寄生の子 三
朝一番におかみさんにカガミさんたちのことを伝えると、おかみさんは複雑そうな表情を浮かべた。お客様が増えるのは喜ばしいことだけど、普通だったらもっとお金を取ることができたのに、と内心でそろばんを弾いているのかもしれなかった。
「厨房には知らせてあるんだろうね?」
おかみさんの心配は既に、お客様に満足に朝食を提供できるかどうか、というところにあるらしかった。わたしは内心でほっと胸をなで下ろす。
「はい。寝る前に、厨房に置き手紙を置いておきましたから」
「なら、いいんだけれどね」
おかみさんはそれだけ言って、早々にわたしに背を向けた。
「今日朝食をお出しする時に、私も挨拶に伺うから」
カガミさんたちの座敷にはわたしが朝食を持っていけ、ということみたいだった。
○
できあがった朝食を届けにカガミさんたちのいる座敷に入ったおかみさんは、体に染みついているはずの流麗な動作をピタリと止めて、大きく目を見開いていた。お膳を持つ手が激しく震えて、味噌汁のお椀がさざ波を立てた。
「やあ、これは見事だ。銀鮭の香ばしいいい匂いがするね。米の炊き上がり具合も天晴れ以外に言葉がない。甘い香りがここまで漂ってくる」
ヨヨくんが最初に口を開いて、わたしはあっと思う。おかみさんは、もしかしたら目の見えない幼い子供の姿を見て、動揺したのかもしれない。
わたしはヨヨくんの盲いた姿をもう知っていたから平気だったけれど、最初はわたしだって驚いた。こんな幼い旅の子供が、外の世界を何一つ見ることができていないなんてと。それでは旅の喜びの大半を味わうことができないだろうし、お父さんとひとたび離れてしまえば、きっとヨヨくんは何もすることができない。攫われて殺されてしまうかもしれない。旅はヨヨくんにとって、普通の子がするよりももっとずっと危険なものだ。
「……」
でも、わたしはそれ以外の引っかかりも同時に感じていた。座布団はちゃんと二人ぶん用意されているはずなのに、ヨヨくんはカガミさんの背に貼りついたままだった。ヨヨくんはこれから席に座るのかな、と自分で自分を納得させるけれど、部屋の奥の布団が気になって、自分で出した答えすらうまく飲み込めない。
わたしが敷いた子供用の布団には、使われた形跡が全くと言っていいほどなかった。わたしが敷いた時のまんまだ、と一目でわかった。わたしなんかまだ半人前とも呼べない手伝い程度の女中だけれど、それでも普通の人よりはずっときれいに身の回りの世話をやってのける自信がある。カガミさんやヨヨくんがどんなに手先が器用で丁寧な人だったとしても、わたしと同じくらい美しく整えられるわけがない。整えられたらたまらない、とすら思う。わたしはもう何年もここで働いているのだ。旅の人に簡単に真似されては、宿のみんなに面目が立たない。
だいいち、カガミさんの布団はちゃんと乱れているのだ。カガミさんはわたしほどうまく布団を整えられない。かといって、ヨヨくんがそれよりもうまくできるとも思えない。ヨヨくんは子供で、おまけに目も見えないのだから。
わたしの脳裏に、おんぶの体勢で大人用の布団に入る親子の姿が想起された。べつに子供用の布団を使わなくたっていい。親子で一緒の布団で寝ることは、むしろ微笑ましいことだ。親の手に抱かれて眠るのは子供の特権だ。
でも、カガミさんとヨヨくんのその様子だけは、なぜか不気味に感じられてならなかった。
向かい合って抱くのでもない。寂しがった子供が父親の背にしがみつくのでもない。
カガミさんたちのそれは、まるで日の下を立って歩いている時の再現だ。縦の状態でしていることを、横になっても無理にやる。そんな想像しかできなかった。
それじゃあまるで、子泣き爺の妖怪にでも憑かれているみたいだ。
──カガミさんがかわいそう。
わたしはそんな風に思う。わたしがカガミさんの子供だったら、自分の足でちゃんと歩いて、手伝いだって進んでやるのに。
「昨晩は──」
