上がっているのが自分でもわかるが、なるべく悟られないようにひっそりと息を深める。目の前の細野晴という存在そのものが、そもそものトラウマになっていた。そんなマリアンナの苦しい呼吸と、恨みを含んだ視線。細野はそれを、的確に見抜いていた。

「……さっさとしろ」

「わかった。そろそろ話をしましょうか。端的に言いたいんだけど、黒野家の人間を私に差し出してほしい」

「なんでだ? 葵さんはもう引退してるし、翠さんは悪いことなんてしてねーだろ。それに、私ならともかく、なんで黒野家なんだ」

「殺すように言われているのよ。知っているというか、あなたは関わってたわよね? 黒野家の汚れ仕事に。昔から恨みを買っていることは間違いないし、復讐って何年経っても消えないものなのよ。だから、その話が最近上がってきているから。ね、お願い」

「てめーがいうとその話に説得力があるよな。そもそも、お前が言える話じゃないだろ。私だって、今すぐにでもお前をぶちのめしたいよ。でも、それは今は関係ないよな。……それは無理だ。黒野家は私が守るっていう葵さんとの約束があるんだ。今はアイツも死にかけのボケたジジイだけど、少なくとも生きている間はその約束を破るわけにはいかないからな」

 細野はそれを聞いて馬鹿笑いした。

「ははは。確かに私が言えた話じゃないかも。……そう。じゃ、代わりにあなたの首を差し出してくれればいいわ。今怒っている人たちも、あなたの首を見れば少しは気分が落ち着くかもしれないわ。また怒りが再燃してきたら、その時は知らないけれど」

「……それも無理だな。どうしてもっていうなら、私を倒してからにしろよ」

「わかったわ。あなたがそれでいいなら」

 細野がとびかかり、指先をピンと張って爪を立てて、マリアンナの首筋めがけて切り裂きにかかる。マリアンナはそれを両手で掴み、ギリギリで受け止めた。細野に対するトラウマが、マリアンナの足を一瞬止めた。その結果だった。

「相変わらず、馬鹿みてえなパワーだな」

「それを止めてるあなたも同じじゃない」

「……てめーと一緒にはされたくねえよ!」

 マリアンナはそれをどうにかして押し返し、パンチを繰り出す。それは細野の頬を的確に捉え、ふっ飛ばした。中に舞った細野の体はスタジオの防音壁にぶつかり、くぐもった音が鳴る。それでも、痛い素振りすら見せずに、再び爪の切り裂き攻撃を仕掛けた。マリアンナは回避しし、じりじりと後ずさりする。全てを躱すことはできず、頬や髪、服が少しずつ切られ、ゴミがたまっていく。これがかつて嵯峨野を殺し、マリアンナを追いやった攻撃。少しずつ薄れていったはずの記憶が蘇ってくる。トラウマと闘いながら、目の前の細野とも戦うのが精一杯だった。反抗すら出来ず、気がついたら壁まで追いやられた。そして、体が壁にぴったりとついたところで、一発のパンチがマリアンナの頬を捉えた。

「っつ!」

 マリアンナの顔面が、分厚い壁にめり込む。そこから引き抜く間もなく、今度は切り裂きがマリアンナの首を狙ってくる。それを両腕で防ぐのが精一杯だった。マリアンナの首は無事だったが、代わりに両腕が切り裂かれ、右腕は完全に切り落とされた。左腕も文字通り皮一枚で繋がっている状態であり、もう手を使った攻撃はできない。

「ねえ、嵯峨野ちゃん。どうしたの? もう終わり?」

「終わりじゃねえよ!」

 止めの一発が来る前になんとか頭を勢いで引き抜き、そのまま頭突きを浴びせる。それは完全に細野の隙をついた一撃で、その額をぱっくりと割る結果となった。

 その一瞬でその場を離れるしかなかった。右腕を蹴り上げ、口で捉える。階段を駆けて降りる。そして玄関のガラスでできたドアをぶち破り、急いで部屋に戻る。出血はすぐには止まらないが、じきに落ち着く。ちぎれた腕も繋ぎ合わせれば、そのうち治るのはわかっている。それよりも心配なのは、黒野家の無事だった。マリアンナにとっては、彼ら一族はどうしても守らなければならない人たちだった。そもそも、さっきの話を思い出せば、少なくとも白也の身が危ない。どういった事情があるかはわからないが、黒野翠から預かったあの馬鹿な一人娘を、細野から匿わなければならない。駆け抜けて十分ほどかかる道を、文字通り飛び越えて一目散に向かった。

 部屋に戻ると、黒野白也はこれから寝ようとしているところだった。パジャマに着替え、リビングでスマホ片手に動画を見ているところだった。とにかく、黒野が無事でよかった。

