さびしいの

水森 凪

冬の華

 あたり一面、布団をかぶせたように真っ白な雪野原だった。


 新幹線の停車駅だというのに、S駅の駅前は、店や住宅がぽつぽつと白い野原のあちこちに立つだけで、見事に何もない。

 ただ、道沿いに並木のように並ぶ南天の赤い実が、雪景色の中に散らした血のように鮮やかだ。

 葉に積もった雪の上にさらりと降ってきた白い結晶は、かっきりと六角形に枝を伸ばしてきらめいていた。

 ぼんやりと雪景色を眺めていると、背後にいつの間にか宿の送迎車が止まっていた。五十がらみの運転手は、湯治の宿F旅館と書かれた半被を着て車のドアを開けると言った。


「あんた北川、北川麻子さんかね」

「はい、予約していた北川です、宜しくお願いします」

 LLBeanで買ったばかりのダウンの襟元を合わせて、頭を下げる。

「このまま宿行く? 高村光太郎の山荘とか宮沢賢治の記念館とか寄ってかないかね?」

「相当前になるけど、両方回っちゃったんですよ」申し訳ない思いで答える。

「ああ、じゃもう見るもんねえやな。こうしばれるとうちの湯の良さは身にしみるよ」

「この積雪、こっちでは普通なんですか」

「いやここは豪雪地帯じゃねえからむしろ珍しい方だ、家なんで安普請だから屋根がきしきし言ってら、潰れはしねえがよ」そういうと運転しながらカカカ、と笑った。


 三十年前、新婚旅行にこの地を選んだのは夫だった。


 お互い仕事が忙しく、海外に行く時間の余裕はなかった。新婚旅行にふさわしい華やぎも娯楽の類もない過疎の村という印象だったが、寒村の露天風呂が好きなので、特に不満はなかった。

 そのとき宿泊したのは、今回の宿とは比ぶべくもない、懐石料理が自慢の豪華な宿だった。貸し切りの家族風呂につかり、ああ雪国だねえ、極楽だねえと夫は呟き、わたしはただ、ほんとにね、と俯いて返した。

 まだ気心も知れないうちに、見合いでとんとんと決まった結婚だった。


「寒くない? こっちおいで」

 窓の外に降りしきる雪を見ながら、夫は暖かい両足で、冷え性のわたしの足を包んでくれた。ああ、お風呂にせっかくはいったのにこんなに冷えて、と言いながらそっと肩を抱き、わたしはそんなことしたらあなたの足が冷えちゃう、と答えた。そうこうしているうち彼の足の温かさが全身にうつり、ほのぼのとした眠りに包まれた。



「ここだよ、お客さん」

 バンが止まった駐車場から見る宿は、それこそ宮沢賢治の童話に出てくる猫の役場のような、古い古い木造りの宿だった。屋根の軒先から前髪のように長いつららが垂れている。


 温泉というより湯治宿で、食事を断れば自炊もできる。山小屋風のF旅館の周囲はふかぶかと雪にうもれ、あたりは一面銀色に染まった針葉樹林だった。

 凍えるような気温なのに館内暖房はない。つるりとした無機質なドアに部屋番号が書かれた札が下がる様は、まるで刑務所のようだ。

 六畳ぐらいの狭い部屋には炬燵があり、畳は茶色く日に焼けていて、旧型の石油ストーブは有料の貸出し制だ。サッシではなく木枠の窓には隙間があり、容赦なく零下の風が入ってくる。

 窓の外はつららに覆われ、その向こうにはペンキで塗ったような真っ青な空と、光をはね返す真っ白な針葉樹林。

 寒ければ寒いほどいい、北国なのだから。そう思って、厚手の上着を着こみスキー靴下を履き、わたしはこたつに首まで入り込んだ。

 総木づくりの古い建物を思うと、石油ストーブは借りる気がしなかった。


 煤けた茶色い天井を眺めていると、蜜月時代か過ぎてから、夫にされた薄暗いことばかりが次々に思い出される。


 エロ動画をデスクトップパソコンの家族写真フォルダに貼り付けられ、抗議したら「間違った」とだけ言ってさっさと削除して夕食の催促をされた。

 四十二度の熱を出した夜、息が苦しいと訴えたら、自分は外で食事してくると優しく言って出かけて深夜まで帰らなかった。トイレにも起きられない自分を見て、泣きながら救急車を呼んでくれたのは七歳の娘だった。

