堕落した神の戯れ

亜済公

堕落した神の戯れ

 調べてくれ——と、友人から頼まれた。学芸員という仕事柄、こういう頼み事はしばしばあった。曰く、どうしても急ぎの用なのだという。日比野が思うに、友人の我が儘を断れないのが自分の美徳であり欠点でもある。そういうわけで、日比野は平日の真っ昼間に仕事場を早退することになった。


   □□□


 調査を終えると、もう日が暮れる頃合いだ。

 古ぼけたアパートが、夕焼けで赤く染まっていた。うっすらと雲が出ているせいで、陽光はひどくくすんだ色をしている。赤の絵の具をチューブからひり出し、カビだらけの流しにひと月も置けば、ちょうどこんな具合になるだろう。生ぬるい風を浴びながら、日比野はアパートの階段を上った。

 違和感を覚えたのは、部屋の前まで来たときだった。錆の浮いたドアの向こうから、いやな臭いが漂ってくる。埃っぽく、酸っぱく、いやに堕落した臭気だった。部屋を間違えたのだろうか? 日比野は表札に視線を投げる。間違いなく、友人の部屋だ。おかしい、と思う。胸がざわついた。つい先週まで、部屋はいたって平凡な様子をしていたはずだ。確かに友人は貧しさゆえに、少しばかり臭ってはいたが——それをいうなら、このアパート全体がなんとなくかび臭い。ドアの向こうから漂ってくるのは、まったく異質な臭気なのだ。

「……倉本? おーい、いるのかい?」呼び鈴に触れた。やけに明るいひび割れた音色が、閑散とした廊下に響いた。「いるのかい? いるんだろう? ぼくだよ、日比野だよ」両手でドアをがんがん叩く。いやな予感がした。「倉本! なあ、倉本!」

 もしや、と思った。あれこれと悩みを抱えている様子はあった。友人が少ないこと……給金が少ないこと……非正規雇用の契約が更新されなかったこと……。この頃はギャンブルに入れ込んで、胡乱な会社から借金していた。一攫千金をもくろんで、当然のように焦げ付いている。

 いよいよ生きていることに耐えられなくなったのか——日比野はなおもドアを叩いた。

「……………………開いてるよ」

 不意に、か細い声が聞こえた。うわずった、変な声色だった。

「なんだ、脅かさないでくれよ。入ってもいいね?」

 日比野はドアノブを握る。いやな感触があった。つい先ほどまで誰かが握っていたかのようだ、人肌めいて温かいのだ。金属の冷たさが感じられない。

 ギィ、とドアは悲鳴に似た音を立てた。

 向こう側には、ぽっかりと暗闇が広がっている。なにも見えなかった。

 夕日を背に浴びながら、慎重に足を踏みいれる。いつになく陽光が頼りない。上がり框を越えた先は、もうまあったくの闇だった。手探りで電灯のスイッチを探す。見つからない。

「早く来てくれよ、日比野。俺はもう待てねぇよ、待ちたくねぇよ……早く」すすり泣くような声だった。暗闇の向こうから、ずるずると鼻をすするような……なにかを引きずるような……そういう音が聞こえてくる。

「ああ、だけど」日比野はためらった。「あんまり暗いから、これじゃ資料が読めないよ。頼まれてたやつ、ちゃんと調べてきたんだけど」

「簡単でいいんだ」倉本がいう。「お前が説明してくれれば、もうそれで十分だからさ」

「そうかな」釈然としない。

 靴を脱がずにためらっていると、やがて奥から苛立たしげな声が響いた。「電気は止められちまったんだ! 暗いくらい構わねぇだろ、早く来てくれ……俺は、ずっと……お前を待ってたんだから……」

 真っ暗な廊下を進んでいった。ドアが甲高い悲鳴を上げて——バタン、と閉じる。それっきり、視界は闇に包まれてしまった。自分の立てる足音と、奥から聞こえてくる倉元の声と、壁の手触りが頼りだった。ゆっくりと進んでいく。倉本の声に誘われ、右に左に廊下を折れる。おかしいな、と思った。この古ぼけたアパートで、こんなにも広い部屋があっただろうか? 視界があまりにも暗いせいで、感覚がぼけているのかもしれない。

