第1話 鬱屈

「それで、執筆の方はどう?」

 市川千夏は恋人の高野和彦と自宅で夕食を取っていた。

 新調したばかりの北欧スタイルのダイニングテーブルをはさんだ向こう側で、和彦が黙々と料理を口に運んでいた。千夏の問いかけに反応し、沈鬱な表情を浮かべながら、首をゆっくりと左右に振る。和彦の動作には、悲痛な色合いが色濃く表れていた。

「ご、ごめんね。聞くべきじゃなかった」

 しまった、と思い和彦に謝罪する。和彦は「気にしないで」と吐き捨てるように言った。気まずい沈黙が場を支配していた。

 口に入れた料理を歯が砕いていく。咀嚼音が普段より大きく感じて気が気でなかった。テレビでも付けたかったが、その行為は目の前の恋人から逃げるように思えて気が進まない。

 早く元気になって欲しいんだけどな。

 最後に同じ質問をしたのは丁度ひと月前だった。和彦は作家業を生業としている。漫画の原作と、自分の小説を掛け持ち、それぞれ掲載誌に連載を持っていた。それまでは特に不調もなく、順調に執筆活動をしていたのだが、ある時から急に筆が進まなくなった。原因は分からず、無理やり書き進めたりもした。結果は暗澹たるもので、漫画の方は原作を交代し、小説は休載していた。その状態になってからも、和彦はなんとか作品を完成させようと懸命にもがいていた。しかし、彼の努力は報われなかった。

 千夏は和彦を助けたい一心で、思いつく限りのサポートをした。有給を使って長期間の旅行に出たこともあれば、長い時間をかけて彼のスランプの根源を一緒に考えたりもした。それでも、和彦の状況は一向に好転することなく、そのままずるずると今に至る。

 過去を遡っていると、千夏の脳裏に彼とはじめて出会った頃の映像が流れ出した。


 千夏と和彦と、彼の作品との出会いは、今はなき個人経営をしていた小さな書店だった。

 千夏が中学三年生の頃だった。参考書を求めて、何気なく寄ったその店で、青々とした背表紙が目に留まった。本棚から本を抜き取った時、千夏は青空の一部を掴んだような気持ちになった。表紙には晴天の空と夏の雲が活き活きと描かれており、見ているだけで清々しい。タイトルは『千の夏にかけて』と書いてあった。

 自分の名前とつながりがある。運命的なものを感じた。

 作者は高野和彦。聞いたことのない名前だった。これが二人の、消費者から創作者へ向けての一方的なファーストコンタクトだった。その日、千夏は『千の夏にかけて』を買っただけで帰路に就いた。参考書のことなど覚えていなかった。

 家に着くと、玄関で靴を脱いで揃える。靴下を洗濯かごに放り込みすぐ自室へ向かった。勉強机に向かい、紙袋から買ってきたばかりの文芸書取り出して読み始めた。

 話の大筋は、過去様々な時代、様々な国の夏の季節に行き別れた二人が、現代の日本で再会し同じ季節に結ばれるというものだった。主人公となる二人の男女は、お互いに前世の記憶があり、生まれ変わった先で何とか結ばれようとするのだが、運命の波に幾度も引き裂かれてしまう。物語はそれぞれの視点から描かれており、千夏は女主人公のパートが特に好きだった。それは、文章から伝わる作者の繊細さや、乙女心への理解の深さに起因していた。

 本当に作者は男性なのだろうか、と何度も首をかしげたほどだった。

 千夏は知らぬ間に、高野和彦に惚れていたのである。この頃になってくると、千夏は完全に高野和彦が創った世界のとりこになっていた。

 しかし、物語の構成上そう易々と主人公たちは結ばれなかった。夢中になって読んでいた千夏は、二人が死別してしまう度、地団駄を踏むようにうめいていた。いい加減、一緒になって欲しいという思いが強まるほど、反動は大きくなる。途中、うんざりした気持ちになってページをめくる手が止まったこともあった。だが物語のクライマックスである最後の時代、争いもなく平和な日本に生まれてきた二人が、閑静な田舎道で偶然再会し、抱擁するシーンでは涙を流した。それと同時に、最後まで読んで良かった、二人の結末を見られて良かった、と充実感を覚えていた。

 普段本をあまり読まない妹が、小説を読んで泣きはらしていることを知った姉の瞳にそのことでよくからかわれた。そんなに言うならと、押し付けるような形で姉にも勧めてみたが、瞳はどうやら恋愛物にあまり興味はないらしかった。

 読み終わってから、放課後になると書店を巡り歩くのが千夏の日課となった。目的はもちろん高野和彦の本を探すことだった。

 他の本も読んでみたい。

 日に日にその気持ちは大きくなっていく。だが彼の本はまったく見つからなかった。大型のショッピングモールの中に入っている書店や、ビルをまるごと書店にしている本屋にも行った。店内に設置してある検索機で調べてみたが、ヒットしなかったし置いてあった形跡もなかった。

 短い期間で、千夏は都内のほとんどの書店を回ったが、成果はなかった。肩を落として下校していたある日『千の夏にかけて』と出会った書店に入った。『小説コーナー』と題している、様々な背表紙に彩られた本棚を注意深く眺める。それも徒労に終わった。

