世を終わらせる雷鳴

亜咲加奈

世を終わらせる雷鳴

 于禁の頭髪は白かった。ひげも同様であった。頬の肉は落ち、目に力はなく、石づくりの狭い部屋で一人、床ばかり見ている。

 細い音がした。扉がひらく。姿を見せたのは、当番の兵士だ。

「于禁」

 ここは荊州。関羽の水攻めによって、主君曹操からあずかった七軍をすべて流され、もんもんと葛藤した末に降伏したおのれを、まだ二十を少し越えたばかりであろう兵士が、ぞんざいに呼びつける。しかし于禁はその兵士に、何も感じなかった。関羽にひれ伏したあの日から于禁の情動は止まっている。

「出よ」

 兵士は于禁の上腕をつかむと、無理やり立ち上がらせた。そして于禁の両手を背中に回し、その胴体に縄をかけ、固く縛る。

 痛い、とすら、于禁は感じなくなっていた。曹操の股肱の臣であったおのれはもう、ここにはいない。ここにいるのは関羽にぶざまに降伏した、虜囚であるおのれでしかない。

「歩け」

 引きずられるようにして、石づくりの部屋から出る。廊下を歩き、久しぶりの陽光を窓越しに浴びる。その光が目に入ったとき、于禁は目をつぶった。光をまぶしいと感じるおのれを、于禁はどこか遠いところから皮肉な目で眺めているように感じた。

 光はさらに強さを増す。廊下が途切れ、曲がり角に出る。まだ、止まれとは命ぜられない。時おりふらつくが、そのたびに若い兵士は于禁を引っ張る。まるで歩みの遅い牛か豚でも扱うように。

 広間に出た。

 一人の男が立っている。背は高い。于禁と同じくらいの身の丈だ。胴が太く、腹が出ている。太い眉、二重まぶたの大きな目、鼻も大きく顎が広い。

 誰なのだ。そう思った瞬間、若い兵士は于禁を床に押さえつけた。

「頭が高い!」

 男が兵士に言った。

「これ、乱暴をいたすでない」

 若い兵士はまだ、于禁の頭を床に押しつけたままだ。

「主上、こやつは虜囚でございます」

「この者の処遇を決めるのは、わしだ」

 突然ひびきわたった厳しい声に、若い兵士はおびえたようすで手のひらを離した。男はさらに厳しくことばを弾き出す。

「雑兵の分際で、わしにあらがいおって。この場でそのこざかしい頭を落としてやってもよいくらいだ。なれど、おぬしごときの小汚い血など見とうはない。命だけは助けてやるからありがたく思え。さあ、失せろ。今すぐこの室より失せろ。二度とわしの前に姿を見せるでない」

 若い兵士は謝罪することさえ許されなかった。兵士のまわりに二、三人の兵士がすぐさま駆けつけ、引きずるようにして広間から連れ出す。

「かようにきつく結びおって」

 男は短刀を取り出すと、于禁の手首を縛る縄に当てて前後に動かした。縄は簡単にはずれ、于禁は男を見返す。

「先ほどは、我々がたの雑兵が、無礼をはたらき申した。お詫び申し上げる。おお、失礼をかさねて申し訳ござらぬ。わしは孫権あざな仲謀。赤壁やら合肥で、わしの名をお聞きになられたことと存ずるが」

 孫権が彫りの深い顔に笑みを浮かべ、于禁の上腕に手のひらを添えて引き上げる。

「さあ、将軍、お立ちなさい」

 孫権がわの兵士たちは当惑している。于禁も戸惑いながら立ち上がった。

 孫権に付き添われ、共に船に乗る。広々とした長江の水面は穏やかだ。船は滑るように進んだ。


 案内されたのは孫権の自室であった。荊州の豪族の館の一つを接収したようである。

「お楽になさい。政務を執る部屋は別にあるゆえ、こちらでは専ら、くつろぐだけだ」

 于禁はいまだ落ち着かない。敗残の将であるおのれに、この江東の君主はなにゆえ、なれなれしい態度を取るのか、彼には理解できない。

 孫権は卓に手をつき、大柄な体を傾けた。

「于将軍、そこにおかけなさい」

 言われてみれば確かに椅子がある。于禁は言われた通り腰を下ろした。

 孫権は腕組みをし、頭を後ろに少しそらす。

「そう、お堅くなられることはない。お楽になさいと申し上げた」

 于禁は恐る恐る口をひらく。

「それがしは、捕囚の身でございます」

「わしが解き放ってさしあげた。貴公はもう、わしの客分である」

「御身にとり、それがしは、敵の大将でございます」

「関羽を共に討とうではないか」

「関羽を?」

 于禁はますます警戒する。そして孫権をさらに恐ろしいと感じる。この男は私と対等に話そうとしている。何のために?