「どこだい? ねぇ、倉本」

「そこだ。そこでいい」声が、すぐそばで聞こえた。「本当に調べてきてくれたのか? 俺は……なんていうか、嬉しいよ。お前は友達だよ。こんなにいいやつだとは思わなかったんだ。本当だぜ、感謝してるんだ……なあ、すごいよ、本当に」本当に、本当に、と倉本は繰り返す。「前から気のいいやつだとは思ってたけど」

「大したことじゃないさ。国会図書館でちょいと検索をかけただけじゃないか」

「それでも、すごいよ。お前以外に、頼まれてくれるやつなんていないんだから」

「参ったな」日比野は頬を掻いた。どうもこの友人は、自分を買いかぶり過ぎている。「あのねぇ、一般的に『友達』ってのはこれくらいやってあげるものなんだ。きみが感激しているのは世間一般の常識ってやつで……いや、いいけどね」とにかく、と続ける。この際だ、照れ隠しにいつもの説教をやってしまえ。「きみはもう少し、社交的になるべきなんだ。ぼく以外にも友達を作らなきゃ、精神的に不健全だよ。つまり……一人の友人に依存しすぎているってことだ。わかるかい? もしもぼくが、きみ以外の人間に人生の大半を捧げるとしたら……」

「そんなことにはならないよ」

「なるかもしれないじゃないか! ぼくが誰かと結婚して、きみと今のように付き合えなくなったとしたら? きみはひとりぼっちになってしまう。そうだろう?」

「……大丈夫さ」引きつったような笑い声が、暗闇のどこからか聞こえてきた。「つまりこういうことだろう? お前は俺との友情より、自分の人生を大切にする。俺も同じだよ。わかってる。人間関係なんて、元より永遠には続かないんだ」

「そうじゃない。そうじゃないよ、それじゃまるでぼくがきみを棄ててしまうみたいじゃないか。ぼくがいいたいのはね……」

「座れよ」倉本が遮った。ずるずるという音が聞こえた。鼻をすするような、なにかを引きずるような、どこか堕落した音だった。「見えないだろうけど、お前の右足のあたりにクッションがある。いつもと同じ間取りだから、なんとなくわかるだろう?」

「……うん、なんとなくね」いわれたとおりに足下を探った。確かに、クッションのようなぶよぶよとした物体があった。腰を下ろす。足を思い切り伸ばした拍子に、なにか湿っぽいものに触れた気がした。気味が悪い。慌てて足を引っ込める。「だけど倉本、この臭いはなに? 外にまで漏れてたけど」

「掃除があんまりできてないんだ」

「……痛い。これは?」日比野は右手に触れたなにかを、指先で恐る恐るつっついた。全体に細かなトゲが生えている。どくどくと脈動し、痙攣しながら闇の奥にするりと消えた。ひえ、と思わず悲鳴を上げる。「なんだいなんだい。間取りは同じでも、ずいぶん様子が変わってるじゃないか。さてはセールかなにかで、また変なものを買ってきたんだろう? 無駄遣いはやめなって前にあれほどいったのに……」

「いいんだ」倉本は寂しげに答えた。「それより、どうだったんだよ。調べてくれたんだろう? 例の神社について……なあ……」

「文献がずいぶん少なくって、簡単なことしかわからなかったんだけど」日比野は曖昧な記憶を辿った。暗闇が恨めしい。電灯が少しでもついていれば、資料を正確に読み上げるところだ。複写して、背中に負っている鞄の中へわざわざめいっぱい詰め込んできたのに。「どうも昨今の学術界では、俗に『賭博邪神』なんて呼ばれてるらしいね」

 元々は、『邪神』などという胡乱なものではなかったらしい。最古の文献に描かれたそれは、至極まっとうに崇拝され、地域に根付いているようだった。古墳時代から飛鳥時代まで、山間部や交通の要衝となる村落で栄えたという。それがいつしか『邪神』に変わった。同時に信仰は衰退し、今ではいくつかの小さな遺跡が辛うじて残るばかりなのだ。遺跡の周辺地域では、わずかな伝承が残されている——曰く、信仰者と関わるな、と。

「……なんでだ」倉本が唸る。「なにがどうして、まっとうな神様が『邪神』になる?」

「事実がどうかはわからない。なにしろ、古代の話だからね」昼間に読みふけっていた資料の一節を、脳みその奥から引っ張り出した。「伝承がいうには、この神様が『堕落』したせいなんだってさ。賭博に夢中になるあまり、信仰する人間にまで自分と賭けをさせはじめた。神様だから強いのなんの、人間たちは一人残らず身ぐるみ剥がされてしまったんだ。それだけじゃない。財産を取るばかりか、命まで賭けさせた。とんでもない話だろう? 結果、恐れられる『邪神』になった……」