 絵描きとして初めて出版社からもらったお中元の石鹸を、匂いが嫌いだからと無理やり捨てさせられた。

 たびたびかかってくる無言電話の受話器を思い切って取り、どなたですかどんなご用ですかと尋ねたら、若い女性の声で

「もうじきもうすぐと言ってごまかされてきましたが、奥様、愛されてもいないのにそんなに離婚するのがお嫌なんですか」とまくし立てて切られた……


 寒々とした記憶は心の中に固くしこって、冷たい鉱物のようになっていた。

 積もればいい、もっと深く積もれば何もかも見えなくなると、窓の外に降りしきる雪を見ながら胸に呟いていた。


 炬燵の中で、短い夢を見た。のっぺらぼうの男が白一色の世界の中で灰色のマントを着て、ありもしない落ち葉を掃くしぐさをしている。空から何か灰色のものがおちてくる。なにを掃いているのかと問うと、雪だという。灰色の雪。そして、白い仮面のような顔をこちらに向けていった。


「こんなことしても、無駄なんだけどね。ほら、いくらでもおちてくる。きりがない」

「誰の上にも、降るんでしょ」

「ああ、誰の上にも降る」


 男の姿が遠ざかり、背中が見えなくなると、ふと目が覚めた。


 半年ほど前から乳房に何かしこりを触れるようになり、だんだん大きくなる気がするので病院でMRI検査を受けた。

 閉所恐怖症の母親のために、既婚の娘が装置の外で歌を歌い続けてくれた。あるこう、あるこう、わたしはげんき。

 ありがたいけど、MRI装置の中は工事中のような騒音が続いて、歌はかすかにしか聞こえない。

 いや、聞こえるはずがないのだけど、確かに耳の中に届いていた。


「2,3センチの白い塊が見られますねえ。肝臓のあたりにもあります。すぐに大学病院に行ってください、紹介状書きますから」


 一番悪い予想が当たってしまった。

 総合病院に行き、あれこれ検査した結果、悪性腫瘍の可能性が高いと告げられた。  胸のほかに肝臓にも散らばっていて、リンパ節転移の可能性もあるという。


「まずは一番大きい腫瘍は摘出しましょう。そんなに難しい手術ではないので、あまり心配しないで。ほかの部分の腫瘍については放射線、抗がん剤、いずれがふさわしいか入院中に再検査して決めていくことになります」淡々とした禿げ頭の主治医の言葉で、入院は再来週と決まった。夫は黙って俯いていた。


 病名を聞いてもさほど心が波立ったわけでもない。子どもはもう一人前だし、夫は今は浮気もせず真面目に働いている。二人の間は穏やかだ。けれど、入院の前に雑音のない場所で一人あれこれ考えてみたくなり、一緒に行くという夫を振り切って一人で決めた旅だった。


 今は今の幸せがある、でも自分が見つめたいのはそんな時間じゃない。偽りのどんな穏やかな会話も、夫婦でかわしたくはなかった。真っ白な雪を見たかった。真っ白の雪につかの間光る雪の結晶を見つめたかった。


 ここは湯治宿なので売店も自炊室も充実している。食欲はさっぱりなかったが、散歩ついでに、名物おばあちゃんがいるという宿舎内の小さな売店に向かってみた。

 コカ・コーラと書かれた四角いあかりの下に、売店、と紙に大きな文字で書いてあった。

 木戸をガラガラとあけても、廊下も売店内も気温差はない。多分、気温は一、二度前後だ。


「カップ麺と牛乳、ありますか」


 半纏でブクブクに着ぶくれて眠っているように見えたおばあちゃんに声をかけると、しわくちゃの顔を上げ、嬉しそうに言った。


「そこを右だよ、うちの自慢の立ち湯は。何しろ深いから体の芯まで温まるよ。入ってみな、嫌なことなんかみんな忘れちまう」

「楽しみです。で、カップ麺ありますか」

「ああ、お酒なら濁り酒がお勧めだよ」

 いや、お酒じゃなくてカップ麺……もういいか。


「青菜のおにぎりとわさび漬け、芋の蔓煮もうんめえよ。カップめんはきつねどん兵衛と焼きそばきりだ。いいかね、気持ちいいからって溺れちゃダメだよ」


 つじつまの合わない会話に、根負けして濁り酒と蔓煮を買った。ついでに、袋入りのナッツも。


 まるで冷蔵庫のような廊下を、震えながら戻る。薄緑のリノリウムの床を緑のスリッパでペタペタ叩いて部屋の前に来ると、ドアの前の冷たい床に、お盆に乗せた病人食のようなものが置いてあった。