 たまりかねた千夏は店主に高野和彦という作者の本を売ってないか聞いた。

「和彦君の本なら今はないねえ」

 気の良さそうな声で、頭髪が真っ白な店主はこう返してきた。千夏はハッとして、枯れ木のように痩せた老人に詰め寄った。

「今はないってことは、いつか来るんですか!?」

「んん。どうだかねえ。でも多分持ってくると思うよ」

「持ってくるって、ど、どういうことですか?」

「まあまあ、落ち着きなさい」

「す、すみません……」

 一歩退いて、頭を下げ謝罪する。頬が紅潮していた。顔を上げるのが恥ずかしい。

「気にしなさんな。それで、ああ。和彦君の本だったね。うん、和彦君は、わしの知り合いの孫でね。作家を目指して本を書いているって言うんで、自費出版した本を置いてあげてるんだよ」

「自費出版、ですか」

「ああ。わしも若い頃はよくやったもんだな。印刷会社にお金を払って本を作ってもらうんだよ」

「そんなことができるんですね」

 本を自分で出す。物語を構築し、小説に仕立てるだけでも凄いと思うのに、自分のお金で本まで作っているとは、驚きだった。

「でも、それお金かかりそうですよね」

「まあねえ。学生でお金もろくっすぽにないから、作れてもせいぜい一冊か二冊ってぼやいてたよ」

「え、学生さんなんですか?」

「うん。大学生。偉いよねえ」

「は、はい。凄いと思います」

「ところでお嬢ちゃん、和彦君のファンかい?」

「え、ええまあ」

「そうかそうか。この前なんとかって本買ってったろう。そんな熱心に探して、よほど気に入ってくれたんだねえ。ありがとう」

「いえ、そんな…………」

「今度こっちに来た時、べっぴんなファンができたって伝えといてあげるよ。そうだ。和彦君の本が入ったら教えてあげようか?」

 この申し出は千夏にとって願ったりかなったりだった。

「お願いします!ありがとうございます!」

「うんうん。良いねえ元気があって。じゃあまた入荷したら教えてあげるからね。しばらくはこないと思うけど」

 その日はいくつかやり取りをして、千夏は帰った。

 それからふた月余りが経った。新年を祝い終え、祝賀の色合いが白い雪に取って代わられる時期に、千夏はカネザキ書店に足を運んだ。店内は暖房が効いており、外界との温度差で耳たぶが悲鳴を上げていた。ニットの手袋で両耳を包み込む。ほっと一息吐くと、店主のカネさんがにこやかな顔で迎えてくれた。

「いらっしゃい千夏ちゃん」

「おじいちゃんこんにちは」

 千夏は定期的にこの書店を訪れるようになっていた。目当ての本はまだ入荷していなかったが、他の作品にも目を向けてみようと思い、度々購入していたのだった。

「今日は良い時に来たね」

 カネさんが奥から温かい緑茶を出してくれる。千夏のお気に入りだった。

「ってことはもしかして」

「うん。今日新しいの持ってくるってさ。そろそろ来る頃なんじゃないかなぁ」

 間もなくして、千夏たちの背後でガラス戸が開いた。冷気がそっと忍び込んで来る。

「やあ和彦君。よう来たね」

 カネさんが声をかけるとほぼ同時に、千夏は振り返った。

「ど、どうも……」

 千夏の視線の先に、高野和彦は居た。頭を掻きながら、千夏に向かって会釈をしていた。千夏も会釈を返す。

 高野和彦は線が細い、儚げな印象を与える青年だった。少しおどおどしている様子が、生まれたての小鹿や、子猫のような小動物を彷彿とさせる。おっかなびっくりという足取りで、こちらに近づいてくる姿が、千夏の母性本能をくすぐった。和彦は高身長で、レジの目の前で横に並んだ時、千夏の頭は和彦の肩にようやくとどくという高さだった。体格に似合わない彼の性格が、また千夏の嗜好を刺激する。

「カネさんまたお願いします」

「はいはい。何冊持ってきたのかな?」

「二冊です」

「分かったよ。ところで和彦君、横にいるお嬢さんが、前に話した君の大ファンの娘だよ」

「え、そうなんですか?」

 和彦と目が合う。心臓の鼓動が早くなり、口の中が急速に乾いていく。

 伏し目がちになり、恥ずかしさを隠すようにまくしたてた。

「あ、は、はい!『千の夏にかけて』読みました!私それまであまり本は読まなかったんですけど、とても繊細で情緒的な描写がとても好きで、それで」

 そこまで言って和彦の顔を見た。彼の顔は赤みを帯びており、照れ隠しの笑顔を浮かべている。

「い、いや。そこまで言っていただけるなんて。なんというか……光栄です」

 二人の様子を見ていたカネさんは、黙ったままにこやかに首を縦に振っていた。

「で、でしたら…………これ、差し上げます」

 和彦はバッグから一冊の本を千夏に手渡した。表紙には『シルバーバレット』と書いてあった。

「新作です。『千の夏にかけて』のような、恋愛ものじゃないですけど……。よかったら…………」

「ぜひ読ませてください!」

 お願いされるまでもない。千夏は彼の新作を日々楽しみにしていたのだ。加えて、この『シルバーバレット』は彼から手渡された、いわばプレゼントとも言えるものだ。否が応でも読むつもりだった。

「読んだら感想を言いますね」

「お願いします。一人でも多くの人に読んでもらいたいです。厳しいご意見をお待ちしています」

 カネさんの提案で、二人は連絡先を交換することになった。この提案に二人は少々面食らったが、今後も作品を通して交流したい思いがあった千夏にとっては渡りに船でもあった。メッセージアプリで友達登録を済ませる。

