第2話 長谷川弓
私の家には、陰気な弟がいる。
漫画ヲタクで、パッとしない顔をしている。容姿にも気を使うことなく、髪の毛は襟足が伸びて耳も隠れている。まるで雨に濡れたアルパカみたいな髪型だ。
さらに、好きな食べ物が干し柿。ありえない。熟れた柿ほど美味しいものはないのに、弟は干し柿を好んで食べる。
弟とは、家でも学校でもほとんど会話をしない。昔は特別に仲が良かったわけではないが、それでも今よりは普通にコミュニケーションをとっていたと思う。夜ご飯を一緒に食べるときくらいは顔を合わせるが、それ以外の時間は一切話さない。
本当は、食事のときに今日あった出来事を家族全員で共有したいと思っている。でも、どうしても弟の前だと、弟を無視してしまう。
私は別に弟が大嫌いなわけではない。もし弟から話しかけられたら、普通に返事をする。ただ、自分から話しかけるには勇気がいる。
時間だけでは、問題を解決することはできないと感じている。
ある日、私は風呂上がりに髪を乾かし、タオルを頭に巻いてストレッチをしていた。
すると、弟の部屋から物音が聞こえた。度々、弟の部屋からは物音がするが、今回はいつもと違った。それは、弟が声を出している音だった。どこか力のこもった声と、足音が響いていた。
私はストレッチをしっかりとするタイプなので、弟の物音で気が散ることに少し苛立ちを覚えた。
だから、これはチャンスだと思い、意を決して注意しに行くことにした。そして、苛立った気持ちを忘れないようにしながら、弟の部屋へ向かうと、部屋の扉が全開になっているのを見つけた。
私は思わず鳥肌が立った。陰気な人間がドアを全開にするなんて、あり得ない。
鳥肌が立った腕を組みながら、恐る恐る、そっと弟の部屋を覗き込むと、そこには衝撃的な光景が広がっていた。
弟が運動をしていた。それも、かなりハードな運動。ボクシングだ。
名前がパッと出てこないけど、電気を点ける時に引っ張るあの紐のことだ。名前を「電気の紐」としよう。その電気の紐と弟は真剣に戦っていた。
私はボクシングに詳しくはないけれど、振り子のように揺れる電気の紐に果敢に挑む弟の姿は、長いこと会話していなかったせいなのか、とても愛らしく、陰気さなんて微塵も感じさせなかった。だって、陰気な人間があんなにハードに運動なんてするわけがないじゃん?
でも、私の弟は、今まさに電気の紐と戦っている。電気の紐からの攻撃を巧みにかわして、隙ができたところにパンチ!
私は嬉しかった。
毎日漫画ばかり読んで、友達もいなさそうな弟が可哀想で、それが嫌で見て見ぬふりをしていた。でも、そんな弟が陰気とは真反対のボクシングをしていた。しかも、結構激しいボクシング。
普通に嬉しい。
弟の中で「このままではいけない」って思ったのかな?
私は、今日からひそかに弟を応援することを決めた。
部活動の練習が終わって家に帰ると、食卓には母さんと弟がいた。父さんは私より帰宅が遅く、夜ご飯を食べるのは、母さん、弟、私の三人のことが多い。部活の練習が長引くと、家族とご飯を食べる時間がずれてしまう。
食事の時間、母さんとは学校のことや部活のことを話すのが習慣だ。
そして、ご飯を食べ終わるとすぐにお風呂に入る。
お風呂から上がると、顔を保湿してから髪の毛を乾かし、タオルを巻いてストレッチをする。その後は、趣味でネットの動画を見る。ジャンルは心霊系とグループ系。それから、メッセージアプリで友達とやり取りする。今日は次のオフにどこに遊びに行くかを話していた。
そんな感じで時間を過ごしていると、弟の部屋から物音が聞こえてきた。事前に、母さんと父さんには「絶対に殿真の部屋を覗きに行かないで」と伝えてある。両親にバレてしまったら、弟はまた陰気な生活に逆戻りしてしまう。それは絶対に避けたかった。
だから、私はバレないように神経を張り巡らせて、弟の部屋をそっと覗くことにした。
「パン!パパン!」
弟はボソボソと呟きながら、細かい動きでフェイントをかけ、電気の紐に向かってパンチを繰り出していた。弟の拳が当たる度に、電気の紐は大きく揺れ、でもその直前で額をかすめるように避ける。次第に、弟の動きにキレが出てきたように感じた。
弟の頑張りを見ているうちに、何となくルールが確立していることに気づいた。
一つ、五十回攻撃を交わすことができたら勝ち。
二つ、紐に三回当たったら負け。
