傘の中は、ふたりだけの世界

 傘を開けば、彼女が現れる――そんな日々が続いていた。


 坂道を二人で歩く。一本の透明なビニール傘を悠が持ち、右隣には夏南が並んでいる。


 夏南は、ときどき悠の肩に寄りかかるような位置をキープしながら歩く。だが、彼女の肩が触れることはない。

 触れるか触れないかの距離感が、悠にとっては心地よかった。


 少し前まで「なんで俺がこんなことしてんだ」と思っていたはずなのに、気付くと雨の日は彼女と一緒に歩くのが、当たり前のような感覚になっていた。


「なぁ、夏南」


「ん?」


「お前、なんでいつも雨の日になると現れるんだよ」


 いつか聞こうと思っていたが、どうせまともな答えは返ってこないだろうと思い、これまで黙っていた質問だった。


「うーん、雨が苦手だから?」


「……は?」


「だって、雨の日って肌がベタベタするし、髪もまとまらないし、ジメジメして気持ち悪いでしょ」


 彼女は少し不満げな顔をして、髪の毛を指でくるくると触っている。


「苦手なら、家に居ればいいだろ」


「ううん。苦手だからこそ、この傘の中にいるんだよ」


 夏南はあっさりと答えているが、どこか会話が嚙み合っていないような妙な違和感を、悠は覚えた。

 夏南の顔を見ると「どうしたの?」と不思議そうに首を傾げる。


「いや、何もない。……今日も雨、強いな」


 違和感を払うように、悠は話題を変えた。


 ◇


 いつものように、雨の中を夏南と歩いていると、あることに気付く。


「あれ、もう夏南が帰る道通り過ぎてないか?」


「……あ、本当だ」


 そう言いながらも、夏南は引き返さない。

 違和感を抱きつつ、いつも一人で帰っている道に夏南がいるということに嬉しくなり、悠は追及をしなかった。


 しかし、坂を下ったところの交差点で、彼女がふいに足を止めた。


「どうした?」


 彼女は信号の先にある横断歩道をじっと見つめている。心ここに在らずといった表情で、普段の明るさもない。


「ねぇ、別の道から行かない?」


「は? なんで?」


「……ここ、あんまり好きじゃない」


 彼女はすぐには答えなかったが、少し掠れた声でぽつりと呟く。

 その言い方は、どこか幼い子どもが駄々をこねているように見えた。


「何だよ、それ。どこから行っても変わらないだろ? ほら、渡るぞ」


「……ごめん! また今度ね」


 彼女は悠に背を向けると、足早に来た道を戻っていった。

 振り返り声をかけようと手を伸ばしたが、既に夏南はいない。


「……なんだよ」


 最後に見た夏南の表情が、悠の中で鮮明に残っていた。


 ◇


 数日後の雨の日、二人はいつもの坂道を歩いていた。

 今日は天気予報によると一日雨のようだ。悠にはそれが少し嬉しく感じていた。

 理由は分かっている。雨になれば彼女が現れるからだ。


「なぁ、あの日のことだけどさ」


 悠はふと思い出したように言った。


「お前、なんで『この道は好きじゃない』って言ったんだ?」


 夏南は、返事の代わりにピタッと足を止める。悠も慌てて止まるが、わざと傘から出ていくように、また彼女は歩き出した。


「お、おい。傘ささないと濡れるだろ……って――」


 夏南の背中を追いかけるように走り出そうとした時、ふと気付く。

 彼女は雨に打たれているはずなのに、何故か服が濡れていない。いや、服だけではなく、髪も、足も、持っている鞄も全て濡れていなかった。


 悠がどことなく抱いていた『違和感』を、はっきりと意識した瞬間だった。


「……何してるの? 早く行こうよ」


「あ、あぁ……そうだな」


 これを聞いてしまうと、何かが壊れてしまう。そんな気がして、結局言葉にできないまま、いつものように歩き出す。


 ◇


 あれから、夏南はいつも通りに戻った。

 自分もあの日のことについてはそれ以降触れられていない。


 ふと、彼女の横顔を見た。

 いつか見た寂しそうな顔はどこにいったのか、満面の笑みで話をしている。


「なぁ、夏南」


「ん?」


「……お前、何か隠してることないか?」


 夏南が、ほんの一瞬だけ真顔になった、ような気がした。


「隠すものなんてないよ」


 彼女の目は澄んでいる。笑顔も普段通りと何も変わらない。


「あ! そういえば昨日、この辺に野良猫がいたんだけどね――」


 夏南は何もなかったかのように普段通りの会話を続ける。

 まるで、これ以上は話したくないと言っているような、そんな空気。

 悠も、それに合わせるように彼女の話に耳を傾けた。



 その日はいつもより小雨だった。

 

「……おい、夏南」


 悠は声をかけたが、彼女はふいに足を止める。

 

「ちょ、急に止まるなって」


 合わせて悠が足を止めると、彼女はまた先に歩き始める。

 

「あはは! 面白いね、これ」


 夏南は前を向いたまま、ケラケラと笑った。


「お前の悪戯に付き合わされるこっちの身にもなってくれ」


「最初の頃は私が悠に歩幅合わせてたのに、不思議だね」


 何気ない一言に、心を揺さぶられる。


 無意識で言っているのだとしたら、タチが悪いな、こいつ。


「……なぁ、夏南」


「どうしたの?」


 呼びかけると、彼女はゆっくりと振り返った。

 その顔は、いつもと同じだ。無邪気な笑顔、透明な瞳。

 でも、その姿が妙に遠く感じた。


「……お前」


 ――居なくならないよな、と喉元まで出かかってギリギリの所で留まる。

 夏南は不思議そうな顔で、悠のことを見つめていた。


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