第3話 姉弟喧嘩
姉に醜態を晒されてから一ヶ月が経った。
「うぇーい、殿真、さっきの石崎先生見た?寝過ぎ、寝過ぎ」
「いや本当に心臓に悪かったよ。生きてて良かった」
「マジでそれな!」
前田が俺の前の席に座り、手を叩きながら大笑いしている。
電気の紐とのボクシング事件以来、俺は友達が増えた。休み時間になると、前田や飯田といった陽キャたちが俺の席に集まってくるようになった。それに加えて、時折、女子たちも俺の席を囲んで話しかけてくることがあった。
「ねね、殿真君。まなみがもし、ストーカーに襲われたらどうする?」
「まぁ?こうして、こうするかな?」
「いいパンチ!いいパンチ!おもろっ」
電気の紐とボクシングをしたことがきっかけで、学校中で有名になり、それを契機に冗談を交えたユーモアのあるボケやツッコミをするようになった。
俺の予想に反して、みんなの反応は良かった。授業中や休み時間に話題を振られ、毎回答えることになった。最初は「またかよ」と呆れることもあったけど、そんなやりとりを繰り返しているうちに、クラスメイトから「殿真最高!」とか「殿真君、最高すぎ!」と言われるようになった。そして、俺はいつの間にか、笑われる側からみんなを笑わせる側に変わっていた。そのことに気づいた時、ある事実が浮かび上がった。意外にも、この学校の女子は思ったより幼稚じゃなかった。そして、高橋に関して言うと、俺を神のように崇拝していた。
「流石、一軍!言うことが眩しい!眩しすぎて、見ることができない!殿真どこ〜見えない!
まぁ、そういった嬉しい事実ができた反面、俺には忘れてはならない問題もあった。
俺の復讐計画が、今にも白紙になりそうだ。
嘘泣きをしてまでついた嘘は、広まることなく、高橋本人もそのことを覚えてはいなかった。正直に言って、俺も高橋についた嘘の噂話が耳に入ってこなかった。つまり、俺はいまだに自分一人で撮影したと思われている。まさに、お手上げ状態だ。それに加えて、最初は元姉に対して抱いた怒りの感情を抑えることができなかった。が、今の自分の状況を見ると、その怒りが次第に薄れていった。
あの日、復讐を誓ったはずなのに、元姉のおかげかどうかは別にして、友達が増えることになった。結果オーライだとは言いたくないが、客観的に見れば、元姉のおかげでもあるだろう。ただ、恥ずかしいものは恥ずかしい。元姉が俺の醜態を晒した事実は変わらない。だから、許すつもりはない。
俺は再度、元姉への復讐計画を立て直した。
再度練り直した復讐計画。それは、夏休み明けの文化祭で姉の醜態を暴露することだった。俺の計画は、姉が俺にした仕打ちを、今度は姉自身が身を持って体験させることだ。
毎年、漫画研究部は文化祭で自主制作の漫画を展示し、さらにおすすめの漫画を紹介するというのが恒例行事だ。そこで、俺は過去の姉との大喧嘩を誇張し、その醜態を漫画として描き、みんなの前で晒し者にするつもりだ。もちろん、ただ晒すだけではない。俺が受けた苦痛と同じ、あるいはそれ以上の屈辱を姉に与えるつもりだ。
学校中の人がその漫画を目にしたとき、姉はどれほど顔を赤くし、どんな気持ちになるのか。それを想像するだけで、胸が高鳴る。彼女にとって、あの時の俺と同じくらいの恥ずかしさと後悔を味合わせてやる。
中学二年生の頃、俺はお尻に大きな青痣ができる威力で姉に蹴られたことがある。あれは、自分の部屋で漫画を読んでいる時だった。
「殿真!私の部屋に来て!」
血の気の引いた顔をした姉が俺の部屋に入ってきた。
「どうしたん?今、漫画読んでて忙しいんだけど」
どうせしょうもないことだろうと思い、姉の言葉を無視して漫画に没頭した。
うちの姉は、何をしていても元気すぎて、いつも騒がしい。そんな彼女に、時々疲れてしまうことがある。特に、俺が静かに過ごしたいときには、彼女の無邪気な声が耳障りに感じてしまう。
「いいから!はやくきて!」
そう言って読んでいる漫画を俺から取り上げた。
「ちょ、今読んでるんだ…」
「いいからはやく!」
そう言って、姉は俺の手を強引に引っ張った。漫画も取られ、姉も騒がしくて、仕方なく俺は姉の部屋へ向かうことにした。
そして、姉の言うままに姉の部屋に入ってみたが、特に異変は感じられなかった。
「で、なんなの?ゴキブリ?」
そう言って姉を振り返ると、姉は半泣きで、無口になっていた。
「どうしたの?」
「……。」
姉について来たのに、何があったのか尋ねても、答えてくれなかった。ただ、その場でタジタジと何かを恐れている様子だった。
さすがに俺も痺れを切らして、少し口調を強めて姉に言った。
「もう、俺は部屋に戻るね」
姉はようやく口を開いた。
「ちょ、待って、ゴキブリじゃない!ど、どうしよう…」
口は開いたものの、相変わらずタジタジしていた。
「え、なに?早く言ってくれない?」
「ちょっと待って、一回、一回外に出よ」
面倒くさいと思いつつも、姉の言う通りにしないと話が進まないので、仕方なく姉と一緒に部屋を出た。部屋を出ると、姉はすぐに俺に向かって、小声で「喋れ」と促してきた。
「いい?殿真。危ない話をするから、バレないように小声で言うよ?」
「う、うん。で、何があったの?」
「危ない話」って一体何だろう。部屋の中に毒を持ったムカデや蛇が潜んでいるのだろうか。それとも、姉のことが大好きな人が部屋を覗いていたとか、刑事事件に繋がるようなことなのだろうか。