「それじゃ僕はこれで……カネさんまた来ますね。それで、ええと」

「あ、千夏です。市川千夏と言います」

「千夏さんですか。『千の夏にかけて』の題名と同じなんですね。それじゃ……千夏さんまた」

 ゆっくりとした足取りで、和彦は書店から去って行った。

「どうだった、和彦君は」

「え?」

「わしの時代じゃ、和彦君みたいなのは見向きもされんかったがね。時代が変わると価値観も変わるんだねえ。あれで結構モテてるみたいよ」

「え、そうなんですか?」

 鋭利なナイフで心臓を突き立てられたような、寒々とした思いが千夏の胸中に広がる。

「うん。まあ本人から聞いた訳じゃないけど。だから千夏ちゃん。モノにしたいなら早めに動くこったね」

 カネさんは少年のような悪い笑みを浮かべていた。彼の言葉の意味を把握するまで数秒の間が必要だった。何を言っているのか解った時、千夏は耳元まで赤くなっていた。

「今日は、これで失礼します!」

「うんうん。またおいで。外、気を付けてな」

 大股で書店を出る。

 カネさんがあんなこと言うなんて。

 深呼吸をして、落ち着こうとする。大きく吐き出した息が白い靄となって、空気中に溶けて消えていく。その靄の中に、和彦と肩を並べて歩く自分の姿を垣間見た気がした。

「……ちょっと遠回りしてこ」

 幾分か落ち着いたものの、千夏の心はまだ興奮冷めやらぬといった具合だった。こんなところを姉に見られるとまたからかわれるかもしれない。千夏は冷たい空気に触れることで、まだくすぶっている感情を鎮火しようと思った。千夏が自宅に帰り付いたのは、和彦と別れてから一時間以上経った後だった。

 帰るとすぐに千夏は自室にこもり『シルバーバレット』を読み始めた。

 『シルバーバレット』はミステリー兼アクションもので、凄腕の探偵が、世界の凶悪犯罪を牛耳っている組織を追っていく話だった。日常を描いたシティポップな描写から、真相に近づいていくスリルな描写へ移る構成は程よい緩急があり、それなりに楽しめた。

 途中まで読み進めた段階で、『千の夏にかけて』ほどは夢中になっていないことに気づく。ミステリーより恋愛ものが好きな千夏の好みの問題と、文章から和彦が無理をして書いている印象を感じて、集中できなかったせいもあった。ともあれ、プレゼントされた本を無下にすることはしたくなかったので、千夏はそのまま読み続けた。『シルバーバレット』は続きものになっているらしく、一冊では完結しなかった。

 読み終わった後、千夏はすぐに和彦へメッセージを送ろうと思ったが、どういう内容にして良いのか一時間近く悩んだ。正直な感想を伝えるべきか、肯定的な内容のみを伝えるか迷っていた。千夏は無意識の内に、自分のメッセージで和彦が傷つくことを恐れていた。自分の意見がもとで、彼が傷つき作品作りをやめてしまったらどうしようと本気で心配していた。

 和彦さんには、恋愛ものや人の情緒、内面を全面に出せるジャンルの方が合っていると思うんだけどな。

 これが和彦の作品を読んだ千夏の率直な感想だった。また『シルバーバレット』に登場するキャラクターたちに対して、どこかで見たことがあるような既視感を覚えてしまい、作品の世界にのめり込みづらかった。

 メモアプリを開き、文章を打っては消してを繰り返す。率直な感想を書いてみるも、彼の傷つく姿が目に浮かび消す。今度は肯定的な取り繕った感想を書くが、偽善的で噓くさく感じこれも消していく。千夏は文字数にして五百は超える文章を練っていたが、どれも白紙に戻ってしまう。作業は遅々として進まなかった。

 やっぱり知り合ったばかりの人に失礼ではないだろうか。

 文章を考えれば考えるほど、どんどん深みにはまり抜け出せなくなっていった。

 結局、千夏が和彦へメッセージを送信できたのは、『シルバーバレット』を読み終わってから丸一日が経った頃だった。内容は、自分が感じたことをそのままストレートに書いた。

 メッセージを送ってからしばらくの間、千夏は生きた心地がせず、夕食の時間になってもスマートフォンが気になって仕方がない。何度もポケットに入れてある手のひらサイズのデジタル機器に視線を落とした。その様子を隣に座っていた瞳がニヤニヤしながらからかう。

「どうしたの千夏ちゃ~ん。もしかして、好きな男の子でもできたのかなぁ?」

 瞳の言葉に両親が反応し、母の和美はニコニコと笑顔を浮かべる。反対に父の総一郎は渋い顔つきになった。

「ち、違う!そんなじゃないよ」

「またまたぁ。瞳お姉ちゃんにはごまかしは効きませんよ~?」

 千夏のスマートフォンを奪取しようと、瞳がちょっかいをかけてくる。千夏は茶碗を置いて精一杯の抵抗を試みていた。

「高校にもなって行儀が悪いぞ。特に瞳」

「はぁ~い」

 姉を制したのは総一郎で、二人が落ち着くと大きなため息を吐く。

「千夏ちゃんに彼氏ができて寂しいのよね~お父さんは」

 総一郎に向かって和美が言う。

「えぇ~、お父さんそうなの~?」

「なにを言うか。ご飯を食べなさい」

 千夏はこのような光景を何度も目にしてきた。この親にしてこの子ありと思う。

 姉は母の無邪気で少々いたずらな性格を引き継いでいる。反面、自分のシャイな部分は間違いなく父から受け継いだ性格だった。現に瞳の攻撃の矛先は千夏から父に変わって、母と一緒になってからかっている。父の顔は真っ赤になっていた。