「お前は?」倉本が問うた。「この話を、どう思ってる?」

「そうだね……正直、いかにも昔話って感じがする。ぼくはもう少し現実的に解釈したいな。つまりね、賭博に耽溺したのは『神様』である以前に、信仰者たちだったんだよ。彼らが賭博に溺れるあまり、地域社会は腐敗して最期には滅亡してしまった——結果、周辺の地域に住む人々は『賭博邪神』の仕業だと恐れおののくようになる。一種の教訓譚だね」

 自分の考えというよりも、ほとんど受け売りに近かった。民俗学者の柳田国男が、そんなことをいっていたのだ。賭博邪神は、元は祖霊信仰や産霊信仰と結びついた地域神であったという。そこに『賭博文化』が結びつき、やがて周辺に住む人々の視点で『堕落した神』として描かれた。

「さすが、学芸員ってとこだな。説得力がある」ちっともそう思っていない様子で、倉本がいった。「それじゃなにか? 神様はいないってのか?」

「さあ、そればっかりはなんとも。少なくとも『いる』とはいえない。なにしろ、ぼくは神様をこの目で見たことがないからね。……幽霊やUFOなら経験があるけど」

「………………俺は」ギリギリと、歯ぎしりの音が聞こえてくる。暗闇の向こうで、ごそごそとのたうつような物音が聞こえた。「見たんだ! 見たんだぜ、日比野。ありゃ神だ。でなきゃ、説明なんかつきっこねぇよ、神様じゃなきゃ……でなきゃなんだ! なんだってんだ! え? え?」

「落ち着けよ」日比野は、部屋に入ったことを今さらながら後悔した。つん、と堕落の臭いが濃くなった。「なあ、どうしたんだ。急に呼び出して、調べ物までさせて……」

「見たんだ」

「なにを?」

「……洞窟だよ」声は右から聞こえたと思うと、不意に左から聞こえてきた。倉本がどこにいるのか、よくわからない。「仕事だったんだ。山奥に連れて行かれたんだよ。工事現場の作業員で、やたら払いがよかったんだ。トンネルかなにかを作るんだと。荷物を運ぶだけだからよ、楽でよかったんだ。だけど……そうだ、休憩中に、小便でもしようかと思って……」

 帰り道が、さっぱりわからなくなったのだという。太陽は天頂にほど近く、方角さえ判然としない。ふもとまで歩くことも考えてみたが、それでは日給がパァだった。

「そんなに金に困ってたのか」日比野はうめく。「いってくれれば、また貸したのに」

「お前はいいやつだよ」憔悴しきった声で、いう。「とにかくそれで、見つけたんだ。あちこち歩いてるうちに、細い道を見つけてよ……古い道だ……左右に石ころが並んでなけりゃ、獣道と見分けが付かない……」

「どんな石だったの、それ」

「四角く切り出された、普通の石だぜ。苔だらけになってたけどな、あんなのは自然にはできっこないんだ。だから、わかった。人間の道だ、ってな」それで、と言葉を続ける。「歩いて行ったんだ。そしたら、様子がおかしいんだよ。並んでる木が、どんどんでかくなっていくんだ……太くて、何百年も何千年も立ってそうなでかい木が……増えて……臭いも少しおかしくて……そうだ、腐ったような臭いだったんだ。おかしいよな? おかしいと思ったんだ。クソ!」なにかを蹴飛ばすような音が聞こえた。日比野のすぐそばに、べちゃり、となにかが落下する。手を伸ばして触れる勇気は、残念ながら持ち合わせていない。「その先で、洞窟を見つけたよ。天井は俺の頭より少し低いくらいだった。岸壁がたまたま裂けたって感じの、自然にできた洞窟だったね。向こう側まで続いてるかもしれない、なんてついつい考えちまったんだ。もしかしたら、村かなにかがあるかもしれない。だって道が続いてるんだぜ? 工事現場の監督も、そんなことをいってたんだ——周辺にいくつか小さな村があるから工事中は気をつけろ、って。とうの昔に廃村になってるってことだったけど……でも、万が一ってことがありえる」