朝食の配膳を終えたおかみさんが、畳に手をつきながら口を開いた。私はそのかしこまったおかみさんの声を耳にした瞬間から、考え事をどこかに放り投げて背筋を伸ばしている。
「昨晩は私どもの見習いが一人で応対させて頂きまして……何か不手際などございませんでしたでしょうか」
おかみさんが深々と頭を下げるのに合わせて、わたしも頭を下げる。カガミさんたちはヘンなところはあっても怖い人という印象はなかったから、怒られる心配自体はそこまでしていなかった。
でも、カガミさんたちが「何も問題なかった」と言っても、昨晩のことを何も見ていないはずのおかみさんが、まるで見てきたかのようにわたしの不手際を責め立てるんじゃないかという気がして、わたしは頭を下げている間じゅうずっと縮こまっていた。
「不手際だなんてとんでもない! お顔を上げてください」
ヨヨくんの元気な声が聞こえてきて、わたしはパッと顔を上げた。さっきまで不気味に感じていた相手の言葉に素直に反応するなんて調子のいい話だと自分でも思うけれど、誰に褒められてもうれしいものはうれしかった。
でも、おかみさんは未だ頭を下げたままだった。それで何かを察したカガミさんが「ええ、何も」と静かに言い添えて初めて、おかみさんは顔を上げた。
「むしろ彼女には手厚いもてなしで迎えて頂きました。無理を言ったのはこちらの方でしたから、感謝してもしきれません。まさかこのような立派な部屋を安く貸して頂けるとは……昨夜はああ言って頂きましたが、空き部屋はいくらでもあったのではないかと思いまして」
例えば二階とか──カガミさんは礼儀程度のゆったりとした微笑みを浮かべながら、人差し指をぴんと立ててそう言った。
「え──」
「いえ、二階は客室としては使用しておりませんので」
おかみさんが早口で断じるように言った。上げていたはずのおかみさんの頭は、いつの間にか下がっている。それはお辞儀でも謝罪でもなく、カガミさんの橙色の──お天道さま製の視線から逃れるように畳の目へと吸い込まれているみたいだった。
「……左様ですか。皆様の事情に踏み込んでしまったようで、かさねがさねご無礼を。うちの愚息はなにぶん目が見えておりませんので、上の階に人の気配がないことを察してしまったようでして。上階が客室なのだとしたら、きっと彼女が気を利かせて上等な部屋に通してくださったのだろうと。……無粋な真似をどうかお許しください」
今度はカガミさんが粛々と頭を下げた。その背中に貼りついたヨヨくんの小さな唇が、面白そうに吊り上がっていた。子泣き爺みたいなヨヨくんは、いつも笑っている。大人みたいな言葉を使って、大人みたいな余裕を持っている。
でも、それも当然だ。だって目が見えないヨヨくんは、一人で歩くこともできない。だからいつもカガミさんに負ぶってもらっている。旅をしていても歩いて疲れることはないし、いつもお父さんに背負われているから、寂しくもならない。
ヨヨくんには、余裕を失う理由がないのだ。
いいな、とわたしは思った。ヨヨくん、いいな。羨ましいな。
生まれつき目が見えなかったから自分で歩かなくてよくて、生まれつき目が見えなかったからずっとお父さんがそばにいてくれる。寂しさなんかずっと感じなくてよくて、自分で働かなくてもごはんが食べられて──きっとヨヨくんは、カガミさんにぶたれもしない。
だってヨヨくんは、「目が見えないから」。
はじめからかわいそうなヨヨくんは、それ以上の「かわいそう」を与えられないように生きている。
でも、それはカガミさんにとってはきっと呪いだ。
自分の子供の「目が見えない」せいで片時も離れられなくて、「目が見えない」自分の子供のぶんのごはんを調達しなきゃいけない。
──邪魔じゃないですか? わたしは気づくと心の中で、カガミさんに訴えかけている。
「かわいそう」を盾に何もしないヨヨくん。自分の子供。
何もしないなら重荷を背負っているのと一緒じゃないですか?