「貴公のご同輩が、樊城を救援するべく関羽を襲撃している」

 于禁にとっては初めて聞く事実である。

「では、王が、ここへ差し向けた将がいる、と?」

「いかにも。徐晃と申したな、確か。関羽の包囲に突き入り、みごと樊城にいる曹仁をも、いくさ場に出させたとか」

 あの、めったに眉目を動かさず、内心を表に出さない同僚の姿を于禁は思い浮かべた。そして徐晃とわが身を引き比べ、うなだれる。私は関羽と矛を交える前に、ぶざまにも膝を屈した。それにひきかえ、目の前にいる孫権のことばのとおりならば、徐晃は関羽の包囲を突き破ったのだ。曹操の期待にこたえた徐晃が、于禁にとってはまるで先ほど浴びた強い陽光のように感じられた。

 孫権が腕をほどいた。そして部屋の入り口に控えていた兵に命ずる。

「何か、のど越しの良い食事を急いで作ってくれ。将軍はろくに召し上がっておられぬゆえ、口にしやすいものを椀に少しだぞ。同じものをわしも食するゆえ、わしのは多めに用意させろ。いかにせん空腹でな。くたびれたわい」

 兵士はかしこまって承り、即座に走り去る。

 于禁は立ち上がった。

「いりませぬ。食事など、いりませぬ。それがしは」

「生き延びてしまった」

 孫権は軽い口調で口にしたが、于禁は絶句した。おのれが続けて発しようとしたことばを先取りされたからである。

 孫権が于禁を見た。大きな二重まぶたの目は于禁にとって恐ろしく、また、有無を言わさずおのれの両肩をつかみ、互いの目と目を見合わせるように命ずる強さをもっていた。

「生き延びてしまったからには、このまま食を断ち、おのが生命を終わらせなければ、都におわす王に申し訳が立たぬ。さようにお考えか、将軍?」

 于禁は頭を深く垂れた。

「なるほど。まあ、見るからに実直そのもののお人柄であるゆえ、わしの見立てはまちごうておらなんだ」

 言って孫権は卓の向こうにある椅子を引き出して于禁の前に座った。

「将軍。将軍の御身がご無事であり、この孫仲謀がお引き受けいたしたことは、すでに王へお知らせするべく、使いを向かわせたところだ」

「何ですと?」

 于禁の叫びは、部屋中にひびきわたった。

 孫権は于禁の動揺など関心がないといったようすで続ける。

「事実を伝えるだけであるのに、なにゆえさように驚いておられるのか。貴公はわしの客分である。なおかつ」

 二重まぶたの大きな目が、于禁をその内に引きずり込んだ。

「関羽に勝ったか負けたかなど、わしにとっては些細なこと。じっさいに関羽と矛を交え、きゃつの恐ろしさを誰よりもその御身で感じておられる貴公以上の助けはござらぬ」

 于禁の顔はますます恐怖にいろどられる。孫権はさらに発する声を強めた。

「関羽を亡き者とせねば、我らの安寧はない。それを成すのは、わしの使命である」

 そこへ食事が運ばれた。そのにおいに、思わず食べたいと欲し、于禁は戸惑う。

「ささ、もそっと近う参られよ」

 人なつこい笑みを彫りの深い容貌に浮かべた孫権を、于禁は、信じられぬと言いたげなまなざしで見た。

「まさか、うまいものをうまいと思ってはならぬなどと、ご自身を戒めておいでではないかな、将軍? まずは腹ごしらえとゆこうではないか」

 于禁が椅子を卓の前に動かし、座り直す。孫権は湯気を立てる椀を、于禁の前に置いた。

 


