第4話 定時連絡
しかし、日中の監視業務では少々困ることもあった。
晴天時なら散歩がてら一回りするのも容易な島だが、荒天時ともなると命がけである。尤も、そんな日に海岸線に出てはいけない決まりなので、灯台の監視台からでは死角になる部分の島の裏側を確認するための小さな別棟の監視台まで行って戻って来るだけである。50m程しか離れていない、安全なお仕事だ。しかし任務規定上はそれでよくても、漂流者などの有無はさすがに直接目視で確認しないわけにはいかない。将校殿は「可能な範囲で充分」と言ってはいたが、こればかりは私は欠かすつもりは無かった。風や波の高い日はもちろん出歩かないが、雨が降っている程度なら必ず島の周りを歩いて巡回する。漂流物の有無や、人為的な痕跡が無いかを確認しながら歩いて回るのだ。
世界情勢的にはやや影の薄いこの島だが、重要な拠点でもあるため隣国の工作員などが侵入してくる可能性も無くはないのだ。もしそんな事態が起こったら、無抵抗で身の安全を最優先にするように言われていた。定時連絡が途切れればすぐに軍が動くことになっている。付近の巡視船も駆けつけることだろう。
そして……私の腕には、軍から命じられ常に外してはいけない腕輪が嵌められている。
これは私の心拍と連動しており、これが停止した場合には島に異常があった──「有事」と見做され、通信が自動で送信され即座に軍が出動することになっていた。
生き残ることも、ここでは私の重要な任務のひとつなのだ。
そんな平穏な島の日々の中でも、稀にさざ波を立てるものが現れることがある。
………………………………
『かつて女神の歩いた路を、この星は巡りたもう……』
本日、晴天
風、波ともに穏やかなり────
付近航行中の船舶、稀なり
漂流者、亡命者等はその姿を認めず……
灯火健全、業務に支障なし────
本日も、我が海は平和であります
……管理棟備付けの無線から、いつもの定時連絡を済ませ、私は再び灯台上部の監視台に上がる。
通信の最初に付け加えられた文言は、その日に割り当てられた暗号文だ。私と担当将校殿の共通のとある愛読書の引用で、日付から乱数表に照らし合わせた
万一、他国の工作員が私に成り代わってこの島を占拠した場合などに、その報告の真偽が判別できるようにである。
まあ、件の島占拠問題でヒリヒリした世界情勢下とはいえ、自国より遥かに大国の領土に攻め込むほど度胸のある国もあるまい。僭越ながら我が国は世界的に見ても有数の大国であり、前述の第三国という立場を最も拝命している国なのだ。
それがわかっているからこその、このような手薄な警備体制でもある。
この日も、朝の点検と定時連絡を終えて朝食を簡単に済ませ────監視台から周囲を見回し、背伸びをしてやれやれと散歩に出ようとした時であった。
……昨日の夕方には無かったはずの、妙なものが島の海岸に打ち上がっているのに気付いた。橙色をした、丸みを帯びた大きな風船のような物体……あれは、大型船舶に搭載されている救命いかだではないか……?
定時連絡でもラジオ放送でも、付近で海難事故があった等という情報は入っていない。
航行中の船舶から入る無線のやり取りにも、遭難者の捜索を示すようなものは含まれていなかった。
めったに起こらない、緊張感が身に走る。
定時連絡を終えたばかりだと言うのに、監視が
報告、報告────こちら櫓島灯台、こちら櫓島灯台
島の海岸に、救命いかだらしき物体を目視
これより、確認に向かう
次回連絡は二時間後を予定、
異常の現認に向かう場合は必ず報告を入れてからにすることが定められている。突発的な際にはその限りではないが、今は灯台内にいるのだ。手が離せず連絡できませんでした、では言い訳が立たないであろう。
私は念の為、装備させられている腰の拳銃を確かめ、ヘルメットを被り防刃ベストを身に着ける。ロッカーから小銃も取り出し弾倉をベストの胸ポケットに入れて背負う。それから外に出て、堡塁に併設されている格納庫の扉を開け小さな運搬車を駆り出す。ろくに道の整備されていないこの島で物資を運ぶために配備されている、タイヤが片側4輪ずつ付いている悪路用の小さな運搬車だ。国に帰れば同じものが農作業に使われているのをよく見かける、極々小さな作業車である。それに、簡易担架と救急パックを積んで未舗装の道を走り出す。
ガラス瓶で中途半端に飾り立てられた、いつもなら
たどり着いた小さな砂浜には似つかわしくない、鮮やかな橙色をした目立つ船体。
五、六人乗れるゴム製で小型の……間違いなく救命いかだだった。