「もう、二人ともやめなよ。ご飯食べようよ」

 見かねた千夏が助け舟を出し、市川家の微笑ましいやり取りは一旦終わる。これもいつものことだった。友達から「千夏の家族は仲が良い」とよく言われるがそうかもしれない。

「ごちそうさまでした」

 食器をシンクに置き、千夏は足早に自室へ引き上げようとする。

「彼氏クンによろしく~」

 瞳の声かけに千夏は舌を出して応えた。

 自室に戻ってから、千夏はメモ帳を取り出して、瞳宛てにメッセージを書いた。

 千夏は幼い頃から瞳に相談事や、言いたいことがある時は決まって紙に書いていた。高野和彦との仲を両親の前でからかうのはやめて欲しい、という旨を記した。ページを切り取って、忍び足で瞳の部屋に入り、勉強机に置く。そうして、千夏は再び自分の部屋に戻った。

 一息ついてからスマートフォンを見ると、和彦から返信があった。内容は、自分の作品を読んでくれたことと率直な意見に対する感謝だった。千夏の見立て通り、『シルバーバレット』執筆には苦心したらしく、主人公をはじめとするキャラクターたちも、影響を受けた作品のキャラクター像に引っ張られていることを和彦は否定しなかった。しかし、以前からこの手のジャンルの小説を執筆したかったらしく、『シルバーバレット』の執筆は続けていくと書いてあった。千夏は応援の意味も込めて、完成したらまた見せてくださいといった旨を返信した。

 はじめのやり取りは短く、このような簡素なもので終わったが、それから千夏と和彦は仲を深めていった。

 読者を得たのが励みになったのか、和彦の執筆ペースはこれまでと比べて格段に増していた。メッセージでのやり取りに加えて、カネさんの店で姿を目にすることが多くなり、二人でカフェや図書館で過ごす機会も増えていった。

 二人の仲が進展したのは、カネザキ書店の店主だった鐘崎金太郎が老衰で亡くなってからだった。千夏と和彦は友人ということで葬式に参列していた。黒い喪服を着た老若男女が式場に集まり、故人を偲んでいた。祭壇の中央には人の良さそうな笑顔を浮かべた遺影が飾られ、白く眩い供花が左右に分かれている。遺影に写る鐘崎は生き生きとしていて、今にも動き出しそうな雰囲気を醸し出していた。

 参列者が同じことを考えていたのかは千夏には分からないが、彼女を含め、皆が鐘崎の笑顔に目を向けていた。千夏は、カネさんという愛称で親しまれた好々爺の、あの笑い声をもう聞くことができないと実感する。胸が詰まる思いだった。自然と涙が頬を伝い落ちていく。

「おじいちゃん……おじいちゃん」

 棺が霊柩車に載せられる前、保育園くらいの年頃の男の子が、故人が眠っている棺に向かって何度も呼びかけていた。その声が一層周囲の者たちに憐情の念を想起させる。方々から嗚咽とすすり泣く声が聞こえてきた。鐘崎は枕花に包まれた棺の中で、安らかに眠っている。男の子に応える者は誰もいない。

 千夏は傍に立つ和彦を横目で見た。和彦は声こそ出していなかったものの、唇を震わせて、目に涙を湛えていた。千夏と目が合ってもそれを隠そうとせず、軽く頷いただけだった。千夏は不謹慎ながらも、和彦のその姿を美しいと思った。

 長身で体の線が細く、色白の青年が見せる泣き顔は、いつの日かと同じように千夏の性的嗜好を刺激した。同時に彼女の母性本能もくすぐった。千夏はゆっくりと、和彦の右手に手を添えた。すると和彦もまた、千夏の左手に指を絡めてきた。ゆっくりと、ぎこちない動作だったが、力強さがあった。二人の指は徐々に納まる場所に納まった。千夏の左手の甲には、和彦の爪がわずかに食い込んでいた。

 棺を載せた霊柩車が式場を走り出して、それについて行く形で参列者もそれぞれ車に乗り込んだ。二人を含めた十人余りの参列者は、車を持っていなかったため、葬儀の運営会社が用意した送迎バスに乗車した。奥の方に二人は席を取る。和彦が気を利かせて、千夏は窓側の席に腰を降ろした。

「ごめんよ。痛かったろう」

 和彦は千夏の左手を申し訳なさそうに撫でている。その感触が千夏にはくすぐったかった。だが悪い気持ではなかった。

「ううん。これくらい大丈夫。それより、和彦さんの方が心配」

「ありがとう。僕なら平気だよ。多分…………」

「カネさんには、たくさん良くしてもらったもんね」

「うん……」

 和彦が嗚咽を漏らしはじめた。肩を震わせ、口を手で押さえている。声を出すまいと懸命にもがいていたが、本能に根差す感情は理性で取り繕った脆弱な防波堤をいとも簡単に打ち壊した。嗚咽は泣き声に変わる。和彦の姿を見て、千夏も再び涙が湧き出てきた。