 白髪をさらし、平服のまま孫権の斜め後ろから五歩遅れて従う于禁に、孫権がたの将たちが、不信感むき出しの目を刺す。

「こちら、于文則将軍である。わしの客人であるゆえ、皆、相応の礼をもってお迎えするように」

 呂蒙が一歩、大股に踏み出した。

「おそれながら主上。そやつは関羽がたの捕虜でございます。そして今は、我々がたの捕虜でございまする。捕虜を客分として遇するなど、前代未聞であります。そやつがもし生きて帰ることでもあったならば、我々がたのいくさの仔細がそやつの口から敵がたに漏れることは必定。それがし、いかに主上の仰せであるとしても、受け入れることなどできませぬ」

 呂蒙の拒絶を皮切りに、諸将は口々に異議を唱えはじめた。

「そやつを帰してはなりませぬ」

「今すぐ処断なされよ」

 孫権の、大きな二重まぶたの目は、動かない。于禁が見るそのぶ厚い背中からは、焦りすら見えない。

 冷や汗をかいているのはおのれだけだと、于禁が気づくころだった。孫権が、いつもと同じ大きさの声と、いつもと変わらない口調で、諸将に言った。

「于文則将軍は、わしの、客人である。相応の礼をもって遇している。そのほうらも、わしにならえ」

 呂蒙をはじめとする将たちは、その一言で口を閉ざした。そして、静かに一礼する。

 孫権が命じた。

「伝令。関羽の行方を知らせい」

 広間の片隅で固まっていた兵が小走りに進み出てひざまずき、声を張り上げた。

「麦城にたてこもっておりまする」

 呂蒙が孫権に、鋭い視線を向ける。

「主上」

 孫権は呂蒙に、うむ、と言ってうなずいた。于禁はこの二人が、短いことばで互いの意図するところを承知するさまを目の当たりにし、その結束に身ぶるいがした。呂蒙と孫権、この二人の呼吸が関羽を追い詰めるであろうと、彼には容易に想像できたからだ。

「将軍」

 孫権が于禁に体ごと向き直る。

「関羽の軍勢とじかに渡り合ったのは、貴公だけである。なにとぞ、ご教示願いたい。関羽が率いるのは、いかなる軍勢であるか」

 于禁は、理由なく高揚した。ことばがおのずと胸から喉にせりあがった。

「真に恐れるべきは、関羽のみでございます」

 孫権が、得たりと笑う。孫権の肩越しに于禁は、呂蒙が安堵したように表情を崩すようすも目にした。諸将の口からも、感嘆が低く漏れ聞こえる。

 孫権は笑ったまま、于禁をうながす。

「続けてくだされ」

「関羽をとらえさえすれば、あとは、簡単に打ち払うことがかないましょう」

「その一言を待っておった」

 于禁の肩を大きな手のひらで音が出るほど叩き、突然のできごとにうろたえる于禁にかまわず、孫権は諸将に向かって明るい声を発した。

「さあ、ゆくぞ。関羽を捕らえる。なに、ただのひげの長い老いぼれよ。我らの敵ではないわ」

「主上。赤兎はいかがいたしましょうや」

 呂蒙がすかさず声を上げる。于禁の目の前に、赤兎にまたがる関羽の堂々たる姿が現れた。

「放っておけ。どうせあれも、老いぼれなのだから」

「殺しまするか」

「もはや、呂布に使われていたころの力はなかろうて。殺すまでもないわ」

「確かに」

 呂蒙が諸将にいくさじたくを命じ始めた。孫権は于禁をともない、外へ向かう。

「将軍はわしのとなりで見物なされ」

 狩りにでもゆくような気軽さで言う孫権を、于禁は感嘆すると同時に恐怖した。この男の度量は、深い。そう直感したのである。


 麦城に逃げ込んだといっても、関羽につき従う者たちは少なかった。その知らせを孫権の背後で受けた時、于禁は関羽に対する恐れが薄まっていくことに気づいた。

 孫権たちは外にいる。そこから于禁は麦城を見る。「関」の姓を刺繍した旗が夜風になびいている。あの旗が単なる目くらましか、それともほんとうに関羽とその配下が立てこもっているのか、外側から見ただけでは判別できない。

