第18話 自惚れ
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定期便の到着が二日後に迫った、その日の晩。
夕食後、彼女は珍しく早々に自室に戻っていた。
彼女にも、本土への身柄の移送については説明してある。そのための支度を済ませるために、今は部屋にこもっているのだろうと思っていた。
私も自室にて必要な書類をまとめ、そろそろ就寝しようと思い時計を見ると、既に深夜零時を過ぎていた。
床につく前に軽く寝酒をと思って台所に向かい、彼女の部屋の前を通りかかると……まだ明かりが灯っていた。
扉をノックして、私は部屋に入る。
「ロアン……明日は、出立の準備があります。そろそろ眠らないと、身体が持ちませんよ?」
見ると彼女は、机にかじりついて執筆をしていた。
おそらく、出発までに書き上げたいと思っていたのだろう。
「はい。ですが……なんとか、これを──」
彼女はそう言って一旦はこちらに顔を向けたが、すぐにまた手元に目を移していた。執筆に熱中している、というのとは少し違う。……残り少なくなった時間に追われ、焦りを感じているような様子だった。
だが、先日目を通した彼女の作品は、まだまだ終わりが見える段階ではなかった。一日二日で出来上がるものではないだろう。
「本土に行ってからでも、書くことは出来ます。だから今日はもう、お休みなさい?」
そう言って、就寝させようとしたのだが、
「でも……今書き上げなければ、あなたに見てもらうことは出来ないわ」
彼女は思いがけず、そんなことを言った。
自作の書が、誰かの目に触れる機会があるのなら──
たしかに私が言った言葉だ。
だが、それは時と場合による。もちろん、完成を見届けたくないわけではなかったが、ここで無理やり仕上げてもいい作品にはならないだろう。
「大丈夫ですよ……。国籍さえ取得できれば、いつでも自由に連絡はできます。私も、時間を作って顔を出しますから────」
「それではだめなの、意味がないの……!」
彼女は何故か、悲痛な表情で声を上げた。
「ロアン……」
戸惑う私に、彼女は言葉を続けた。
「今書いているこの作品は、この島で……貴方と一緒に過ごしたからこそ、生まれたものなんです」
……その、意味するところはわかる。
だからこそ、今ここで書き上げて私の目に残しておきたいと思っているのだろう。
「……祖国にいた時にも筆を取ったことはありました。でも、これほどに魂を注いで書けたことなど、今まで無かったのです。この先……あなたのいない場所で、書ける保証なんて……」
言いながら立ち上がり、彼女は私に歩み寄ってきた。
「あなたがいたから、私は創作が出来たのです……!」
その言葉に、ただならぬ気配を感じながらも、私はそんな彼女に思いを伝える。
「ロアン……それは、ちがいます」
私は静かに首を横に振ると、彼女はこちらを見つめた。
「ロアン……。あなたの勇気は、誰にでも持てるものではありません。先の見えない大海の中へたった一人で漕ぎ出し、まだ見ぬ新天地を目指す…………。あなたには、ずっと以前からその勇気と強さがあったのです。それなのに……私と会ったことで────私と居ることで、その強さの重荷になってしまうのだとしたら……それは、とても申し訳ないことなのです」
「そうじゃないわ……! 私は、何も知らなかったの。世界がこんなふうに動いていたなんて、私の祖国が……こんな虚飾にまみれたものだったなんて──。でも私は知ってしまった、もう戻れないの。そして……戻りたくないの。真に世界を理解し民を解放する可能性があるなら、私はその道を歩みたい。それは、あなたが教えてくれた事なんです」
彼女は更に私に近寄り、自分の想いを言葉にする。
「まだ……あなたのそばで学びたいことが……たくさんあるのです!」
彼女は瞳に涙をためながら、私の手を取った。
「リカルド……。その道を、私と共に歩んではいただけませんか?」
彼女のその言葉の真意……
流石に、こんな朴念仁の私でもわかるものだ。
しかし、
「ロアン……それは────」
────できない。
いや、決して無理な事ではない筈だ。
社会的な体裁など、取るに足らない問題だ。彼女との歳の差は決して小さくはないが、現代ならさほど珍しいものでもない。そして、死亡偽装と新たな身元の問題は、将校殿がなんとかしてくれると約束してくれている。
それに彼女自身は、国と一族を捨てるとまで言っているのだ。その覚悟が本物なら、普通の手続きで亡命することで容易に解決してしまう。何の障害にもならないだろう。
────では何故。
……こんな根なし草の自分が、他の誰かの人生を背負う事など出来るとは到底思えなかったのだ。元より誰かと共に生きるなど、これまで自分の選択肢には一度たりとも無かったものだ。それが突然降って湧いたような、この……異国の若い女性と、など。
──── 一方で、こうも思う。
彼女の感受性と想像力は素晴らしいものだ。