 黒野からすれば大変だった大怪我をしているマリアンナを見て黒野は驚愕した。怪我もひどく、グロテスクな傷を見て、少し吐きそうになってしまった。

「マリアンナさん、それ……」

「なんだ、これくらいすぐに治る。そんなことより、頼みがある。この腕を縫い合わせてほしい」

「え……」

「文句あるのか」

「いえ……やります」

 黒野が裁縫セットを持ってくる。これを引っ張り出したのは、小学生以来だった。

「これで、いいですか?」

「ああ、頼む」

 まず、左腕から作業を始めていく。腕の位置がずれないように、傷口を合わせてから、針を刺していく。ぐるぐるとまつり縫いで、離れていた腕をゆっくりと縫っていく。

「……これで、いいですか?」

「ああ、これでいい。……それにしても、縫うの下手くそだな」

「すみません……」

「とりあえずくっつけばいいよ」

 その後も、どんどん縫っていく。縫い目は一つ一つ大きさも幅も違うが、それでよかった。三十分ほどかけて。左腕を縫い終わった。次は右腕だ。血を拭い、タオルで固く縛って少しでも出血を抑える。そして、傷口を丁寧に合わせて、左腕と同じように縫い合わせていく。

「痛くないですか?」

「ばーか。こんなもん、へーきへーき。腕を切り落とされたことに比べたら、なんてことない。気にせずやってくれ」

「はい」

 こちらも三十分ほどかけて、処置が終わった。途中、ずっと手の震えが止まらず、終わったときには言いようのない汗となんともいえないストレスが黒野を襲った。マリアンナよりもぐったりた様子だった。それを見てマリアンナが察した。

「お疲れ様、よくやってくれたよ。とりあえず、私はこれから翠さんのところに行くけど、お前もついていくか?」

「え……」

「迷うくらいなら、来い」


 黒野の実家に急いで向かう。腕を隠すため、薄いパーカーを着込み、黒野を背負う。歩けばそこそこの距離だが、走りさえすれば一〇分ほどで着く。まだ感覚のない腕が役に立たないため、しっかりと首に腕を回してもらい、落ちないように促した。

「気張れよ」

「はい」

 全速力で駆け抜ける。出血が酷かったせいで、頭が少しフラフラする。こんな感覚になるのは、本当にあの時以来だ。しかし、そんなことは今は関係ない。走って走って、黒野の実家にたどり着いた。大きな玄関で立ち止まると、黒野をそっと降ろした。

「酔ってないか?」

「私は……大丈夫です。そんなことより、マリアンナさんは……」

「私は入れない。葵さんから入るなって言われてるから」

「葵さんって、おじいさまのことですか」

「うん。隠し事多くてごめんな」

「いえ、今更です。いつも黙って従え、みたいなことが多いですし」

「そうか、それはそうだな。すまん。……とりあえず、翠さんを呼んでくれ」

「……わかりました」

 黒野が家に入り、五分ほどで翠を連れてきた。マリアンナが予定もなく訪問してくるのは珍しい。それだけで

「どうしたんだ。そんなに慌てて」

「いや、細野に襲われて……黒野家を狙うって言ってたから、とりあえず無事を確かめに来た」

「ありがとう。こっちは無事だよ。それより、その腕は大丈夫なのか? さすがに心配だよ」

「あんたの娘さんのおかげさまで、なんとかな。まだ使いもんにならねえけどな」

「とりあえず、それを信じるよ。君が使い物にならなくなったら、今こそ困るから。それに、僕たちを狙うっていうのは本当に言っていたことなのかい?」

「ああ、はっきり聞いた。だけど、正直に言うと、私には守り切れる自信がない。こんなザマだし、黒野白也っていうお荷物を抱えているし」

「そうか。だけど、そのお荷物だけはきっちりと守ってくれないか。僕はこれでも仕事をしなくちゃいけないんだ。僕は僕で、守らないといけない人たちがいる。本来は自分の家族を優先しないといけないんだろうけどね」

 隣にいた白也の頭をそっと撫でる。思い返せばこんな会話をするのも久々だった。小学生の時はよくしていたのだが、高校生になった娘には、こういったスキンシップも許されるのだろうか、とふと考えてしまう。そんなそっとした気遣いに気づかない白也は、それを嫌がってはいなかった。むしろ、嬉しかった。それだけでもここに来これてよかった、心からそう感じていた。マリアンナとの毎日も楽しいが、ここでまた父親と暮らすのも悪くない、一瞬だけ、そう思ってしまった。

「とりあえず、私はを守ればいいんだな」

「うん、お願いするよ」

「わかった。それじゃ」

 二人は歩いて帰った。戻ってきたころには、もう出血は止まっていた。この調子なら、明日には動かせるようになっているだろう。黒野がシャツを少しずらして、首筋をそっと曝け出した。マリアンナにはこれがどうしても魅力的に見えてしまう。思わずかぶりつきたくなるのを抑えて、黒野に一言「いいのか?」と話した。

