最終話
5
痛みで起きたのか、起きたから痛さを感覚できたのか。どちらにせよ、体があること自体が憎いほどの苦痛に、苦悶の声をあげるしかなかった。
特に頭が痛い。ガンガンと内側から激しく叩かれている。目が開けられないほどだったが、まばたきの隙で、自分が車内にいることがわかった。先程まで乗っていた光聖の車の助手席だとわかる。
シートが倒れた助手席で私は数枚の毛布に埋もれていた。ごおおとエアコンが暖かい風を全開で流している。依然体の芯は冷え切っていたが、徐々に表面は解けていく感覚がした。脳に血が巡ってくる。
「大丈夫か?」
目だけで見ると、光聖も運転席で毛布にくるまっていた。髪の毛が濡れていたが、余裕のある表情はまるでプール上がりのようだった。
「……人を落としておいて言う台詞?」
「大した高さじゃない。水深も深いから、普通なら死ぬことはないさ。今日はさほど寒くないし」
「だからって……」
「それでも運が悪ければ死ぬけどな。准のように」
私の文句はたやすくせき止められた。
「……准は、准だけが死んだんだね」
あの日、私と飛び降りた日に、准は死に、私は生き残った。そのショックからか、その出来事自体を忘れ、准のことすらも忘れ、恋も錯覚でしかないと思うようになった。
でも錯覚ではなかった。錯覚だと思っていたこと、それこそが私の錯覚だった。
准を覚えていたら、恋は錯覚であると認識することができない。恋を覚えていたら狂ってしまう。だから准の記憶も意識の届かない奥底に封じ込めたのだろう。
でも思い出した。恋はあったことを。たとえ錯覚だったとしても。そして私の恋人はもういないことを。
「思い出したか」光聖が言う。
「これが恋の証明方法? あの時と同じようにもう一度飛び降りればショックで思い出すと? でも、もし死んでたらどうしてたの。私だけならともかく、自分だって死ぬかもしれなかったのに」
「別にそれでもよかった。どっちでもよかったんだ。君が死んでも、俺が死んでもいいと思った。思い出すかどうかも賭けでしかなくて、結局思い出せなくてもそれならそれでよかった」
「じゃあ、どうして」
「ただ、君があいつを殺したようなものだから。でも、大学で再会した君はそれを忘れていた。君だけがいつまでも忘れているのは許せなかったんだ」
「……そう。そうね」
それは光聖の言う通りだと思った。誰よりも私に准を覚えている責任があるのだから。それに彼が死をもって私に刻んだ傷も。しくしくと痛むこの傷跡を、私は恋と呼ぶことにした。
「俺を警察に突き出すか?」
どちらでもいいと言いたげな光聖だったが、それは私も同じだった。まるであの日からの旅路がようやく終わったかのようにひどく疲れていて、それどころじゃなかった。
「殺す気はなかったんでしょう。本気だったら、こんなに毛布を用意してないんじゃない」
「確かに」
「それに、私もあなたにひどいことをしたかもしれないし」
「俺に?」
「光聖は、准が好きだったの?」
「そりゃあな」
「それは、恋だった?」
「……さあ。そんなのもう確かめようがないだろ」
恋がだめな世界で一人打ち明けられず悶々としていたのだとしたら、それは辛いことで、私達は結果的にひどいことをしてしまったことになる。彼をそんな状況に追い込んでしまったのだから。
「なら、私に恋をしていたというのは?」
「君と准に恋焦がれていたのはたぶん本当だから。でも、今ではずいぶん遠くに思える。だからやっぱり錯覚だったのかもしれない」
「何もかも錯覚だったのかもしれないね」
「でも、それだと全てが嘘だったということになってしまう」
「そうかな。錯覚だったとしても、嘘にはならないんじゃないかな」
准と育んだ感情も、三人の仲も、確かにそこにあって、今もここにあるものだ。それが嘘だというなら、生まれてからの全てが嘘だということになってしまう。
「だから、別に錯覚でもよかったんだよ。私達は難しく考えすぎたんだ」
「……そう思えれば、解決なんだろな」
光聖は納得していないようだった。どうにも私より迷いがあるようだった。
「じゃあ、また恋はどんなものか探すために、今度は私と光聖が付き合ってみる?」
「は?」光聖が眉をひそめる。
「私達に恋焦がれていたんでしょ。准はいないから、もう私しかいないじゃない」
「冗談だろ。殺人犯と付き合う気か。俺の方がそんな気になれないって」
「あ、私、今初めて振られたかも」
光聖は呆気に取られていたが、やがてふっと笑った。
「なんだよそれ。元気そうだな、もう行くか」
光聖は毛布を膝に落とし、ハンドルに手をやり、車を動かした。
行く……私達はどこに行くというのだろう。この錯覚だらけの世界で。
流れゆく車窓からの風景はいまだ暗い。でもそろそろ夜が明けそうな気配がした。いや、全く時間がわからなかったから、それもただの気のせいかもしれない。
恋の証明方法 灰音憲二 @heinekenji
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