彼女とともに創作について語り合い、執筆に明け暮れる日々はどんなに幸せな事だろうかと、胸を躍らせずにはいられないほどだ。奇しくもそれは、若き日に夢見た理想の生き方ではなかったか。
私は、何故か必死になって探していた。
彼女と共に生きられないという理由を────。
……そうだ
彼女は外界というものを……世間一般の男というものを、まだ私しか見たことがないはずだ。
この先きっと、世俗と多くの男を目にすれば幻滅するに決まっている。私など……取るに足らないつまらない、半端に老いただけの男だと────。
「ロアン……。あなたには、この先も多くの出会いがあります。私のような者に囚われてはいけません。それは……あなたの作品にとっても────」
「──リカルドの気持ちはわかっています!!」
私の言葉を遮る彼女の叫び。
ロアンは──頬を濡らしていた。
初めて見る、彼女の泣き顔。
「あなたは確かに、私を見ていてくれました……。私達の日々は、貴方にとっても喜びであったと……。それを……私の、ただの自惚れにしないでください……!」
涙に掠れる、悲痛な彼女の叫び。
ずきり──と
胸に痛みが走ったのが分かった。
ここで私が、情に流され彼女抱きしめるのは──容易いことだ。
だが、何の後ろ盾もない私の生き方に彼女を巻き込むことが、理に適っているとは思えなかった。前途を拓くのなら、彼女は私のような者に
私は……静かに首を横に振った。
「あなたと私の過ごした、この島での思い出の記録は、これでおしまいです。……悲しいことですが」
「なぜ…………?」
彼女は涙を顧みずに私に問いを重ねる。
「……悲しいと分かっていて、何故その選択をするのです……? あなたは、そんな世界を憂いていたのではなくて……!?」
「…………」
「あなたは……私に教えてくれたじゃありませんか。想像力が、現実を凌駕することを……!」
────現実、そのとおりだ。
彼女はこれからも生きていかねばならないというのが現実。
そして、私がここでしか生きられない灯台守であるということも────
その現実を凌駕するというのなら……
「そうです……。私はまだ、書けていないのです、本当に書きたいものが。現実を変えるほどの、作品が」
……私も書き上げなければならないだろう。
胸を張って、彼女に提示できる作品として。
「私がここにいては、書けないというのですか……?」
「そうじゃない……そうではないんです」
胸の痛みをこらえ、私は必死に言葉を絞り出す。
彼女の両肩に手を置き、彼女を再び歩き出させる為の言葉と、信じて──
「あなたにも、書かなければならないものがあるのです。ロアン……これからあなたが書く作品は、多くの民を導く希望の力です。そのためには、この島を離れるのが最善なのです」
彼女は、悲しみに染まった表情を湛えながら首を横に振っていた。
そんな彼女に、私は言葉を重ねる。
「大丈夫です。現実的な問題が解決できれば……国籍と身分があれば、いつでも王国に来ることができるのですから……」
「いつになるの、それは……」
「それ、は……」
答えられない。
できる可能性は高くとも、これは希望的観測でしか無いのだ。
「それまでに、もしも戦争が再開してしまったら、もう戻れなくなるのよ……?」
今更ながら、彼女が仮想敵国の人間であるということを思い出させられる。
それでも──
「あなたは、ここを旅立つべきです。貴方には、その責任と使命があるのですから」
──狡い言葉だと思った、我ながら。
ここまで彼女を支えておきながら、その対価を要求するような物言いに。
彼女は、私の手から離れて後ろを向いた。
「……これだけ言っても、分かってくれないのですか……!?」
彼女はそう叫んで、背中を震わせながら泣いていた。
机に手をつき、全ての無情さに耐えるように……。
しばらく、彼女の無言の抗議に晒される時間が続いたが、やがて彼女は幾ばくかの理性を取り戻して、告げた。
「これまで、私に教えてくれた事に……あなたに感謝しています、でもっ……」
涙をすすって私を振り返り、彼女の瞳は私を射抜いた。
「それでも、あなたは……ひどい人です。たった一つの私の願いを……貴方は、振り払ったのですから」
……これで、いいのだと
私は、心の何処かで安堵していた。
胸の痛みも後悔も、すべてこの私が請け負うべき罪なのだろうと。
「──あなたの言う通り……私は、帝国に参ります」
彼女は、自ら歩む決意を固めてくれた。
そんな彼女を見て、私は自らの責務を全うしたのだと、
そう自分を取り繕っていた……。
「……あなたの言う通り、私は書き上げてみせますから」
彼女はそう言葉を続けた。
悲しみに満ちていながらも、そう言った彼女の顔は……美しかった。
私は頷いて、もはや魂のこもらない白々しい言葉を彼女に捧げた。
「貴方の前途に、幸あらんことを……お祈りしております」
「────後悔するといいわ……! 今ここで、私を見捨てたことを」
彼女の言葉を浴びて、私は頭を下げながら部屋を後にした。
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