でも、わたしは違います。生まれたときからこの宿で働いて仕込まれて、掃除も買い物も洗濯も料理も──だれかの役に立つために生きてきて。
それで日銭を稼いできました。まだわたしは子供だけれど、やっていることは立派な大人。
それに比べたらヨヨくんはきっと──
「がらくた置き場なんです。お恥ずかしい」
隣に座していたおかみさんが、観念したように口を開いた。
「…………え?」
わたしはお客様とおかみさんの前にもかかわらず、子供みたいな声を出してしまった。間抜けで幼くて、余裕なんてちょっともない、今にも泣き出してしまいそうな情けのない声。
「二階に人の気配がないのも当然のことです。あそこはがらくた置き場。昔は倉庫として使っていたのですが、食材を保管するには厨房と階段が離れすぎている。壊れた道具はすぐに修理に出してしまえばいい──そうやって、あそこには使わないものばかりが放り込まれるようになってしまいました。それからは中のものを必要とする機会もなく、使わない場所を掃除する手間も惜しい。ですから二階に出入りする者は全くと言っていいほどおりません。もちろん、そんな汚い場所にお客様をお通しするわけにもいかない。お見せすることすら憚られます。……ですから、二階などはじめから存在しないようなものなのです」
……嘘だ。わたしは思った。
おかみさんは嘘をついた。カガミさんたちにじゃない。わたしにだ。
だって、おかみさんは昔、二階へ続く階段を上ろうとしたわたしに、こう言ったのだ。
あまりにも必死に、鬼の形相で。
『あそこには神聖なお客様がいらっしゃる。アンタが足を踏み入れることは今後一切許さないからね』
「神聖なお客様」を守るために、おかみさんは二階のことを否定したんだろうか。……違う。
だって、いくら特別なお客様とはいえ、その存在を隠すためにお客様を「がらくた」呼ばわりすることを、おかみさんは絶対に許さないはずだ。それが「神聖なお客様」とあればなおさらで、そんな立派な人が泊まっている部屋を嘘でも「汚い」と罵るくらいなら、正直に話してしまったほうが絶対にいいはずだった。
それに、おかみさんは二階に人の気配がないことを否定しなかった。広い二階にお客様が一人しかいないとなれば確かに人の気配はしないも同然だろうけれど、まったくいないわけじゃない。その「神聖なお客様」だって、足音ひとつ立てないわけでもないだろう。なら、やっぱり多少は人の出入りがあることにしておいたほうが、何かあった時にカガミさんたちのようなお客様にも嘘と思われないはずだ。
……だったら、やっぱりおかみさんはあのときわたしに嘘をついたのだろう。「神聖なお客様」なんて最初からいなくて、でもわたしに二階に入ることは絶対に許したくなかった。
……どうして?
わたしの目は気づくと涙に濡れていた。隠したかったけれど、少しでも下を向いたらお客様のための畳を濡らしてしまいそうだった。
──わたし、おかあさんのためにがんばってきたのに。
おかあさんはわたしのこと、なんにも信頼なんかしてくれていなかったの?
瞳の表面に溜まった涙を必死に乾かそうとしていると、下半分だけのヨヨくんの笑顔が視界に入った。ちらと覗いたぎざぎざの歯が真っ白に輝いていて、濡れ羽色の短い髪とは対照的に見えた。
わたしはその黒くてつやつやした髪が羨ましくて、ヨヨくんがわたしのおかあさんにぶたれる姿を思い浮かべる。
すると、わたしと同じようにぶたれる小さな男の子の想像が、たちまちおぞましい異形に姿を変えて、わたしの頭のなかを喰い散らかしていった。
次の更新予定
国覓のカガミ 蓼川藍 @AItadekawa
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