 すると、かすかな土煙が見えた。そして馬蹄の音が聞こえた。

 物見が孫権たちの前に駆け込む。

「逃げました。西の方角です。供回りは二、三騎」

「追うぞ」

 呂蒙が命ずるや、馬に飛び乗り、諸将が歩兵が西へ駆けた。

「将軍、我らもゆきましょう」

 孫権は相変わらず不敵な笑みを浮かべている。于禁は無言で騎乗し、孫権の背後を駆ける。

 呂蒙が両手を左右に鋭く振った。歩兵が散る。関羽が駆けてくる。赤兎の脚力に衰えは見えない。

 歩兵たちが道の左右にひそんだ。

「何をしようというのだ」

 思わずつぶやくと、孫権が答えた。

「単純なことよ」

 突然赤兎が横転した。関羽が投げ出される。あとから追いついた将兵も地べたに転がる。転ばせたのだ、と于禁は合点する。

 歩兵たちがわいて出て、関羽たちを縛り上げた。歩兵の一人が赤兎の尻を思い切り叩く。赤兎は駆け去った。

「赤兎」

 関羽の叫びは、悲しかった。于禁は関羽を見る。私はあのような男の前に膝を屈したというのか。

 縛り上げられた関羽は、息子の関平と共に、孫権の前に引き出された。

「少し離れておられよ」

 孫権は于禁に低く告げる。関羽から見えない位置に移動し、それでも于禁は関羽から目を離さなかった。

 立つ孫権、ひざまずかされた関羽。

「これは将軍、ごきげんいかがかな」

「貴様になど用はない」

「まあ、そうおっしゃるな。将軍ほどのお方を無下に扱うわけがござらぬ」

「殺せ」

 孫権は関羽をさげすんで笑った。

「そうですな。将軍のことだ、降伏などなさらないであろう」

「殺せと言っている」

 孫権は関羽をその目の内に飲み込むように大きく開けた。

「おぬしが生きるか死ぬるかを決めるのは、わしだ。おぬしではない。わしに命ずるなど、心得違いもはなはだしいわ」

 関羽が絶句する。それを見た于禁も絶句する。あれが、私が屈した、関羽なのだろうか?

 雷鳴のごとく、孫権はなおも続ける。

「もはやおぬしの世は終わる。否、すでに終わったのだ、関羽。おぬしのごときますらおが一人、いくさを決めるような世は、今、この孫仲謀が、終わらせてやるのだ」

 呂蒙が孫権に一歩近づき、言った。

「主上、処断の時でございます」

「わかっておる」

 最後の雷鳴がとどろいた。

「こやつの首をはねよ」

 于禁は思わず駆け出した。関羽は目を見開いたまま動かない。関平は口惜しそうにまぶたをつむる。孫権は落ち着き払っている。呂蒙が歩兵に指図し、関羽と関平を引っ立てる。孫権は于禁を止めなかった。于禁の足は関羽と関平が、刀を抜いて待ち構える歩兵の前に立ったところで止まる。

 冴えた月光の下、関羽の、続いて関平の頭が、落とされた。

 なにゆえ私はこれを見ているのか。于禁は首から上を失った関羽の胴体に視線がとらえられたままだ。

 孫権のことばが于禁の耳によみがえる。一人がいくさを決めるような世は終わったのだ。それは孫権が関羽だけでなく、曹操にも聞かせたかったことばかもしれぬと、于禁は考える。

 足音が聞こえた。于禁の隣に孫権が立っている。関羽のなきがらに視線を刺しながら孫権は言った。

「将軍。わしの成すことを曹操のじじいに伝えてくだされ。やつがいつまで生き延びるかわからぬが」

 つまり生きよ、と命じているのだろうか。于禁が考えていると、孫権は于禁の肩を音が出るほど叩いた。

「これからは、わしが世をつくるゆえ」

 確かに一つの世が終わったのかもしれぬ。終わらせた雷鳴のようなその男を、于禁はまっすぐに見た。

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世を終わらせる雷鳴 亜咲加奈 @zhulushu0318

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