「入ったのか」

「おうよ。やけに乾燥した洞窟だった。呼吸してると、喉がひりひりしてくるんだ。変だったぜ。おまけに臭いんだからな。鼻をつまみながら進んでいたら、入り口の明かりが届かなくなった。真っ暗なんだ……この部屋みたいに。だからライターを使うことにしたよ。やけに長い洞窟だった。おまけに天井が、どんどん低くなっていくんだ。不安になったな……もしかするとどこにも通じちゃいないのかもしれない、って」

 わけのわからない洞窟で、ライターを使うのは感心しない——日比野の脳裏に、そんな説教が思い浮かんだ。なにしろ閉鎖的な空間だ。どこかからガスが噴きだしていたら、火をつけた途端におしまいなのだ。とはいえ、仕方のないことかもしれない。そんな状況に陥れば、常識的でいろというほうがかえって非常識なのかもわからなかった。

「賭博邪神は」日比野は口を挟んだ。「起源を辿ると、仏教伝来以前にまで遡る。いわゆる古神道ってやつだね。その時代の神殿は自然崇拝を基盤とするから……」

「そうだ」倉本がいった。「奥は行き止まりだった。四つ足にならなきゃいけないくらいの、いやに狭い場所で……」ぜいぜいと、あえぐような呼吸音が断続的に聞こえてきた。「足下にはな、乾燥してしわくちゃになった木の板が転がってるんだ。一つや二つじゃない、たくさん……大半は砕けてるが、いくつかは無事だった。それから、妙な模様の刻まれた石ころと……人間の骨が……骨が……」

「賭博邪神の遺跡については、よく知られたものがいくつかあるよ。きみの見たものとよく似ている」日比野は、文献の記憶を辿った。「岩や洞窟を、自然のまま利用するんだ。周囲には人骨と、それから賭博道具が転がっている。この賭博道具は、盤双六——いわゆる、双六の原型に近いものらしいね。年代は……ええと」

 賭け事については、古く『日本書紀』にも記されている。たとえば六八四年、天武天皇が賭博を見物したとの記録があった。これはサイコロを利用した、盤双六と呼ばれるゲームだ。発祥は古代のインドとされ、日本には奈良時代に伝来している。六八九年には、持統天皇が双六禁止令を発布した。賭博が半ば社会問題と化していたことが、このあたりからうかがえる。賭博邪神が『邪神』とされはじめたのも、おそらくはこの頃のことだろう。

「俺は恐くなった」倉本が、話を続けた。「そこら辺に転がってたもんを、全部蹴散らして逃げてきたんだ。洞窟から出る頃には、ほとんど日が暮れていて……」ああ、と愉快そうに笑う。「ちょうど、今くらいの時間だったっけ」

「すごいじゃないか」日比野は努めて冷静に、いった。それでも強烈な違和感が、押さえようもなく胸に渦巻く。恐かった。今すぐにでも電灯をつけて、部屋の様子を照らしたかった。周囲から、ずるずると変な音が聞こえてくる。「今度はぼくも連れて行ってくれよ。なにぶん廃れた信仰だからね、遺跡は貴重だ」

「無理だよ」力ない声だった。

「……そんなことはないだろう?」

「いいや、無理なんだ。俺はともかく、お前は無理だよ。それにね、あんな場所に行きたいなんてとても正気とは思えないぜ……俺にしてみれば」ずるずる、ずるずる、ずるずる……。異音が聞こえる。「あの遺跡から帰ってずっと、変な感じがしてたんだ。誰かに見られてる気がしたし、時々サイコロを振るような乾いた音が、こう、耳の奥に響くんだよ。からから、からから、からから、からから、ってな」

「まさか」ありえないことではない、と思った。「もしも……もしも、だ。それが『神』であるのなら、きみは……いや」考えた。そもそも自分や柳田の解釈が、必ずしも正しいとは限らない。それこそ、学問的な論争は何度も繰り返されてきたのだから。たとえば民俗学者の折口信夫は、柳田の示す『邪神』像に真っ向から反対していた。

 柳田と折口の論争は、一九二〇年代に勃発している。きっかけは、柳田の主催する雑誌上に遺跡の発掘記録が載ったことだ。『賭博』を信仰の堕落とした柳田に対して、折口は異なる論を展開している。