「いいのよ。我慢しなくても……いい、のよ……」

 和彦の涙が、喪服の上から地肌に染みこんでくるのを感じながら、千夏は和彦を抱いて、背中を優しく撫でていた。

 火葬場に着き、二人はバスから降りた。火葬場は郊外に設けられており、夕暮れの中であっても青々とした草木がきらめいていた。屋内に入り、これからの流れの説明をスタッフから受ける。遺族以外の人間は、基本的にもうすることがなかった。火葬後、遺骨を拾い上げるのは遺族の役目となる。千夏たちにできることと言えば、この場で火葬が終わるのを待ち、遺族たちが遺骨を拾い上げる様子を想像することくらいしかなかったが、途中で帰るつもりもなかった。

 千夏たちが火葬場を出た時には、既に日没し、太陽の代わりに月と星々が空を輝かせていた。再び送迎バスに乗り式場へ戻る。そこで一同は解散した。千夏と和彦はいつまでも絡めた手を離さなかった。

 カネさんが亡くなってから二年以上経ったある日、千夏は和彦から生原稿を渡された。若い男女で賑わう洒落たカフェに涼を求めた時だった。カネさんの葬式以来、二人は頻繁に会うようになっていた。

「これは?」

「初稿というか、清書前の下書きみたいなものだよ。良かったらなんだけど、添削してくれないかな。添削と言っても、今までみたいに意見とか、感想もくれたら嬉しいんだけど」

「え、良いの?私がそんなことして」

「うん。今までは僕一人でやってたんだけど、やっぱり他の人にしてもらいたいなと思って。迷惑だったらいいんだけど」

「そんなことない!ぜひやらせてちょうだい!」

 千夏は和彦の力になれると舞い上がっていた。印刷された数百枚の原稿をまじまじと見つめる。清書がされていない、地の文が並んでいる。生の和彦に触れられた気分だった。そして、自分をそんなに信頼してくれていることに胸がいっぱいになった。

「ありがとう。でもほんとに大丈夫?勉強に支障でないかな?」

「大丈夫大丈夫。任せて」

 頼まれた以上、全力で取り組むつもりだった。事実、この日を境に千夏は多くの時間を添削作業に注いだ。

 作業は楽しいことばかりではなかった。和彦は見かけによらず頑固な性格で、千夏とは幾度も意見が衝突した。それが原因で、ひと月以上連絡が断たれたこともあった。だが、最終的に和彦が折れて千夏の修正案を受け入れて終わる。時には和彦の主張がそのまま通ることもあった。

 二人は一緒に作品を創り上げていく充実感を共有していた。和彦の作品は増え続け、SNSでタイトルを目にする機会が増えていた。

 転機となったのは、大手出版社の編集がたまたま和彦の作品を目にしたことだった。

 和彦のスマートフォンに知らない番号から着信があった。和彦が恐る恐る電話に出てみると、電話口の相手は「T編集社の杉本です」と名乗った。続けて『シルバーバレット』を改稿してウチから出してみないかという提案をしてきた。

「はい……はい。分かりました。また後でかけなおします。はい、失礼します」

 電話を終えた和彦の手は震えていた。表情は形容しがたい色に染まっていて、千夏は心配になった。この頃になると、千夏は受験勉強を終えて、和彦のアパートに入り浸っていた。

「実は、出版社の人から『シルバーバレット』を出さないかって提案されたんだ」

「凄いじゃない!おめでとう!」

「うん、ありがとう。でも、話を受けるかどうか迷ってるんだ」

「なんで?」

 千夏の問いに、和彦は困った笑みを浮かべながら頭を掻く。彼の癖だった。

「自信がなくてね……」

 無理もないと千夏は思った。ひいき目に見ても、和彦の筆力は格段に増して、作品の質も比べ物にならないくらい高くなっている。しかし、書籍が話題になったことは今まで一度もない。SNSで話される機会は多くなっていはいたが、話題作と言っていいのかは疑問だった。

「でも、出版社の人の目に留まるってことは面白いってことなんじゃない?」

「うん、まあそうかも……」

「思い切って話を受けてみたら?」

「うん…………」

 和彦はここぞという場面で躊躇してしまう癖があった。言葉を悪くすれば意気地がない性格だった。だが千夏は、そんな性格が彼の文才に活きていると思っていたし、おどおどしている彼の姿を見ていると胸がくすぐられた。

 私がこの人を育てないと。

「チャレンジしてみても良いと思うけど。実績にもなると思うし、和彦さんの作品をみんなに読んでもらう良い機会じゃない?」

「…………まあ、そうだね」

「和彦さんなら大丈夫だって。元気だして、自信持って。ね?」

 和彦はソファに座っている千夏に歩み寄り、抱擁を求めてきた。これも彼の癖だった。一歩踏み出そうとする時は決まってこうする。悪い気はしなかった。自分が求められている満足感と、パートナーを支えている充実感が胸を満たした。和彦の求めに応じて彼の線の細い肉体を抱く。

「……よし」

 和彦はスマートフォンを取り出して、電話をかけた。顔には先ほどまでなかった活気が満ちている。

「あ、もしもし。高野和彦です。先ほど杉本さんからお電話をいただいた者ですが……分かりました。……もしもし、あ、はい。高野です。はい、その、ぜひお願いしようと思いまして。はい……はい!分かりました。よろしくお願いいたします!」

 通話を切った和彦は、千夏に顔を向けて自信に満ちた表情を浮かべていた。

「よし、やるぞ!」

 和彦は以前にも増して執筆活動に精を出した。原稿の添削は編集の仕事になり、作品について話す時間も千夏より担当者との方が多くなっていった。寂しさを感じながらも、千夏は恋人として彼を支えていった。

