第9話 聖典
……出掛けに、「よかったらそれもどうぞ」と、自分の分のショートブレッドを彼女に勧めておくのも忘れなかった。
…………………………
海岸線までおりてくると、浜辺には変わらず橙色の船体が鎮座していた。この色は人目につきやすい。今日はまだ付近を航行している船は見当たらないが、他国の人間の目に触れたら問題にもなるだろう。やはり、早めに隠しておくべきだと改めて思った。
ゴム製のいかだの中に入り、何箇所か付いている空気口の栓を抜いて船体を萎ませていく。体重をかけて潰して空気を抜き大雑把に畳んだら、それを運搬車の荷台に引っ張り上げてロープで縛り付ける。上からシートを被せて視線を遮ることも忘れない。
とりあえず、これで付近の航行船舶などに気づかれることはないだろう。
先刻は急いでいたため放置していたが、彼女の持ってきたと思われる旅行トランクも一緒に回収する。……中に何が入っているかは、念の為確認しておいたほうがいいだろう。
坂道を登って、再び灯台まで戻って来る。
そしてそのまま格納庫に乗り入れ、先に扉を閉めて視線を遮る。
……最近の巡視船は性能の良い光学偵察装置を備えているらしい。遥か遠くからでも、こちらの様子は見られてしまうだろう。そういう意味では、彼女の姿も多少気にしたほうがいいかもしれないと思った。
救命いかだの片付けは後回しにすることにして、私は格納庫を後にし再び彼女のいる宿房に戻る。
部屋に戻ると、彼女はまたラジオに耳を傾けているようだった。ちらりと確認すると、やはり皿の上のおやつはきれいに無くなっていた。
私は、回収してきたトランクを彼女に差し出し、
「手荷物は、これで全部ですか?」
そう尋ねた。
「あ、はい。ありがとうございます。……これには大事なものも入っておりますので。紛失していなくて、助かりました」
女性の持ち物のため、やはり気が咎めるがこれも規則だ。
「申し訳有りません、一応……中身を出してもらって、確認してもよろしいでしょうか。これも規則ですので。……もちろん、着替え等でしたら……その、後ろを向いておきましょう」
すると彼女は意外にも、
「いえ、平気です。そこまでしていただかなくても……」
そう言って、気にもしない様子でトランクを開け始めた。
だが、すぐに何かに気づいたように心配そうな表情をのぞかせた。
「その……没収されたり、ということはあるのでしょうか?」
なるほど。彼の国ではご禁制扱いの物も入っているということか。
私は、安心させるように答えた。
「いえ、危険物でなければ大丈夫です。……ちなみに、何か気になるものでも?」
すると、彼女は着替えと見られる服の隙間に包まれていた物を大事そうに取り出して見せてくれた。
「これです」
取り出されたそれは、一冊の紙の本だった。
随分古いもので、相当な読み込まれ方をしたものだろう。カバーは真っ黒になっており、結構な痛み具合だった。
「おぉ……これは」
そして私には、とても見覚えのあるものだった。
『星の海の女神~Frontier and Dream~』
表題に記されていたそれ、私も大好きな本だった。
子供の頃から何度読んだか知れない、自分にとっての聖典と言っても過言ではないものだった。
彼の国でも出版されていたのだろうか、とも思ったがすぐにその考えを否定する。
天華民国では今現在も、戦時中さながらの情報・言論統制が行われている。
舶来品でもあり、こんな理想郷を描いたような書物は真っ先に
彼女は間違いなく、これを家族にも秘密で所持していたという事なのだろう。
「これは、どうしたのですか?」
私が尋ねると、
「以前、柱神教国の宣教師が私の領地に訪れた際、懇意にしていただいたことがありました。その方が、去る時に私にくれたものです。……いずれ人類は、宇宙へと漕ぎ出さなければならない、そう言って────」
彼女はそう教えてくれた。
柱神教国というのはごく小さい国だが、この物語を文字通り聖書のように扱っていると聞いたことがある。特異な文化を持ちながら発展を遂げ、世界的に見ても著しい先端科学技術を有していると噂の、謎の多い永世中立国だ。
「この本との出会いが、私を外の世界に向かわせるきっかけになりました」
本を胸に抱いて、彼女は私にそう言った。
彼女も、書を嗜み創作を愛する者なのだろう。直感的に自分と同じ匂いを感じた私はその姿を見て、あることを思いつく。
そして、それを見せるために部屋の外へ彼女を誘う。
そのまま、堡塁の一画にある私の自室につれていき、その扉を開ける。
そこには……
重厚な本棚と、そこに収められたおびただしい数の紙の本。
「わぁ……!」
思った通り、彼女はそれを見て目を輝かせている。
「ここにある書物は少ないですが、全てあなたに開示しましょう。私の個人所有の物ですから、大事に扱っていただけるなら好きに見て構いません。主に歴史書や、技術年表、哲学書などです。各国の情報なども、幾らかこれで分かると思います。少ないですが、創作物語や経典もありますよ。あ、それから────」
私は、本棚の端に収められていた、ひときわ汚れた本を取り出してみせた。
「──これですね」
それは……彼女が持っていた本と同じもの。
装丁が少し違うが、おそらく彼女の持っていた本とは版が違うのであろう。これも彼女の本と同じように、手垢で真っ黒になっている。
「『星の海の女神』……! あなたも持っていたのですか!?」
──今から100年以上も前に書かかれたSF小説の傑作。
なのに、今読んでもその描写は未来的で色褪せることがない。なにより、創作SFにありがちな先端科学やロボット技術などのギミックを多用せず、そこに生きる人達の姿と心の葛藤を描くことで見事にその世界を表現してるところが素晴らしい。その作中には、人間が次の段階に進むための指針がふんだんに描かれているのだ。社会システムや、家族というものの新たなる形、人口問題……そして、星の海へ漕ぎ出すことの必然性と可能性も。
それこそ、表紙が剥がれ落ちるるほど何度も読み返しては堪能したものだ。この島に来ると決めた時、一番始めに荷物に含めたのがこの本だった。
「私の、一番の愛読書です……あなたも、そうだったんですね」
私の言葉に、彼女は目を輝かせながら答えた。
「はい……! この本があったから、私は『踏み出す勇気』を持ち得たのです」
彼女の行動の原点が、ようやく分かった気がした。
そして、何故私が彼女に興味を持ちえたのかも────
きっと彼女とは話が合うことだろう。
少なくとも、これからの彼女の手助けに迷いを生ずることはなさそうだ。
不安の多い出会いではあったが、偶然にも自分の
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