忘れられた君、忘れられない僕

 数日後、雨が降った。

 今日は、傘を2本持っている。

 あの透明なビニール傘は、返さなきゃいけない気がしたからだ。


 雑貨屋の軒先に立つと、以前とは違って店が開いていた。

 中に入ると、店の奥から小さな物音が聞こえる。

 

「……おっと。若いお客さんが来るのは珍しいね」

 

 店主と思われる40代くらいの女性が、店の奥から現れた。


「すみません、この傘を返したくて……」


 悠が傘を差し出すと、店主は一瞬驚いた表情を見せた後、ゆっくりと受け取る。


「そっか。この傘、君が持ってたんだね」

 

 店主は怒るどころか、少し柔らかい笑みを浮かべていた。

 その表情に、悠は少しだけ違和感を覚える。


「……勝手に借りてしまって、本当にすみませんでした」


 頭を下げると「いいよいいよ、頭なんて下げなくて」と、店主は傘の柄を軽く撫でながら、小さく笑った。


「ねぇ、君。もしかしてこの傘、誰かと使った?」


 唐突な質問だった。

 『誰か』とは、きっと夏南のことを指しているのだろう。


「……はい。ある女の子と一緒に使っていました」


 悠の答えを聞くと、店主の瞳がどこか懐かしむような色を帯びた。


「その子、元気そうだった?」


「え?」


 言葉に詰まった悠を見て、店主は小さく笑った。


「これね、私の娘の傘だったの」


 その一言が、悠の胸に深く突き刺さる。


「娘は外が好きでね。雨が降ってても、傘を持っていつもどこかに出掛けてたんだ」


 店主は、傘を触りながらポツリ、ポツリと語る。

 悠は、黙って店主の言葉に耳を傾けた。


「あの日もそうだったな。いつもみたいに『出掛けてくるね』と言ったきり、そのまま帰ってこなかった。……交通事故にあっちゃってね」


 店主の声は淡々としているが、その瞳の奥には消えない痛みが滲んでいるように見える。


「その傘はね、最後に娘が使っていた傘なんだよ。雨の日は濡れないように、って意味も込めて、店の外に置いてたの」


 悠は、言葉を失った。

 この傘は、夏南のものだったのか。


――俺が夏南と共に過ごした日々は、このたった一本の傘がつなげてくれたものだったのか。


「……俺、夏南のことちゃんと送ってあげられたんでしょうか」


 悠は、静かに呟いた。答えを求めている訳ではない。でも、自然と言葉に出ていた。

 店主は小さく頷き、穏やかに笑っている。


「きっと、君と一緒に歩けて楽しかったはずだよ」


 その言葉に、胸が温かくなるのを感じる。

 けれど同時に、どこか切なさも押し寄せてきた。

 

 夏南はもう、本当にいないんだ。


 ◇


 それからも、何度か雨が降った。


 傘を差して歩いていると、今でもふと隣を見てしまうことがある。

 けど、そこに彼女が現れることはなかった。


 ポツ……ポツ……と傘に雨が当たる。俺は立ち止まり、空を見上げた。

 あれだけ嬉しかった雨が、今はもう億劫でしかない。


 傘の下で聞いた声、彼女の笑顔を思い出し、ふっと、笑ってしまった。


「……この雨はいつまで続くんだろうな」


 いつか、彼女がいない雨の日にも慣れるんだろう。

 だけど、彼女と過ごしたあの日々は、きっと雨が降るたびに思い出す。


 どうやら俺にも『忘れられないもの』ができたみたいだ。


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いつもは一人ぼっち。傘を開くとふたりぼっち。 むぎ茶 @shu___1__

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