 書き直された『シルバーバレット』は全国の書店に並び、注目を浴びた。様々なメディアでも取り上げられ、SNSで検索すると鳴かず飛ばずだったのが嘘のように『シルバーバレット』に関する膨大な書き込みを見ることができた。

 その頃になると千夏は大学の授業で忙しく、和彦と会う機会が以前より減っていたが、彼女の周りでも『シルバーバレット』の名を聞くようになっていた。千夏はその度に和彦の成功を心の中で祝っていた。それと同時に、自分しか知らない秘密の場所が、他人にばれてしまった時のなんとも言えない寂しさも感じていた。

 高野和彦という作者を育てたのは私だ。

 そのことを公言したことも、態度にも出したことはなかったが、千夏はそう自負していた。


「ごちそうさまでした」

 くたびれた和彦の声で、千夏の意識は現在の時間に戻ってきた。

 当時と比べると、今の和彦の姿は見る影もなかった。はじめて会ってから十年以上の歳月が流れている。和彦はもうすぐで三十歳になるし、千夏もアラサーと呼ばれる年代に入っていた。生きてきた年数相応に老けたなと思う。しかし和彦の老け方は健全でない。ただでさえ瘦せていた体形が、更に細くなり、痛々しく見える。当時のカネさんより細いのではないだろうか。頬はげっそりとして、目には生気がない。死にたくないから、生きているといったありさまだった。誕生日に贈ったブランド物の腕時計が左手首で光る。和彦はブランド物には興味がなく、受け取るのを渋っていたが、良い物でお洒落にして欲しいという千夏の願望を聞き入れ、身に着けていた。その時計の輝きが、やせ細った和彦を嘲笑っているように思えてならなかった。

 視線を移して彼の食器に目をやると、量があまり減っていない。食事をする気力もないのだろうか。

「私が片づけるから、和彦さんはゆっくりしてて」

「そんな。悪いよ。せめて君の役には立ちたい」

「ううん。和彦さんは充分役に立ってるわ。私と一緒に居てくれるじゃない」

 そんな状態になりながら、家事を引き受けようとする気持ちは嬉しかったが、今の和彦に食器を取り扱って欲しくないのが千夏の本音だった。自分の体を支えるのがやっとという状態で、食器など持ってしまっては落として割ってしまうだろう。自傷行為の一環として和彦ならそのまま素手で掃除しかねない。危険すぎるし、そんな些細なことでまた自分を責め立ててしまう。彼には物理的にも、精神的にもこれ以上傷ついて欲しくなかった。

 残飯をラップで包み冷蔵庫にしまう。台所で後片づけを済ませ、ダイニング兼リビングルームに戻って来ると、和彦はソファに座り、ぼんやりと真っ黒なテレビ画面を眺めていた。千夏は隣に腰を降して、そばにあったリモコンを手に取る。

「気分転換にテレビでも見ない?」

「千夏に任せるよ」

「分かった」

 電源ボタンを押し、当てもなくチャンネルを切り替えていく。

「……止めてくれ」

 ここ最近、和彦は自分の意思を示したことはなかった。なにを聞いても「千夏に合わせるよ」や「君に任せる」としか返ってこなかった。なにか和彦の関心を引くものでもあったのだろうか。千夏はそれがきっかけとなって、和彦が少しでも元気になってくれることを願った。しかし、自分のそんな思いはすぐに消失していった。画面に映し出されたニュースリポーターが、都内のアパートにて変死体が発見されたと伝えていた。画面の左上には『ENN独占LIVE』の文字がある。生中継のようだ。

「こんなので良いの……?他にも色々やってるよ?」

「うん、いいんだ。とりあえず見ていたい」

「…………そう」

 千夏は、弱っている和彦が死の情報に触れるのが不安だった。死に惹かれているのか。それとも新しい小説のアイディアが閃いたのか。

 亡くなってしまった方には悪いが、できれば後者であって欲しいと思う。もし前者だった場合は……。

「ねえ、明日一緒に病院に行かない?やっぱり見て貰った方が良いと思うの…………嫌なのは分かってるけれど」

「行こう」

 あっさりとした返事だった。これまで何度も病院に行くことを提案し、その度に断られ続けた。それが今日はあっさりと承諾した。千夏はいささか面食らったが、行ってくれるのであれば少しは安心できる。

「千夏。ココアを淹れてくれないかな」

「ココア?」

「ああ。飲みたいんだ。千夏が淹れてくれたココアが」

「…………分かったわ」

 笑顔を向け、千夏は再びキッチンに立つ。自分もなにか飲もうかと思ったが、変死体のニュースを見ている時に喉を通る飲み物など思いつかなかった。

 テレビからリポーターの甲高い声が響いてきた。

『ENNです!変死体が見つかったって本当ですか!?』


 六月二十二日午後七時過ぎ、女性が死んでいるとの通報があった。

 上司の小野寺に呼ばれた市川瞳は、現場に向かう車内の中で己の無力さに苛まれていた。虚無感と苛立ちとが胸中でないまぜとなって、ハンドルを握る手に力が入る。

 車窓から見える夜の空を飾るオフィスビルの夜景が、光の帯となって背後へ流れていく。瞳はその景色を横目に、学生時代のちょうど今の季節、警察官を志すこととなった出来事を思い出していた。

 ある夏の日のことだった。部活を終えて帰宅している途中、暴漢に襲われた。口をふさがれて、路地裏に引きずり込まれていった。「生きた心地がしない」と言うのは、正にああいう状況を指すのだろう。運よく婦警の一人が傍を通りかかり瞳は助けられた。

