いいからハニー、洗濯入れてよ

@_watashe

第1話

 つまりこれは、ときめきを取り戻す戦いなのよ、エンジェルC。豚バラを焼くにおいが部屋に充満している。真新しいフライパンから上がった煙が、まだきれいな換気扇あたりにのぼっている。豚バラはふちのほうからみるみる焦げて、めろめろしみ出す脂を菜箸でなぞると、太ももに跳ねた。ぱち、ぱち、と、脂は跳ねて、わたしはまばたきをする。キューちゃんはとてもやさしいけど。太ももにピンクの点々ができる。わたし、やさしい人がすきだけど。肉と脂でまっぷたつ、きれいな境目にじいっと見入る。今は、それよりもっと、豚バラを料理したい。

 エンジェルC、と商品名と値段の書かれたタグがついたままの手のひらサイズのぬいぐるみが、焼肉屋さんとはまた違うにおいを吸いながら、中途半端に開いたドアのノブにぶら下がる。向こうには、触ったことのない部分のほうが多いぎこちないワンルームが広がっている。エンジェルAはキューちゃんのもの。仕事用のリュックの内側に居る。ランダムなまるをふたつくっつけたような胴体には心臓の位置にハートが縫いつけられていて、つぶらな瞳ににっこりした口、間違いなく、愛されるためだけに生まれてきた黄色い天使のぬいぐるみ。エンジェルC、わたしは豚バラを料理したい。わかってくれるよね。キューちゃんと暮らしはじめて、一週間とすこし、実家から持ってきたお気に入りの家具と、今までの貯金、バス一本で行ける商業 施設で集めたかわいい雑貨、スーパーへ仲良く並んで歩いて買ってきた数週間分の食材を、駅から徒歩数分の日当たりのいい部屋に詰めこんで、あとはそれを、埃が被らないよう常に磨いたり、足りなくならないようやりくりしたりして過ごせば満点のはずだった。なのにわたしは変だった。ナース服から剥き出しになった腕が脚が、豚バラを焼く熱であたためられて、 わたしも違わず肉の塊なんだってこと、肉の塊、だって! 笑ってしまう。そんな、暮らしのなかじゃ、だれも思わないようなことで、わたし、安心してる。毎日ギターを弾いて歌ってねむるだけじゃ足りないのだ。肉の塊だって自覚が欲しいし、エンジ ェルBは誰のものなのか、知りたい。幼いころからの夢はここじゃ叶わない。そう、つまり、闘いなのだ。わたしはわたしの欲求を完成させるべく、余ったら冷凍しようって思っていた大容量お得パックの豚バラスライスのトレーから残りの一枚を剥がして、フライパンの隙間にねじこむ。わたし今は白衣のナース。恋人を待っているだけでは、足りなくなってしまった。

 玄関の手前、放置した冬用の布団カバーが、うず高く、出入り口を塞いでいる。乱切りにしたなすをばら撒いて、皮のついていない面を下にして脂を吸わせる。けど、キューちゃんのことが好きだ。今までずっとやってきた。高校からエスカレーターで入った大学のサークルで出会って、趣味が合って、デートはいつもときめいて、おなじ映画のおなじシーンを観て泣いて。そのたいせつを、どんな衝動が上回るっていうの? 味つけはどうする、なんでもいいからケチャップにする。冷蔵庫から取り出して、一気に絞り出す。ゆるい液体がぶちゅぶちゅいって、事故みたく広がる。けど、コインランドリーで、千葉県に住むおばあちゃんに電話し終えて、洗濯機のあたたかさをそばに感じながらまどろんでいるとき、散歩している犬が光の向こうからうやってきて、幸せなのに許せなかった。許せなかったの。わたしのなかにインストールされた、改造しようもないシステムが、赤信号を点滅させるの。激安ナース服の粗い縫い目を、もう毛の生えない毛穴を、冬の空気がほそく通って、 お腹が痛くなる。どうしようもなく生活と相反するの。「ただいま」仕上げに塩胡椒を振って、名もなき料理を完成させる。キュ ーちゃん、あなたを選び続けられないことは、わたしの弱さかなあ。おかえりもちゃんと言えないなんて、弱さかなあ。挨拶はちゃんとしなきゃ、いけないのにね。北欧風のプレートに料理を盛りつけて、水に浸して置いてあったパセリをちぎって散らす。「なにしてんの」だって、わたし、生きてるわたしは、完璧に、完膚なきまでに、徹頭徹尾、二度とないくらい、絶対的に、 愛されるために、生まれてきたはず。わたしはIHの電源をピーと切って、センターパートでカメラを見つめるみたく、振り返る。世界を好きな色に塗り替えるまばたきをする。玄関からぽっかーんと間抜けな顔を覗かせるキューちゃんの頭から、布団カバーを被せてその隣をすり抜けて短いスカートが破けそうで玄関でサンダルを裸足に引っ掛けてわたしは言う。 「わたし、アイドルになる!」

 ときめきでしか稼働しないエンジンを積んで、生まれてきたの。全国民から一円ずつもらって大金持ちになるように、どうしても必要な愛を、両親からも友達からも恋人からも天使からも奪っても奪っても足りない愛を、全人類からすこしずつ分けてもらおうと思いついたの。ときめきは衝動だけじゃない、これは完璧な計画なのだから、迷っても大丈夫だと思った。シーツが被さったキューちゃんが息をするために、顔を出す。素早い動作で、ドアのノブからエンジェルCを外して、投げる。「だめだよ、はるかちゃんは、頭がへんなんだから! 僕のところに、いないと!」ぽこんとわたしの頭にぶつかって、転がる。開きっぱなしの扉から、豚バラのにおいが逃げていき、お隣さんが不思議そうにわたしたちの部屋を覗いている。

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