死神の絵

珠洲泉帆

死神の絵

 老画家は疲れの限界だった。大都市の喧騒にほとほとうんざりしてしまった。静かな場所でゆったりと制作に打ち込みたい。そう思っていたところ、知り合いが別荘を貸してくれることになった。二か月という期限つきだが、画家は大喜びで田舎の別荘へ向かった。

 広いだけの屋敷は好みではない。物も最低限でいい。こぢんまりとした別荘は画家を満足させた。生活に必要なものと画材だけを抱えて、画家は玄関から中へ入った。早くキャンバスに向かいたい一心で荷ほどきを済ませる。一番狭い部屋を自室に選び、一番陽当たりのいい部屋をアトリエに決めた。大きく取られた窓からはアカバニラの並木が見えるのもいい。濃い緑の葉が風に揺れているのを見るとインスピレーションが湧いてくる。緑のドレスをまとった淑女の姿が画家の目に浮かんだ。そういえば、緑色に染められた衣服で人が死ぬという話があったか……。画材を整えて伸びをすると、あくびが出てきた。旅の疲れが出たらしい。今日のところは、絵の構想をノートにまとめるだけにしておこう。本格的な制作は明日からだ。

 クッションつきの椅子があったので、アトリエに運んで休憩用にする。座ってみると体がクッションに沈む感触が心地いい。大きな窓から、部屋の正面にアカバニラの木が並んでいるのが見える。アカバニラは人生に寄り添う木だ。幼児が遊ぶ積み木も、遺体が横たわる棺も、みんなアカバニラでできている。画家が長年使っている絵筆もそうだ。もはやアカバニラに囚われているといっても過言ではないだろう。あの木は人を惹きつける、魔法のような力で。

 描くものが決まった。初めに画家をとらえた、緑色の衣服を身につけた女性の絵にしよう。緑はアカバニラの緑、人の生から死まですべてを司る緑だ。ちょうど目の前にあるアカバニラの木の下にたたずんでもらうことにした。

 画家は翌日から描き始めた。キャンバスに向かって腰かけると、庭に面したその部屋は俄然アトリエらしくなった。たっぷりとした陽光で窓ガラスもきらきら光っているようだ。アカバニラの木漏れ日が美しい。画家は満足してうなずいた。良い絵が描けそうと思ったのだ。

 ふと横を向いて、画家は仰天した。その部屋で絵筆を取っていたのは、画家一人ではなかったのだ。

 それはガイコツだった。手にパレットを持ち、ベレー帽をかぶったガイコツが、画家と全く同じように、絵を描こうとキャンバスを前にしている。

 目を丸くする画家をよそに、ガイコツは絵筆に絵具を塗り付け、さらにキャンバスへ筆を滑らせた。そのまま黙々と描き進めていく。姿こそガイコツではあるものの、その様子は一人の画家そのものだ。画家は目をこすった。しかし、ガイコツは隣から消えない。

 画家は大いに戸惑った。ガイコツが住み着く別荘だなんて、そんな話は一言も聞いていない。いかにも不吉なその姿にぞっとすらした。だがよく見てみると、ガイコツは一心に絵を描いている、ただそれだけのようだ。

 それが分かると、驚きと困惑の波が去り、画家の心に共感が生まれた。もしこのガイコツがずっと前から別荘にいて絵を描いていたのだとしたら、闖入者は自分のほうではないか。もしかしたら、自分と同じようにごみごみした場所から離れていたくてここにたどり着いたのかもしれない。ガイコツの目の穴はじっと画面を見据え、画家のほうには一瞥もくれない。画家は思わず笑みをこぼした。眉をひそめ、次のひと塗りはどうしようかと考え込む人間の姿が思い浮かんだ。そう、画家とガイコツは、共に制作に励む仲間ではないか。