「はい、どうぞ。マリアンナさんがこれで元気になってくれるのなら」

「……ありがとうな」

 吸血はいつもより激しかった。マリアンナは元気になっていったし、黒野はいつもより疲労感が大きかった。すっかり魂が抜けたように動けなくなってしまった。これもいつものことで、イレギュラーが一つ起こった。しかし、それも終わってしまえばいい。ただ、それだけを祈る毎日が今日も来て、もうすぐ終わる。そして、明日も来て……そうやって、毎日が来ればいい。ただ、こちらもやり返さないと気が済まない。なんだかんだ、古い付き合いの友人は、忘れられないと思ってしまう。黒野の身の安全を任されたのはもちろんだが、『嵯峨野マリ』という吸血鬼として、同胞を取り返すことはしたい。そんなことは翠には関係のないことだ。明日傷が治ればさっそく、その行動に移ろうと決意した。

 

 翌日の日暮れ。

 マリアンナはいつものように、夜の街を闊歩していた。もう腕はくっついていて、動かすくらいなら問題なくできるまで回復した。黒野を一人にしておくのは危ない。リスクはあったが、今は蔀屋を助ける番だ。細野と会話したときに、犯人は恐らく彼女だろうという推測がマリアンナの頭を駆け巡っていた。だとすれば、生きているとすれば、場所は予測がつく。今からそっちに行くのだ。あの例の地下室になら、蔀屋はいるかもしれない。口ではどうでもいいとは言ったが、見殺しにしてしまうのも気分が悪い。生きていてくれ……そう思いながら、マンホールを開けて秘密の地下室へ向かった。

 少し歩いて、例の地下室へと向かう。昔々、人間から襲撃されたときに使っていた、あの地下室。どうせそこにしかいないんだろう。根拠はないが、そんな気はしていた。そして、壁に作られた、変に重そうな扉。それを、力を込めて思いっきり蹴破った。

 マリアンナの勘は的中した。部屋の中には、蔀屋ともう一人、知らない顔の少女がいた。細野が言っていた、『扉に爆弾が仕込まれている』という話は、これもハッタリだった。そんなこと、マリアンナは知らなかったが。

「よう、蔀屋。助けに来たぞ。今のうちに逃げるか」

「嵯峨野さんが来るなんて、珍しいですね。細野に捕まった時には、もう殺されるだろうって覚悟してました」

 そんな二人を、瀬田が止めに入る。蔀屋のことは無視し、マリアンナに殴り掛かった。マリアンナはごく自然に、その拳を、腕を払って無力化した。

「あなた、誰ですか!? 蔀屋は渡しませんよ」

「おい、蔀屋。こんな雑魚にやられてたのか」

 二人の喧嘩はすぐに終わった。マリアンナが瀬田の髪を掴み上げ、放り投げた。放り投げられ、壁にぶつかった瀬田はその一撃で力の差を察したのか、それ以上マリアンナを攻めることはしなかった。蔀屋がマリアンナに礼を言う。

「ありがとうございます、嵯峨野さん」

「もうその名前は出さないでくれ」

「……すみません、マリアンナさん」

「こっちこそ遅れてごめんな。どうせお前のことだろうからどっか行っているんだろうと思ってた」

「いえ、こんな私に目をかけてくれて、何よりです」

 そうして二人は帰っていった。


 破壊された扉。何かツンとくる匂い。部屋に残された瀬田は、ひたすらに細野の帰りを待っていた。時計は部屋に置かれていない。携帯電話も持っていない。感覚で何時間か待った頃に、細野が帰ってきた。

「おかえりなさいませ、細野さん」

「蔀屋は?」

「逃げられてしまいまして。申し訳ございません」

「……嵯峨野ってやつが来たんでしょ?」

「はい、その通りでございます。その人に襲われまして」

「なら、いい」

 実は細野は、本気で黒野家を狙っているわけではなかった。確かに、ある人物から黒野家の抹殺を依頼されていたが、それに本気で乗りたい、とは思っていなかった。とりあえず、マリアンナを襲撃して、黒野家を守る、という意識も固めさせる。初代嵯峨野マリを手にかけ、その恋人だった黒野葵の人生を狂わせた張本人だからこそ、できることだった。今はもうそんなことに興味はないし、何にも縛られずに生きていたかったが……。それは細野には無理な話だった。なぜなら、もうそんなことに関わりたくない、というのが彼女の本音だったから。もう誰とも喧嘩したくないし、血生臭いこともしたくない。だからこそ、この部屋の扉の件も、黒野家を襲撃するという話も、全てハッタリだった。それが黒野家とマリアンナを根本的に救うことにはならないし、今度は細野自身が命を狙われるかもしれない。そのことは承知しているが、それが、かつてマリアンナにやったことへの贖罪のつもりだった。

 

 黒野と蔀屋の生活が、いつも通りのものに戻った。あれから細野と出くわすことはなかった。蔀屋も学校に戻っていった。黒野はとても嬉しかった。二人の学校生活と、マリアンナとの日常生活。この二つが穏便に進めさえすれば、黒野白也にとって、これ以上の幸せはなかった。





 


 

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世界の外で会おうよ 小森悠大 @yuukomori

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