 夕食の膳だ。完全に冷え切っている。

 木戸に番号の書かれた「囚人部屋のドア」を押してはいると、部屋は廊下より冷え切っていた。

 ダウンジャケットを着てこたつに足を突っ込み、鼻水を垂らしながら食べる。

 味噌汁は水温、ごはんは固く、煮魚の煮汁はゼリーのように固まっている。

 何だか今の自分になんとも似つかわしい環境に思え、なんとなくくすくす笑いながら窓の外のつららを見、固いいぶりがっこをカリカリと噛んだ。


 食べ終えると空の皿を盆に重ね、廊下に置く。

 下着とタオルをもって部屋を出て階段をどんどんと下りて、半地下のような場所に到達した。湿気と硫黄臭がむわっと上がってくる。その風呂は、床を深くくり抜くようにして作ってあり、何か旅館そのものの胎内に籠るような風情があった。

 立って入っても胸のあたりまでお湯が来る岩づくりの深い湯には、枯れ木のような老女が二人、内側にある階段のようなものに立って入っていた。鼻歌が、湯気もうもうの浴室内に響いた。


♪惚れたからとて毎晩来るな

 月に一度か二度がいい

 一度二度なら会わねばよかった 心見られて後悔し


 すると一人が


♪ア~ドンサイ~ドドサイ~ドンサイドドサイ~というような合いの手を入れて笑った。


 体を洗った後足をいれようと水面を見ると、何か雪の結晶のようなちぎれたティッシュみたいなものが一面に浮き沈みしている。思わず凝視すると、二人が声をかけてきた。


「そら湯の花だ、温泉のほら、何たら成分がかたまって浮いてるんよ」

「何たら成分て何だよアンタ」老女の片割れが聞く。

「温泉だもの、硫黄とかなんたらかんたら入っとるわ」

「あ、温泉の成分の結晶みたいなものですね」とわたしが言うと

「そうそう。床も石の段々も転びやすいから気いつけな」

「あんた一人で来たのかね、それともご主人は男湯に」

「いえ、本当の一人旅です。ひとりになりたくて」

「ひとりにね。そうそう、野越え山越え、こけつまろびつ一人で行くのが人生さ」

「一度二度なら合わねばよかった、心見られて後悔し~、てなもんだ」


 二人が全身を薄桃色に染めて湯を出ると、深い浴槽の中はわたし一人になった。手で湯をすくうと、何か式神のような形の湯の花がいくつも掌に浮いた。

 隣の男湯から、わびしい民謡が響いてくる。


雪ぁ降る みそさんしょう(みそさざい)ぁなく かあかござらず おらどうするこっちゃあ~


 立ったまま目を閉じて岩肌に寄りかかる。

 冷えた体が芯からじわりじわりと温まってゆく。

 いつになっても忘れられないいやな記憶がちりちりと熾火のように光る心の痛みも、湯の中に溶けていくようだ。

 一人なのをいいことに、木桶の中央に、タオルで隠していた濁り酒の小さな瓶を置いて、ちびりちびりとなめてみた。ゆるゆると酔いが回り、ふと大学生時代のある日のことを思い出した。


「あのね。広島の実家に帰ったら、おねえちゃんが自殺してたの」


 大学の同じゼミの親友のA子からの突然の電話だった。わたしはとっさのことに、間抜けな返答を繰り返した。嘘でしょう、嘘でしょう?


「それでね、どこにも遺書がないの。わたしいま広島なんだけど、もしかしたら東京のわたしのアパートに遺書が届いてないかと思って。お願い、郵便受けを見てきて」


 しゃくりあげるように彼女は泣いていた。わかった、と答えて家を飛び出し、中野のアパートに向かった。

 小六で母親を脳こうそくで亡くしてから、十歳上の彼女の姉は母親代わりに彼女を育ててくれたと聞いていた。今にも壊れそうな木造りの郵便受けには、新聞以外入っていなかった。電話でそのことを告げると、もう彼女は落ち着いていた。こっちは大丈夫、しばらく広島の家に父と二人でいる、と言って彼女は電話を切った。


 二人で力を合わせて生きて行こうな、と誓ってくれたという彼女の父親が交通事故で即死したと聞いたのはその半月後だった。

 この家は呪われていると言って、祈祷師や霊能力者が次から次へと押しかけてくるのを、彼女はまとめて押し返したという。

 彼女は姉と父親の葬儀を済ませても東京に帰ろうとはしなかった。大学は中退してこちらで職を探すという。

 なぜそんなに禍々しい家にこだわるのか。

 何かに取り込まれはしないのか。


 心配になったわたしはある年、半ば強引に彼女が一人ぼっちで住む広島の家を訪ねた。

 白壁にオレンジの瓦屋根の瀟洒なその家で、彼女はいつもと変わらない表情で迎えてくれた。家はしんと明るく静まり返り、玄関や飾り棚には可憐な造花がいくつも飾ってあった。


