第27話 ふたたび黒い糸


 朱翠影の涼しげな顔に驚きが浮かんだ。


「それはいつの――」


 彼が何か問おうとした時、雌鶏が店内に飛び込んで来た。


「ずいぶんかかりますねえ!」


 甲高く響くきいきい声を聞き、雪華は振り返った。

 今、席の配置は雪華と豆妹が入口側、朱翠影が奥側となっている。つまり雪華が店の入口を確認するには、上半身をひねって後ろを見る必要があった。

 おまけに豆妹は独自のこだわりを持っていて、いつも通路側に座りたがる。今回もその主張を曲げなかったので、壁際に押し込まれた雪華は振り返るのも窮屈な状況である。

 ああ……入って来たのは雌鶏じゃない、例のふくよかな宦官だ。それはそうか、雌鶏は人語を話さない。声の高さは両者ともまったく同じだけれど……。

 通路側にいる豆妹の存在が視界の下方を遮り、初めは宦官の手元が見えなかった。


「――おい、剣をしまえ!」


 朱翠影の鋭い声が響き、雪華ははっとした。まさか――。

 椅子から腰を上げて確認すると、なんと宦官が抜き身の短剣を腹の前で突き出している。雪華はゾッとした。外であれを振り回していたけれど、さすがにもう落ち着いて、さやにしまっただろうと思っていた。

 ――あと二歩でやつは豆妹の真横に来るぞ。


「この天然馬鹿が」


 舌打ちが出る。一発どつき倒すため前に出ようとしてもたついた。通路側に座っている豆妹が障害となり、すんなり宦官の前に飛び出すことができない。

 雪華と朱翠影が殺気立っているのに気づかず、宦官が甲高い声で「あのねえ」と続ける――剣を戯れに振り回しながら。

表情を見るに、威嚇しているつもりはないようだ。小枝を振るような気安さでこんなことができてしまう――その人間性が逆におそろしかった。


「この団子屋に客が来てますよ! ひと月前、こちらのご亭主に金を貸したんですってよ、返してほしいって――後ろにいます――あの人です!」


 は……金? なんのことだ?

 宦官が紹介するように振り返ると、店に別の人間が踏み込んで来た。商人ふうのきっちりした身なりをした男だ。若くもなく年寄りでもない。

 こちらの「ご亭主」に金を貸した――今、そう言ったか? 雪華は鳥肌が立った。

 前のめりになり怒鳴る。


「誰だそいつは!」


「は、あ――? 誰って」


 宦官の口から間の抜けたような声が漏れる。


「うちに『亭主』はいない!」


 住んでいるのは姉妹ふたりきりだ。さらに言うなら、姐姐も雪華も金には困っていない。借金なんてない。

 雪華の発した警告を聞き、全員が信じがたい気持ちで入って来た男を見た。

 あの男、帯剣している――まずい――。

 男が剣柄に手をかけるのが見えた。左の腰に下げた剣を抜いた場合、初撃は横に凪ぐような軌跡を描くだろう。するとまず端にいる宦官が斬られ、そのまま幼い豆妹の頭部を剣先がかすめることになる。宦官が抜き身の剣を持っているから、賊はその手順で斬り殺していくはずだ。

 それで――やつの本当の狙いは誰だ?

 男は店の奥――朱翠影を見据えている。

 ――くそ、狙いは皇帝の弟か!

 敵が剣を持っていて、雪華が丸腰だとしても、自由に動ける状況なら上手く対処できた。けれどあいにく今は自由がない。護るべき者がそばにいる。迎撃すれば自分は助かるだろうが、前にいる豆妹が犠牲になる確率は高い。

 どうすべきか、選択は迷わなかった。

 雪華は右手で豆妹の頭部を後ろから抱え込む――私の細腕でこの子を護りきれるか? 腕ごといかれるかもしれない――では肩なら? 腕より厚みがあるから盾代わりにはなる。

 無我夢中だった。

 精一杯体を前に乗り出し、右肩を剣の軌跡上にねじ込む。

 豆妹はこれで大丈夫――私が斬られているあいだに、朱翠影がなんとかしてくれるはずだ。

 彼も丸腰だけれど、賊相手に遅れは取らないだろう。


「――頼む」


 口中で呟き、横目で朱翠影を流し見た。

 それで彼は――……そんな、どうして……。

 雪華は絶望した。

 朱翠影は賊を見ていなかった。これは完全に雪華の誤算だ――ああくそ、彼はどこまでも真っ直ぐなのだ。

 呆れたことに朱翠影は、豆妹と雪華を護ろうとしていた。

 朱翠影が利己主義者なら、平民の女子供など平気で犠牲にしたはず。敵が初撃でほかを斬ってくれれば、その一瞬、隙ができる。とりあえず自分は広い通路に飛び出して、有利な体勢で反撃すればよい。

 けれど朱翠影は長方卓に片膝を乗り上げるようにして、こちらに身を乗り出していた。その際に邪魔だと思ったのか、あるいは防衛本能が働いたのか、彼が卓上に置かれた茶器を右手で払うようにして、賊のほうに投げつける。

 賊の額にそれが当たり、たたらを踏む。

 豆妹、雪華をかばうように朱翠影の手がこちらに伸びてきた。彼の手のひらが包み込むように雪華の額に触れ――。

 接触と同時に雪華は眩暈を覚えた。縦、横に無数の糸が交差し、視界を覆い尽くす。色とりどりの糸が行き交うさまは圧巻だった。

 雪華は目を瞠った――まただ、この現象はなんだ――?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る