俺はゴクリと唾を飲み込み、姉の目をじっと見つめ、身構えた。
「幽霊が出たの」
「は?」
考えもしなかった姉の発言によって、美しい疑問の音が俺の喉奥から漏れた。それと同時に、身体に張り詰めていた緊張が一瞬で解けた。そして、俺の口から漏れたその疑問の音は、姉との約束を破るような音量で、綺麗かつはっきりと響いた。
「ちょ、馬鹿!シッ!」
姉は焦った表情で、口元に人差し指を当てた。どうやら、うちの姉は本気で頭がおかしくなったらしい。最初はふざけているのかと思ったが、一連の姉の反応を見ていると、その本気度が伝わってきた。幽霊なんているわけがないのに、と心の中で思いながら、深いため息をついた。
「なにそのため息…、こっちは真剣なんだけど」
姉は、呆れている俺の表情を察したのか、鋭く睨みつけてきた。
これ以上、いちいち姉に突っかかっても仕方がないと思い、俺は幽霊がいると自分に言い聞かせ、姉の話を聞くことにした。
「それがね、さっき私がベッドに寝転がりながら動画を見ていたらね、急に窓がガタガタってしたの」
話を聞きながら相槌を打っていたが、突然、姉の話が終わった。
「うん?お、おわり?」
「そうだけど?」
「それって、風が吹いただけでしょ?」
「絶対違う。あれは、幽霊だったよ」
「なんで?」
「音が違ったし、白いのが見えたんだって」
一旦、姉の話を聞くつもりでいたが、さすがに俺は姉の妄論に痺れを切らし、呆れたため息をついた。それから深く息を吸い、姉に話し始めた。
「まず、音が違うってなに?どうせ、また心霊系の動画でも見てたんじゃないの?」
俺は姉に喋る余地も与えることなく、話を続けた。
「どうせ動画を見ているうちに、怖くなって、幽霊を見たと勘違いしてるんでしょ?」
うちの姉はビビリなのに、心霊系のテレビ番組や動画をよく見ている。そういうのを見ては、夜寝られなくなった姉を何度も見てきた。だけど、姉本人はビビリなのに強がりだ。だから、誰にも強く助けを求めない。いつも「怖い、怖い」と言いながら、自分の部屋に戻ってベッドの中にうずくまっている。夜中のトイレのお供も、俺はしたことがある。正直に言って、馬鹿だ。怖いなら、そういうのを見るなよ。正直、面倒くさい。
「それに、白いのが見えたって姉ちゃん最初に言ってなかったじゃん」
次第に、お互いの気持ちが高ぶり、ヒートアップしてきた。
「パニクって、忘れてたの!あと、そういうのは関係ないから。だって私、今まで、誰かに助けてって言ったことないじゃん?これ結構ガチなやつだよ?」
「そんなこと言われても、ごめんだけど、俺は幽霊信じていないから。あと、今まで言ったことないじゃんって言われても、俺からしたらあまり違いを感じないんだけども」
俺が姉に反論するにつれて、姉の表情は次第に暗くなり、それに伴って眼光に鋭さが増していった。そして、その目つきで俺を睨みつけてくる。明らかに俺にムカついているのが伝わってきた。姉の大きく見開かれた目は、まるで般若面をした出目金のようだ。それでも、俺は追撃を続けた。
「絶対にただの風。白いものを見たのは、姉ちゃんが俺に信じて欲しいから話を盛っただけ。それか、姉ちゃんの勝手な妄想」
「は?盛ってないし。意味わからん」
間髪入れずに、返答が返ってきた。
意味がわからないのは俺の方だ。だって、正直言って、こっちの方が姉の変な妄想に付き合っているだけで、意味がわからないと思っている。けど、心の中でその感情を押し殺している。
そもそも、俺には本当に姉が白いものを見ていたとは思えない。もし本当に、あるいは幻覚で見ていたのなら、絶対に最初に「白いものを見た」と言うはずだ。けど、姉は「窓から音がした」としか言っていない。しかも、姉は小声で喋ることも忘れているし。
「はい、はい、幽霊いたんだね。姉ちゃんを信じます」
これ以上何を言っても無駄だ。
感情的になりやすい姉に、これだけ言ったところで意味がないだろうし、姉は姉で、幽霊がいたなんて発言を撤回するのが恥ずかしいはずだ。実際、姉もさっきの出来事は勘違いだったと思っているだろう。これ以上言っても、姉が無駄に醜態を晒すだけだ。ここは、弟として素直に姉の言うことを聞いて、大人な対応をしないと。
「台所から塩持ってこようか?」
そう言って階段に向かおうと、姉ちゃんに背を向けた瞬間、俺のお尻から破裂音のような、重く鈍い音が鳴り響いた。全身に衝撃が走り、足元がふらついて、俺はその場に倒れ込んだ。痛みがじわじわ広がり、手を尻に当ててその場で悶絶した。
姉がついにキレた。
姉は怒りのあまり、何も言わずに俺の尻を加減なく蹴り上げた。そして、悶絶している俺を睨みつけて、無言で自分の部屋に戻っていった。
俺は自分の尻を抱えながら、痛みがジンジンと広がるのを感じているのに、頭の中が真っ白で、今、何が起こったのすらよくわからなかった。意外にも、今まで姉ちゃんにこんな風に手を出されたことがなかったからだ。
これが俺と姉との間で勃発した喧嘩の全貌だ。その結果、俺たちはお互いを避けるようになり、会話を交わすことはなくなった…。
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