きっと、隠してるのは君だけじゃない

 雨の音が、どうもおかしい。


 それに気づいたのは、いつもの坂道を夏南と歩いていた時だ。雨はしっかり降っているのに、音が薄い。


 傘のビニールを叩く音が、遠い。

 どう表現するべきか難しいが、そうとしか表せなかった。


 チラッと夏南を見る。

 いつも通り、肩と肩が触れそうな距離を保っているが、彼女の肩は傘の内側に収まっていなかった。

 傘からはみ出した赤いパーカーは、雨に当たるたびに水を吸うはずなのに、濡れていない。

 少し前から気付いていたが、目を逸らしてきたことだ。


 「今日、静かだな」


 キョトンとした顔でこちらを振り向く夏南に、悠は空を指さした。


「……そう? 気のせいじゃない?」


 傘の外を眺めていた彼女は、気のない声で答える。



――ああ、気づいていないフリをしているのは、俺だけじゃなかったのかもしれない。


「なぁ」


 悠は、足を止めて夏南を呼びかける。


「どうしたの?」


「お前、隠してるだろ」


 言いたくはない。でも、きっとこれは言わないといけないことなんだろう、と自分に言い聞かせる。

 夏南は、数歩だけ先に進んでから、ふっと足を止めた。


 肩越しに少しだけ振り返った彼女は、どこか物憂げな表情を浮かべている。


「隠すものなんて、ないよ」


 その言葉に、悠はため息をついた。


「……だろうな。雨に濡れないことも、別に夏南は最初から隠してなかった」


 静寂が落ちる。


「気付いちゃったんだね」


 いつも通りの明るい笑顔。

 だが、いつも通りのはずなのに、悠には彼女が泣いているように見えた。


「……気付いたんじゃなくて、お前が気付かせたんだろ」


 夏南は、ふふっと笑いながら「そうかもね」と呟いた。


 ◇


 再び、お互いに歩き出す。

 いつもと同じ道を歩いているはずなのに、一歩一歩が重く感じた。

 音、景色、このビニール傘越しに感じるものすべてが、曖昧な存在のように思える。


 気付くと悠も夏南も、無言で歩く。

 静寂の中で、彼女の足音が聞こえないこと気付いたのも、この時だった。


 ◇


 以前、夏南の様子がおかしくなった横断歩道の前で二人は立ち止まった。

 信号は赤だ。

 夏南は、じっと信号の先を見つめている。その姿は、前に見たことのある光景とそっくりだった。


(ああ、そうか……)


 あの時は『この道は好きじゃない』って言ってた意味が分からなかったが、今は何となく分かる気がする。

 きっとここは、夏南が出会った頃に言っていた『忘れられないもの』なんだろう。


「なぁ。初めて話した時、俺に『忘れられないもの』があるか聞いてきたよな」


 夏南の肩が、ほんのわずかに動く。

 そして、ゆっくりと悠の方を振り返った。


「うん」


 夏南は小さく返事をした。


「あの時は、そんなものないって答えたけど、今は違う。俺は夏南のことが好きだ。きっともう、一生忘れられない」


 人生初めての告白に、声が震える。

 あんなにうるさかったはずの雨の音が、今はもう何も聞こえない。


「……馬鹿だな、悠は」


 夏南が、静かに呟いた。


「本当に、馬鹿」


 彼女の声は、どこか温かかった。


「馬鹿なことを言うのはいつも夏南の方だったのにな」


 先ほどまでの震えはどこへいったのか、いつものように言葉が軽く出る。

 夏南は少しだけ笑った後、ゆっくりと静かに頷いた。


「私も好きだよ」


 その言葉が、心の奥深くに静かに溶けていくのが分かる。

 お互い触れることはできなくても、確かに通じ合った瞬間だった。


「そろそろ、行くんだろ」


「うん」

  

 夏南は、悠の顔をじっと見つめている。

 ビー玉のように綺麗な瞳には、涙が浮かんでいた。


「そんな顔するなよ。……お互い忘れないために、最後は笑顔でお別れするぞ」


「うん、うん……。そうだね、そうしよう」


 そう言いながら、夏南はぎこちない笑顔のままで、涙が止まらないようだった。 

 触れないと分かっているはずなのに、悠は思わず夏南の頭を撫でる仕草をしてしまう。


「あはは。そんなことしても触れないのに」


「わ、悪い。どうにかしないとって思ったら咄嗟に……」


「そういう所、好きだよ」


 心臓がキュッとなり、息苦しさが襲う。

 夏南の言葉が嬉しいはずなのに、なぜか涙が溢れて止まらない。 


「最後は笑顔でって言ってた俺がこんなに泣いてたら駄目だよな」


「そうだよ! そんな酷い顔でお別れしたら、ずっとその顔思い出しちゃうんだから」


「酷い顔してるのはお互い様だろ? 夏南なんて目も頬も真っ赤だぞ」


「そういうこと平気で言っちゃうから友達ができないんだよ」


 一瞬の間を開け、お互い悲しさをかき消すかのように大声で笑った。

 狙ったかのように、太陽が二人を照らす。

 雨ももう、ほとんど降っていないようだった。


「じゃあ、そろそろ行くね」


 夏南は悠にゆっくりと背を向けると、一歩踏み出した。


「……そっちに行っても絶対に俺のこと忘れるなよ!」


「悠もね! 私のこと忘れないでね!」


 少しずつ夏南が離れていく。

 引き留めたい気持ちをグッと堪えて、絶対に忘れないように最後まで夏南の後ろ姿を見届けた。

 

「ありがとう。夏南に出会えてよかった」


 信号が赤に変わり、車が通り過ぎる。

 そこにはもう、夏南の姿はなかった。

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