“——賭博は、偶然性を極限にまで高めた遊戯である。それは生と死の境界をなす「他界」との接触を暗に含むものといえる。賭博において、勝敗は、単に技術や運に還元されるものではない。その背後には、人知を越えた霊的存在の動きが感ぜられる。すなわち古代の村落では、賭博は単なる娯楽にとどまらない。神意を問い、共同体の均衡を図る重要な儀式としての側面をもっていたのである。”


 ここでは、賭博が神事として解釈される。遺跡は神事としての賭博の結果で、敗者は神への贄となる。遺跡から発見される人骨は、つまりこれに他ならない。

「そのうち、俺の身体はおかしくなっちまった」倉本が悲しげな声で、いった。「最初に消えたのは、腕だったかな。傷口さえない……痛みも、出血もないんだ。初めからそこになかったみたいに、ぽっかり消えてなくなっちまった」暗闇の向こうから、ずるずると音が聞こえてくる。「自分が負けたんだ、って直感的にわかったぜ。そんな気がしたんだ。俺は賭けに負けたんだ! どこの誰ともわからないやつと、いつはじまったのかもわからない賭けを、やらされちまったんだ! それで腕を取られちまった……」

「きみはなにをしたんだ?」日比野はうめく。「だって、賭けにはルールが必要じゃないか。なにかしたはずだ。賭けに同意したはずだよ。仮にその神様が存在するとして……仮にだよ! それでも賭けっていうものは、ルールによって成り立つものじゃないか。きみがトリガーとなる行動を、なにかしてなきゃおかしいんだ!」

「知ったこっちゃねぇ」ひひひ、と引きつった笑い声が闇に響く。ずるずるずる、とまた異音が聞こえた。「なんたって神様がすることだぜ、ぜんぶ勝手に決めちまうのさ。それこそ——呼吸をしたら同意と見なす、三歩歩いたら賭けをはじめる、飯を食ったら俺の負け、とかな! 決まってる!」

 賭博邪神——日比野はその言葉を反芻した。

 折口信夫の解釈によれば、賭博行為の伝承は漂白民や外来要素からの影響を受けた『異界』との接触を描いたものだ。では、異界とはなんだろう? 双六の原型は中国から伝来している。海を渡ってやって来た異邦人——これはなかなか説得的だ。古代の信仰者たちは、言葉の通じない人間とコミュニケーションを試みる。双六という盤上遊戯がその媒体になることは、決してありえない話ではない。伝承の歴史的背景には、盤上遊戯の伝来があった?

 だが——もっと突拍子もない妄想が、じわじわと日比野を蝕んでいる。単に海を越えた異国ではない、もっとおぞましい『異界』があったら? この世ならざる存在が、醜悪なゲームを携えて不意にやって来たのだとしたら?

 日比野は暗闇に目を凝らした。心臓が軋んでいる。恐ろしかった。堕落した臭いに包まれていると、今にも気がおかしくなりそうだ。

「賭博邪神はね、倉本」日比野はうめく。「はるか昔に信仰を失った神様なんだ。信仰がなければ力もない。山奥の遺跡でくすぶってるだけだったはずだ。でも……もし仮に」

 重要なのはトリガーだ。倉本は遺跡でなにかを『した』。意識的にであれ、無意識的にであれ、それが神との『賭け』を始めてしまった。賭博が神事であるのなら、たった一度の『賭け』でさえ信仰の復活には十分だろう。偶然にも、倉本は現代でたった一人の邪神崇拝者になったわけだ。そして——信仰を得た神は、目を覚ます。

「腕が消えた次の日は」倉本がうわずった声で、叫んだ。「足が消えちまった! それだけじゃねぇ。部屋にあった椅子もクッションも冷蔵庫も、貯金だって! みんな消えちまうんだ! 俺は『負けてる』ってことがはっきりわかった。なんでかは知らねぇよ、どんなルールの賭けでどんな具合に負けてるのか、俺にはわからねぇ。ただ、サイコロの音が聞こえるんだ。それで、賭けが進んでるってことだけがわかる……でも、でも……」ひと呼吸置いて、続けた。「あるとき、腕が戻ったんだ」

「戻った?」日比野は首を傾げる。「賭けに勝った、ってこと……かな、それは」

「運が向いたんだ。俺だってギャンブルを少しばかりかじってたからな、はっきりわかるんだぜ。風が向いてるんだ。そうなりゃ、しばらくは勝ち続けられる。一ヶ月に一度くらい、こういう大勝ちの日が来るもんなんだ。パチンコでも、競馬でも、麻雀でも……」