 こうして、奇妙な共同生活が始まった。朝、画家がアトリエに入るとガイコツはもうそこにいて描いている。夜、画家がそろそろ休もうかと筆を置いてのびをすると、ガイコツは消えている。ガイコツがいない間は厚い布でキャンバスが覆い隠されており、画家はその下をのぞこうとは思わなかった。完成してからじっくり観賞しようと決めていたのだ。

 それにしても、ガイコツとは……。画家は考え込んだ。絵画でガイコツといえば死の象徴だ。今、画家が描いている絵の大部分は緑色が占めている。緑の衣服で人が死ぬ……死んだらアカバニラの棺に入る……いや、やめよう。そもそもアカバニラは植物だ。青々と葉の茂った木は生命力の象徴になる。しかし死のシンボルであることも確かだ……。画家はキャンバスにあふれる生と死のバランスを取るのに苦労した。どちらか一方に偏ってはいけない、見る者に両方の強さを感じさせる絵でなければ。生きるから死に、死ぬということは生きたのだ。

 画家と違い、ガイコツは一心不乱に筆を進めていた。迷いなく、ためらいもなく、どうやら確固たる意志を持って制作中の絵と向き合っているようだ。その姿に感銘を受け、画家は励まされた。すぐ横でこんなに集中されていては、ぐだぐだしてばかりはいられない。

 そんなある日、一通の手紙が届いた。別荘の持ち主の訃報だった。画家はショックを受けた。あんなに元気だったのに……。人はなんてあっけなく死んでしまうものなのだろう。葬儀に出たかったが、画家には一人ゆっくりと考える時間が必要になった。亡くなった持ち主のために、きっと滑らかなアカバニラの棺桶が用意されることだろう。庭に生えているアカバニラの木は、どんなに日光を浴びていても陰鬱に見えた。画家の絵の女性の立ち姿にも、徐々に暗さが濃くなっていった。

 またしばらく経って、二通目の手紙が届いた。別荘の持ち主の孫が産まれたという知らせだった。便箋には母親の腕に抱かれる赤ん坊のスケッチが添えてあり、その神々しさに画家は震えた。新しい生命の誕生、これほど神秘的で素晴らしいことがあるだろうか! この幼子はアカバニラでできたベビーベッドですやすや眠り、どんどん成長していくだろう。空に向かって枝を伸ばし、次々に葉をつける木のように……。画家は俄然やる気を出して絵を描いた。絵の中で女性を覆う木の葉に、力強い明るさが加わった。

 いつしか、画家はガイコツに注意を払わなくなった。ガイコツが隣にいることは当たり前になり、ひたすら自身の絵に集中した。心の命じるままに筆を運べば、思った通りの効果が出せる。

 こうして、画家とガイコツの二か月はあっという間に過ぎ去っていった。画家はとうとう筆を置き、手についた絵具をぬぐいながら、満足気に画架に立てかけた絵を見つめた。ついに完成したのだ、生の力と死の力が拮抗する、画家の葛藤のすべてが込められた絵が。

 立ち上がり、画家は大きく伸びをした。描き上げたという達成感で、胸の内はさわやかな気持ちで満たされていた。他の何にもわずらわされず、こんなに制作に集中できたのは久しぶりだ。それというのも、ずっとそばにいてくれたガイコツのおかげ。

 そのガイコツはといえば、画家が絵を完成させたと思うともういなくなっていた。後には画架と絵だけが残されている。いつものように布で覆われているが、もう完成したのだろうか?

 一晩待ってみたが、翌日になってもガイコツは現れなかった。画家はどうしようもない好奇心に駆られた。あのガイコツが懸命になって描いていた絵、もう姿を現さないということは完成したということではないか? 二か月隣にいた画家こそが、一番はじめに鑑賞する権利を持っているはずだ。

 画家は心臓を高鳴らせながら布に手をかけ、キャンバスから一気に取り払った。そして硬直した。ついに見えた画面に描かれていたのは、今にも大鎌を振り下ろさんとしている死神、ベッドに横たわる青白い顔の老人。その老人の顔は、紛れもなく画家のものだった。

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死神の絵 珠洲泉帆 @suzumizuho

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