「父が張り切って設計したの、母が南欧風の家に憧れてたから。でもその母はなくなるし、父は九州に単身赴任になっちゃって、わたしは東京の大学に進んだでしょ。咲子姉ちゃんは広島の会社に勤めてひとりで家を守ってたんだけど、上司と不倫関係になっちゃって、挙句に捨てられたの。お腹に子どもを宿したまま、ね。この家は、もうバラバラ。そのあとお姉ちゃん、こんなものばっかりつくって過ごしてたのね」


 そう言いながら彼女が開けてくれた箪笥の引き出しには、服ではなく造花がぎっしりと詰まっていた。コスモス、タンポポ、ひまわり、スミレ。その繊細な造形に込められた孤独と狂気の影のようなものに、綺麗ね、と言いながらわたしは怯えた。


「姉の自殺は初めてじゃないんだ。最初は子どもを堕ろして病院から帰った翌日。姉が心配で家に戻ったら、農薬飲んでげえげえ吐いてたの。急いで救急車呼んでね。

 知ってる? 自殺とか、明らかに本人に落ち度のある病災の場合、保険はきかないんだよ。それから精神的にどんどんダメになって、そのころメンタルクリニックでもらった薬貯め込んでたみたい。あれは自業自得だから仕方ないって父は言ってたけど、そんな風に簡単に言えることじゃない」A子は手土産の寿司をつまみながら淡々と言った。


 その夜二人で枕をならべたベッドは、彼女の両親のダブルベッドだった。

 彼女の姉が自死をとげた場所だ。

 なぜこんなところに、ほかにもこの広い家に客間はあるだろうに。と思ったが、なぜか尋ねられなかった。

 飾り棚の上には、幼稚園ぐらいの彼女と賢そうな姉と、笑顔の両親の写真があった。隙間のある雨戸の外を指さして、彼女は言った。


「さよなら、ごめんなさい、とだけ姉から父にメールが来て、父が慌てて帰ってチャイム押しても誰も出ないから雨戸の隙間から中を除いたんだって。そしたら姉が母のネグリジェを抱くようにしてここに横になっていて、もう死んでるってわかったって。姉がメンタル系の薬貯め込んでた頃は、病院からもらった睡眠薬たくさん飲めば死ねる時代だったのね。今の処方じゃむりだけど。

 お葬式がすんで二週間ぐらいの間、わたしこの部屋にすごいものが渦巻いてる気がしてはいれなくて、それから急に気配がなくなったの。だから、この部屋にも家にももう、誰もいない。だから、大丈夫……」


 かすかに震えるわたしの手を、A子はきゅっと握った。

 麻子につりついた家族の魂は、この自分をも副葬品のように連れ去ろうとしているのではないだろうか。どうしても、その恐怖が振り切れない。


「姉は誰も責めない人で、やさしくて弱かったから、母のもとへ行った。わたしは冷たくて強いから、一人でこの家を守るんだ……」


 独り言のような言葉は、やがて軽い寝息に変わった。

 その夜も確か、いくらでも降り続く、きりがない、と呟く男の背中に灰色の雪が降る光景を夢の中で見た気がする。



 湯の花に囲まれて我に返る。

 とにもかくにも、今、わたしは生きている。

 冷たい静かな雪の中、深い深いこの立ち湯はただただ暖かい。世界の中で今、ここだけが。

 そしてこの胸の中の、いびつな膨らみの中で、今も勤勉な細胞が静かに増殖している。何の用途もない自分の分身を、真面目に黙々と作り続けている。


 たとえば、A子の姉が、誰に見せるでもない造花を箪笥いっぱいになるまで作り続けたように。降っても降っても溶けるだけの雪の結晶を、空が作り続けるように。


 ……あなたも、寂しいの。


 わたしは湯の中で、音もなく仕事を続ける自分の胸を静かに抱きしめて尋ねてみた。

 目を閉じると、体の中で、何か湯の花のような小さな白いものが、ほろほろほろほろと増えていくのが見える気がした。


 それは、南天の葉の面に次々重なる雪の結晶のように、しんしんと輝いていた。



                      <了>


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さびしいの 水森 凪 @nekotoyoru

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