 ああ——と、日比野は息をつく。

 事態の深刻さを、ようやくはっきりと理解した。

 自分は選択を間違えたのだ。この部屋に、入るべきではなかったのだ。

 ここには、救うべき友人などいなかったのだ。

「それで、きみは」日比野は吐き気を催しながら、ゆっくりとクッションから腰を上げた。暗闇に目を凝らしながら、腕をそろそろと先へ延ばす。とにかく壁だ。まずは壁を見つけなければ……。「きみはどうしたんだ? 財産をぜんぶ取り戻したのか?」足の先が、棒状のなにかにぶつかった。日比野はそれを、慌てて意識の外へと追い出す。考えてはいけない。どうせ、ろくなものではない。

「大勝ちだよ」自嘲するように、答える。「なくしたものは戻ってきた。一つ残らず、な。それでもサイコロは鳴り止まなかった。からから、からから、からから……何度も何度も振りやがるんだ。そのうち、見たこともねぇオンボロの布きれだの、金属製の板きれだの、変なものが部屋に出てきた……俺は勝ってたんだ。わかるか? 俺は神様から、財産を巻き上げたってわけなんだぜ」

「……電気をつけてもいいだろう?」日比野はすがるような気持ちで問う。「なあ、お願いだよ。ぼくはこれ以上、真っ暗闇に耐えられないんだ。なあ……」

「俺は大勝ちした」倉持はずるずると音を立てながら、いった。声が右に左に揺れている。急に耳元へ近寄ると思うと、今度はいやに遠くなった。「神様が蓄えてた財産を、ぜんぶ手に入れちまったんだ。どういうことかわかるか? 記憶も身体も、神様が巻き上げた人間のすべてが……ぜんぶ俺のものになっちまったんだ」

 日比野の頬に、なにかが触れた。

「なあ、電気を」

「こいつはな、神様に負けた女の腕だぜ」ずるずると音が聞こえてくる。今度は首筋に、なにか柔らかい球体が触れた。「こいつは賭け狂った爺さんの目だ。なあ、わかるか? ぜんぶ俺のものになったんだ。俺の身体になっちまったんだ。腕だけで何千とある……頭も乳も……ぜんぶ腐って、干からびて……俺の身体は無茶苦茶だよ……自分の足がどれなのか、もうわかりゃしないんだ……俺の身体は……こんなの化物じゃねぇか、なあ」

「……ひ」息を飲む。周囲に満ちる闇そのものが、ひどく穢れたものに思えた。ずるずるずる、と異音が聞こえる。堕落した臭いが強くなる。「電気を、でん、……頼むから……」腰が抜けた。床に転がり、日比野は四つん這いでどこかへ向かう。どこでもいい。とにかく、倉本の声から遠ざかればそれでいい。懸命に進んだ。手を伸ばして、周囲を探った。けれど、いつまで経っても壁はなかった。

「こんなんじゃ働けねぇじゃねぇか、なあ。外にだって出れやしねぇ! パチンコ屋にも行けねぇし……そもそもドアをくぐれねぇんだ」暗闇の向こうから、声が聞こえる。「誰かもらってくれねぇかな、なあ。誰かに押しつけちまいたいんだ、なあ」

「なんで!」叫んだ。涙があふれる。「なんでぼくなんだ! なあ、倉本! なんで!」

「他にいないんだ」耳元でささやく声がした。「日比野、お前はいいやつだよ。最高の友達だ。なあ、そうだろう? 俺たち友達だったろう? 家に来てくれるのは、お前しかいないと思ったんだ。だから……」

「……やだ」嗚咽が漏れる。「やだ、ぼくはやだ! いやだ……生きていたいよ、倉本」

「俺だってそうだ。友情より、人生のほうが大事だろ?」

「いやだ……ぼくは……」

 日比野は声を振り払って、なおも闇の中を這っていく。

 不意に、なにかが指先に触れた。小さな、石ころのようななにかだった。日比野はそれを蹴散らして、壁を探しなおも進んだ。

 石は闇の中を転がっていく。からからから、と音がした。

「サイコロを振ったな」倉本がいった。「なにを賭けよう?」

 堕落した臭いが、強くなった。

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