第21話 写し身
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仄かな心配を他所に、再び島に着任した私にはいつもの日常が戻ってきていた。
もともと私は、彼女の言う通り情の無い冷めた人間だったのだろう。
島に帰って二、三日は、彼女のいない部屋を虚ろに思うこともあったのだが、片付けを済ませて元の姿に戻った宿房には、もう何の感慨も浮かんでは来なかった。
静かな、さざなみも立たない心境で日々の業務をこなしていく。
時々書棚に、彼女の痕跡を見つけて思い出すことはあったが、そんな感傷も程なく薄れていった。そうして、ただ……彼女との約束ともつかない取り交わしである、劇画の続きを描き続ける毎日。
張り合いが、無くなった。
そう言われればそうかもしれない。
少なくとも、私の人生において特異点でもあったあの二ヶ月間は、私の中に重石のように今も残っている。
意識して、その気持ちを混ぜ返そうとも思わなかったが、つらい記憶かといえばそんな事は決して無い。もとより、諦めていた人間らしい生き生きとした日々が意図せずして経験できたのだ。それを思えば望外の幸運であったのだろう。
こんな私には、不釣り合いな輝かしい日々……。
彼女との日々は、私の中で温かい記憶として残っていくことだろう。
………………………………………
あれから────半年後、
変わらずに島で暮らす私のもとに、いつもの補給の定期便が届いた。
これから先三ヶ月分の用品と食料、そして頼んでおいた紙の本も何冊か一緒に含まれているはずだ。
入江の小さな岸壁に横付けされた水上機から降ろされてくる物資を、私は受け取って運搬車の荷台に積み上げていく。もちろん一度では積みきれないので、港から灯台までは何度も往復することになる。
今日は夕方から雨が降る予報だ。
早めに収容しなければ濡らしてしまうだろう。
いつものように手早く荷下ろしを済ませ、その後……物資に含まれていた──私がほとんど飲むことがないお酒を、水上機の機長と随伴の兵士にお礼として殆どを配ってしまうことにする。どうせ、島に置いても古くなってしまうばかりであろうから。
作業が終わって水上機を見送る段になると、機長が思い出したように小さな小包を私に渡してきた。
「少佐からですよ。これは個人的にだそうです」
なるほど、以前将校殿に頼んでおいた珍しい本が手に入ったのであろう。
嬉しいお土産だ。これは今晩、早速読むとしよう。
新たな楽しみを得て、機長たちに礼を言い……そして、日が傾き雲が出始めた空に向かって海面から飛び立つ水上機を、私は岸壁から見送った。
…………………………………
補給物資の収容を終え、シャワーを浴びて簡素な夕食を取り定時連絡も済ませ、それから部屋にこもる。
そして、物資に入っていた本と……将校殿が贈ってくれた貴重な本を、一冊一冊ていねいに書棚に収めていく。痛んだり古びたりしているが、現在ではそれでも貴重な戦前の紙の本だ。やはり、本は手に触れて捲って読める紙の本に限ると思う。
だが、そろそろ本棚を増設しないと収まりきらなくなってきた。
次の物資には、新しい組み立て式の本棚を送ってもらおうか。
そのためには、本棚の配置も考えないと部屋も狭くなってきたような気がする。
……などと考えてから再び小包を見ると、もう一冊、中に綺麗に包装された本が含まれてるのに気付いた。最近出版された本に、将校殿のお勧めするような詩集でもあったのだろうか。
そう思いながら、その真新しい包装を解いていく。
────微かに、花の香のするような包装紙。明らかに、将校殿の趣味ではない。
俄に、心がざわついていく。
そう、この香りは……
姿を見せたその本は重厚な装丁で、誰の手も触れたことのない新品の美しさを放っていた。題名は、『孤島にて~我が旅立ちの物語~』……
そこに記された表題と筆者の名を見て、私は悟った。
『
本の作者の名前は、そう記されていた。
────言われずともわかる、
その名が……真見子
真実を見る者、そういう意味の名を選んだのですね。
鳳……、あぁそういえば、
ロアンとは、彼女の祖国で神の鳥を意味する言葉、
そしてミドルネームのLはかつての名、ロアンの頭文字だろう。
そして、コノリーの姓────
「……よりにもよって────」
震える声とともに、不覚にも涙があふれるのを感じた。
「こんな私の姓を……名乗るというのですか?
──この期に及んでも尚、あなたは……」
名前の文字を、私はそっと指でなぞる。
指先に触れる感触で、記憶が励起され
彼女との日々が鮮やかに脳裏に蘇ってきた。
おもいがけず……素直に、また彼女に会いたいと願ってしまっていた。
会ったところでどうなるものでもあるまい。
今更、あの時の態度を取り繕ったところでなにかが変わるわけでもない。
それに、彼女は今度こそ私を拒絶するかもしれない。
だが、それでも構わない。
初出版のお祝いくらいは伝えたいと思っていた。
そして、この本を贈ってくれたことへの感謝も。
いや……そうではない。
ただ逢いたいだけなのだ、私は、ロアンと──
会って彼女の笑顔を、言葉を浴びたいと焦がれているのだ。
誰かを求める心が自分に息づいていたことに激しく動揺し、これは本のせいだと自分を誤魔化そうとする心理も働いたが、一方で……自分の心には既に彼女が住み着いていたのだということも、今なら納得できる。これを否定したところでどうなるものでもあるまい、と心地よい諦めも感じていた。
幸い、彼女は写し身でもあるこの本を私に届けてくれたのだ。
今夜はこの本を読んで、その思いを抱いて眠ろう。
気づけば外には、降り始めていた雨。
その優しさを感じさせる雨音の中で、私は今宵の共に……この本を選んだ。
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