 あの人のように、人を助けたい。

 特に進路など決めていなかった瞳は、高校卒業後、警察学校へ入学し、無事卒業した。はじめは派出所での勤務だったが、瞳は持ち前の行動力と正義感で、人一倍職務を忠実にこなしていった。その結果、上司や同期から刑事部への昇進を推薦された。試験に合格し、都内にあるM警察署の捜査第一課の刑事になれたのは五年前だった。捜査第一課は、殺人や誘拐、失踪などの刑事事件を主に担当する部署で、瞳は、実務を通して救える者たちには限りがあると思い知らされた。

「また駄目だった…………」

 オフィス街からしばらく走らせると、繁華街を抜け、目的のアパートに到着した。駐車場に車を停め階段を駆け上がる。

 現場はエステートパレスと呼ばれるアパートの一室だった。地上二階の角部屋で、階段を上がるとすぐ右手がその部屋になっている。玄関ドアの前で警官が一人背筋を伸ばして立っていた。瞳に視線を寄越すと静かに横へ退いた。瞳は軽く会釈をして室内に入る。

 玄関の先はキッチンと兼用になっている廊下になっており、その奥には六畳余りのワンルームが広がっていた。室内は乳白色の柔らかい光で照らされ、臓物が腐った腐敗臭と、その中に酸っぱい臭いが混ざった空気で充満していた。部屋の中で窮屈そうに数人の男たちが作業している。

 現場に到着した瞳は、圧迫感とたちこめる臭気に思わず顔をしかめる。これまで何度か同じ臭いを嗅いだことがあったが、慣れる類のものではなかった。部屋の隅でうずくまっている鑑識の姿が目に入る。新人だろうか。彼の気持ちは少なからず理解できた。

「小野寺さん」

「市川か。この仏さんってよ」

「……はい。捜索願が出されていた、木下サチさんです」

 現在進行形で腐敗が進む遺体を、瞳は再び視界に入れた。間違いない。一週間前、家族から捜索願が出された木下サチというOLだった。年齢は二十六歳。妹の千夏と同い年だった。

「なんともまあ、むごいな」

 小野寺がため息交じりに言う。彼女の体は、下腹部から胸部の下辺りまで縦に切り裂かれている。縦穴からは、本来そこにあるべき物がいくつか見当たらなかった。

 木下サチは狂喜に満ちているとも、恐れおののいているともとれる表情を浮かべていた。瞼は見開かれ、光を失った目はジッと虚空を見つめている。瞳は小野寺に視線を移した。

「第一発見者は?」

「隣に住んでる宮本志保って女子大生。サークルから帰ってきたら玄関のドアが開いていて、異臭がするから覗いて見たんだと」

「なるほど。それで、死因は?」

「失血死。もしくはショック死か。まあそうだろうな」

 小野寺が顎でフローリングの床を指す。床には、彼女が生きている間、生命活動を営んでいた臓器が散乱していた。そのほとんどがぐちゃぐちゃになるか、切り刻まれたような形になっており、生ごみが腐ったものだと言われても納得できる状態だった。体を切り裂き、自分で臓器を取り出したとでも言うのだろうか。彼女の壮絶な死に目を想像し、瞳は肩を震わせる。

「彼女が、自分でやったんでしょうか?」

 遺体の右手には包丁が握られており、刃は赤褐色に染まっていた。本当にこれだけで体を切り裂いたのか。瞳は自分の目に映る光景がすべて信じられない気持ちでいた。正確に言えば、信じたくなかったのかもしれない。脳が理解することを拒絶している。

「分からん。正確なことはまだ言えないが、その可能性が高い」

 小野寺は肩をすくめながら言う。

「他殺の可能性は?」

「どうだろうな。誰かが立ち入った形跡はまったくないと言うし、争った跡もない」

 小野寺の言う通り、臓物が散乱している点を除けば、部屋は整理整頓されていた。そのコントラストが現状をより一層不気味にしている。

「防御創も?」

「ああない」

 防御創とは自衛のために受ける傷のことで、刃物などで攻撃を受けた際、腕や手で防御しようとしてできる切り傷や擦り傷などが該当する。特徴として一般的には手のひらや指、前腕部に見られ、傷の位置や形状から、被害者がどのようにして身を守ろうとしたのか推測ができる。木下サチにはそれらの痕がなく、これによって小野寺は他殺の可能性は低いと推察しているのだった。

「自殺でほぼ決まりだろうが、詳しいことは」

 小野寺の言葉を遮るようにして、玄関から甲高い悲鳴が響く。振り返ると初老の女性が部屋に駆け上がってこようとして、警官に止められていた。

「ちょ、ちょっと!ここは立ち入り禁止です!」

「サチの母なんです!通してください!」

「し、しかし」

 瞳と小野寺は顔を見合わせる。小野寺は無言で小さく頷いた。

「通してあげください」

 瞳が外の警官に声をかける。警官は体をどかせ女性を通した。

「そんな、そんなぁ!」

 フラフラとした足取りで、木下サチの母を名乗る女性は室内に入って来た。変わり果てた娘の姿に、嗚咽と共にこみ上げてくる物があったのだろう。口を手に当てて、必死に我慢している。その姿は、現場の人間に痛々しく映った。