弟は一度、戻ってきた電気の紐を避けられなかった時に「ちょっ、三回目…」と悔しそうに呟いていた。その表情から、勝負に対する真剣さがひしひしと伝わってきた。特に、残りの一機での集中力がすごかった。その緊張感は私にも伝わり、思わず息を呑むほどだった。一度、私が足を滑らせて音を立てた時も、弟は一切その音に反応せず、電気の紐と真剣に戦い続けていた。
三つ、昨日と同じ相手とは戦わない。
電気の紐は変わらず、相手であり続けたけれど、先端分が違った。電気の紐の先端部分を毎日変えていた。
ビー玉、消しゴム、ボールペン、スポンジ、たわし、歯ブラシ――それぞれの道具を使うことで、戦い方も微妙に異なり、昨日とは全く違う戦いになっていた。中でも、私が一番印象的だったのは、干し柿との一戦だった。
干し柿は私が好きじゃない食べ物だけど、弟が真剣に戦っている姿を見ると、なんだか不思議に嬉しくなってきた。私にとっては、一番面白い戦いだったと思う。
ある日の夜ご飯時。
「お母さん、この干し柿、もう一個もらっていい?」
「いいよ。どうせ弓は食べないんだし、ね?」
「うん、いらない」
弟が干し柿を既に二つも食べていた。その姿を見て、私は一瞬で気づいた。
いつもなら、干し柿を食べるときは、何となく遠慮して、一つだけ残しておこうとする弟なのに、今日は違った。
既に二つだ。つまり、三つ目を食べようとしている。もしくは…。殿真の表情も、いつもより少し満足げだった。
その姿を見て、私は弟の今日の対戦相手が誰かを察した。
「弓、どうかしたの?すごい笑顔だけど、なんか嬉しいことでもあった?」
「いや、今日の部活の練習、結構調子良くてね」
「そうなんだ!それは良かったね!」
危ない、危ない。私としたことが、気持ちが昂って表に出てしまいそうだった。
私は、干し柿が大嫌いだ。理由は単純。柿が大好物だからだ。柿と干し柿はまったく別物だって、誰も理解してくれないけどね。
そんな、干し柿と弟が今夜、戦う。
その考えが頭に浮かぶと、なぜかワクワクしてしまう自分がいた。ただの食べ物に過ぎない干し柿と、あの陰気だった弟が対決する、なんて…。
私は想像だけで、どこか楽しくなってしまった。
「この調子で、次の大会も頑張ってね!」
「ありがとう!母さん!」
「殿真も漫画たくさん研究して、文化祭頑張ってね!」
「う、うん…」
母は私と殿真に熱い応援と、優しさが溢れた目を向けてくれた。私も、母に便乗して弟に熱いメッセージを目で伝えた。
弟は、私と母の熱量に引きつった顔を浮かべながら、干し柿を片手に二階へ上がった。
今日、弟の対戦相手は食べ物。しかも、包装されていない食べ物だ。弟は食べ物を粗末にすることは絶対にしないし、好物である干し柿を美味しく食べたいはず。だから、今日の試合はいつもよりもずっと早い時間帯に始まるに違いない。
私は急いで自分の部屋に戻り、弟の部屋から漏れる音をじっと待った。
そして、予想通り弟の部屋から物音が聞こえてきた。
私はスマホを片手に、こっそりと弟の部屋を覗きに行った。
「パッパッ!パン!パン!」
私の予想通り、弟は干し柿を電気の紐にくくりつけていた。
相手は好物の干し柿。
今日の弟のボクシングは荒々しさがなく、むしろスマートだった。干し柿の形を変形させたくないのか、弟は優しめのパンチを繰り出していた。
そのおかげで、殴られて遠ざかった干し柿が再び弟の顔に戻ってくるまでの時間が短く、結果として戦いが始まってから二分も経たないうちに、残り一機。
弟は一旦深呼吸をして、再び挑戦を始めた。
「パッパン!パッパパン!」
弟の声量が若干上がった。動きに変化はないが、集中力は明らかに上がっている。振り子運動がいつもより速くなった分、避ける動作も速くなり、その分、戦いがさらに見応えのあるものに変わった。
「三十七、パッパン!三十八」
勝利条件の五十回に近づいてきた。弟は額と脇から汗を流している。次第に近づく勝利に、私も緊張のあまり手汗が出てきた。
そして、ついに、「っ!五十」弟は干し柿に勝った。
私は弟に気づかれないように、小さくガッツポーズをした。
弟は息を切らしながら満面の笑みで、干し柿を電気の紐から解放し、一口ずつ味わいながら、常温になった干し柿を食べていた。
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