客船に搭載されている救命いかだなら、もっと大きな物が一般的なはずだ。とすると……貨物船から誤って脱落したものだろうか、或いは漁船か。
周囲を見回し、人の気配が無いか確かめる。
仮に中に誰か乗っていたとして、既に下船して島に展開でもされていたとしたら厄介なことになる。もっとも……救命いかだでわざわざそんな上陸作戦をするとは思えない。推進力の無い
私は運搬車から砂浜に降りると、腰の拳銃を抜いて構え、注意深くその救命いかだに近づいていく。……歩み寄りながら周囲を確認したが、足跡のようなものも、それを偽装した痕跡も残っていなかった。
いかだの乗り入れ口の幕が少しめくれており、中の様子が伺えそうだ。
そこに腰をかがめて、中を覗き込むと……人の姿があった。
気を失っているのか眠っているのか定かではないが、女が一人ゴム製の救命いかだの床に横たわっていた。隙間からぐるりと船内を見回しても、他に姿は無い。この女が一人だけ乗ってきたということだろうか。
改めてもう一度、船外の周囲を見回してみたが、間違いなく足跡は自分以外のものは残っていない。先に誰かが船外に降りて彼女だけが残っていた、というわけでもなさそうだ。
もう一度、乗っていた女性の姿をじっくりと確認する。
──整った服装と顔立ち。
こんな無人島に似つかわしくないスカート姿で、服自体も高級そうなもの。
少なくとも労働者階級の人間ではなさそうだ。
対象が女性であることで若干気が咎めたが、詳しく調べない訳にもいかない。
私は、ゴムボートに天幕がついたような形状の船内に静かに足を踏み入れ手袋を外し、まず彼女の呼吸の有無を確かめ脈を取り、生きていることを確認する。
──手に触れる手応えがある……間違いなく生きているようだ。顔色が若干悪いが、多分疲労と空腹の為だろう。
次に彼女の身体を探って、不審物を身に付けていないかを確かめる。同時に身分を判別する物品を持ち合わせていないかを────。
大まかにだが、調べてみて不審な物は見当たらなかった。
唯一目についたのは、服に付けられていたキラリと光る国民共栄党のバッジ。
なるほど……隣国の支配者階級の者か。
船内の隅には開封した保存食の空がまとめられててあり、少ない食料を食べ尽くしたであろう跡が見られた。どうやら釣りにも挑戦して……多分断念したのであろう、道具のようなものも散乱していた。そして何故か、旅行に持って行くようなトランクが彼女の傍らにあった。これを見るに、どうも海難事故とかそういうものではなさそうだ。
政治的な思想に反発して出国したか、あるいは派閥闘争に敗れて逃げてきたか── いずれにしても、真っ当な理由ではないのだろう。
少なくとも、難破した船から海に投げ出され命からがら逃げてきた……のではない事は、間違いない。身なりが綺麗すぎるし服も濡れていない。船上で活動するような動きやすい服でもないことから、この女が船員ではないことは明白だ。救命胴衣すらも着けていないというのは、世間知らずなのか頭が弱いのか……。おまけに、救命いかだの中に手荷物まできっちり持ち込んでいる。それだけでも、この女がお嬢様育ちであることが窺われた。
そもそも、救命いかだに一人だけというのが不自然だ。……まあ、他の海難者を見捨てて来たということはあるかもしれないが。
見ると、紛失しないよう紐で結わえられた
……気がついたら事情を聴取して、それから軍に連絡……本土からの水上機を飛ばしてもらって然るべき機関に収容してもらう──で、いいだろうか。
灯台に戻って任務規定を読み返さないと、細かな部分で間違いがあるかも知れないが、概ねそれで合っているはずだ。まずは人命優先でいいだろう。
私は、乗ってきた運搬車を救命いかだに横付けして、それから気道を塞がないよう慎重に女を抱えて荷台に積んである簡易担架に横たえて乗せた。
陽の光の下で見る彼女の顔は、服装や雰囲気よりもずっと幼く見えた。二十代半ばくらいだと思っていたが、ひょっとするとまだ二十歳前なのかも知れない。
背もたれすら無い簡素な運転席に腰を乗せると、私は再びエンジンを始動し先程来た道を戻り始めた。整地されてはいるものの舗装のされていない剥き出しの地面の道を、今度はゆっくりと灯台に向かって登っていく。
戻ったら部屋に寝かせて容態を確認、それから無線で報告だな……そう思っていた時────私の腰を掠める感触があった。
「──動かないで!」
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