 瞳は、強い女性だなと感心する。普通このような光景を見たら、吐くか気絶するのに、彼女は懸命に現実から目をそらさずにいた。いや母親だからこそ、気を保っていられるのかもしれない。

「失礼ですが、貴女は?」

「木下喜美江です…………。木下サチの母親です」

 瞳は屈みこんで目線を木下喜美江に合わせた。彼女の名前には心当たりがあった。

「約一週間ほど前に、木下サチさんの捜索願を出していらっしゃいましたよね?」

「ええ。…………出しました」

 捜索願は、失踪者が行方不明になった場所を管轄する警察署、失踪者が住んでいた場所を管轄する警察署、届出人の住所の警察署のいずれかに提出が可能となっている。その中で、特異行方不明者と判断された者については、すぐに捜索の手配がなされる。一般家出人と判断された場合、すぐに捜索されることなく後回しにされる。木下サチの場合は、一般家出人とされており、本格的な捜索はまだ行われていなかった。

 瞳が独断でそのように処理した訳ではないが、娘の死を嘆く母の姿を見ていると、罪悪感を抱かずにはいられなかった。

「ところで、サチさんの行方は分からなかったのに、どうして喜美江さんはここへ?」

 最もな疑問だった。木下喜美江はサチの行方が分からなくなったから、捜索願を出したはずなのに、娘がここに居ることをはじめから知っているかのようにやってきた。小野寺をはじめ、事情を把握している人間にとって、これはぬぐいがたい違和感と、喜美江に対する猜疑心を芽生えさせた。

「はい…………。実は、数時間前にサチから、娘から連絡があったんです。今アパートに帰ってきた。助けて欲しいと…………」

「助けて欲しい、ですか」

「ええ。私もなにがなにやら分からなかったんですけど、娘のことが心配で…………」

「具体的にはなんて言っていたのか、思い出せますか?」

「はい……。中に誰かいる、助けて…………って」

 娘の声を思い出したのか、木下喜美江の声がわなわなと震えだす。瞳は小さく礼を言って、彼女に外へ出るよう促した。愛娘を亡くしたばかりの初老の母親はゆっくりと首を縦に振っただけで、それ以降口を開かなくなってしまった。

「中に誰かいる。ねえ」

 小野寺は壁にめり込む形で設けられたクローゼットを無造作に開ける。洋服が丁寧にハンガーにかけられていた。洋服の下には、プラスチック製の透明色をしたボックスが所狭しと並んでいる。中身は季節用の衣類や、シーツ、毛布などの寝具が整頓され、入れられていた。遺品の状態から、彼女がどのような人柄だったのかがうかがえる。綺麗好きで几帳面な人物だったのだろう。

「おっと」

「どうしたんです?」

「いや、ね」

 小野寺が指さした先へ、目線を走らせる。そこにも同じボックスがあり、薄っすらと派手なデザインの下着が顔を覗かせていた。勝負下着だろう。奥に押し込まれているということは、長い間男女の絡みはなかったのかもしれない。

「なんだ。下着か。ただの遺留品ですよ」

「ご無沙汰のまま逝ったってことか。残念だねえ」

 瞳の鋭い視線に気づいた小野寺は逃げるようにして作業に戻った。

 間もなくして、二人はクローゼットを一通り調べ終わった。

「まあ、無理だろうな」

「ですね。とてもじゃないですけど。」

 木下サチが母親に遺した言葉から、二人はクローゼットに彼女を殺した人物が忍び込んでいたのではと考えた。しかし、クローゼットに隠れるにはボックスを動かさなくてはならないが、几帳面に積み上げられたボックスたちは動かされた形跡がなかった。

「浴室はどうだ?」

「調べましたが、怪しい物は特に。状態も綺麗に手入れされています」

 小野寺の問いに鑑識の一人が答える。

「手がかりゼロって訳か」

「……小野寺さん、木下サチさんは、やっぱり自殺したのではないでしょうか」

「そうとしか思えんな。だが母親に言った言葉はどう説明する?」

「それは……」

 瞳はおぞましい形相で天井を仰いでいるサチに再び目をやる。そのまま見ていると、今にも動き出しそうな凄まじさが、彼女の遺体には憑りついていた。

「おそらくですが、彼女の中にいたということではないでしょうか」

「…………」

 小野寺の表情に驚きはない。むしろ、やはりそうかとでも言わんばかりだった。サチが母の喜美江に伝えた言葉と、現場の状況を見て、小野寺も瞳と同じ結論を導き出しているらしかった。

「しかし、いたって、なにがいたんだろうな」

「……分かりません」

 二人が黙って立ちすくんでいると、外が騒がしくなってきていた。

「どうした?」

「マスコミです!それに野次馬も」

「まったく。どっから嗅ぎつけてくるんだ」

「私が対処してきましょうか?」

「いやいい。俺が行く。ここを頼む」

 小野寺が現場から去り、瞳は鑑識の作業が終わるのを待っていた。

「ENNです!変死体が見つかったって本当ですか!?」

 良く通る、高い男の声が室内まで届いた。

 外は今や喧噪であふれていた。亡くなった母親に、眩いフラッシュライトと、無機質で煽動的ないくつものマイクが向けられる様子を思うと胸がむかつく思いだった。

「どうか、安らかにお眠りください」

 自分でも聞こえるかどうかの声量で、瞳は遺体に向かって祈りの言葉を紡ぐ。亡くなった彼女に言葉が届いたのか、瞳には確かめる術はなかった。

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ラフレシアの巣 たんぼ @tanbo_TA

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