電気の紐とボクシング

晴光悠然

第1話 長谷川殿真

 世の中には、一つの行動に意味を求める人が多いだろう。しかし、俺はそれを否定する。人は時に、意味のない行動を取ってしまうものだ。そして、意味もないことにひたすら時間を費やしてしまう。今、二十一世紀の地球人たちは、スマートフォンを手に取り、生産性のない動画を繰り返し視聴している。あれこそ、実に無駄なことだと思う。だが、俺はそんな奴らとは違う。俺は、暇があったら漫画を読んで知見を広げることに使う。

 漫画は本当に素晴らしいものだ。現実のことから非現実的なことまで、あらゆるジャンルの壮大なストーリーに、俺は何度も学びと感動を得てきた。漫画を通じて歴史や経済、政治を学ぶこともできるし、なんと恋愛のことまで学べる。俺は恋愛ものが二番目に好きだから、恋愛に関してはかなり詳しいと自負している。だが、残念なことに、学校の女子ときたらあまりにも幼稚すぎる。だから、高校生活で俺の恋愛スキルを活用する機会はなさそうだ。大学までの辛抱だ。

 少し話が逸れたが、漫画を読むことにもデメリットはある。俺は物事を客観的に見ることができる男だからな。

 ひとつは、物語が面白すぎて夜更かしをしてしまうことだ。育ち盛りの高校一年生にとって、不眠は成長を妨げてしまう。

 もうひとつは、運動不足だ。俺が所属している漫画研究部は運動とは無縁だ。大好きな漫画をより深く研究するために、運動をあえて犠牲にして入部した。もう一度言う、あえて運動のない部活を選んだんだ。俺にとって、漫画は人生そのものだからな。結果、体育の時間でしか運動する機会がない。それは、生活習慣的にも、生産性にも悪い。だからこそ、俺は極秘のトレーニングを始めることにした。


 まずは腕立て伏せを百回……できたらよかった。腹筋を百回……できたらよかった。スクワットも考えたが、さすがに初めからレベルの高いことをするのは非効率だし、継続を考えるとナンセンスだ。

 だからこそ、俺は身近で続けやすく、かつ激しく動いて楽しい運動法を考えた。で、ついにそれを見つけることができた。



 俺には同じ高校に通う一つ上の姉がいる。姉は俺より少し身長が高く、そして馬鹿だ。なんたって、幽霊を信じているからな。そんな姉は学校では陸上部に所属していて、この前のなんとか大会で優勝したらしい。普段、家にいることは少なく、部活か友達か、そのどちらか、あるいは両方に時間を費やしている。俺は姉が嫌いというか、どちらかと言うと苦手だ。だって、彼女は生産性のない行動しか取らないし、学校で見る姉と家で時々見かける姉は、全くの別人。家での姉は無愛想で憎たらしい。なにせ、漫画を侮辱した奴とは関わらない主義だからな。家族で食事をする時以外、俺は姉を家で見ることはない。

 そんな姉は、ついに虎(俺)の尾を踏んでしまったようだ。



 朝、学校に登校して自分の席に座ると、やけに周囲から視線を感じる。とりあえず、周りを気にせずカバンから漫画を取り出した。

 漫画を読み始めるときは、いつも両手を組み、胸の前でまっすぐ腕を伸ばしてから読み始める。漫画の世界に引き込まれていると、前方から笑い声が聞こえた。それは、陰湿で気持ちの悪い笑い声だった。その笑い声と、感じる視線で俺は確信した。明らかに、周りが俺のことについて笑っている。

 耳障りな音を無視して漫画を読み進めると、同じ漫研の高橋が登校してきた。


 「おっはー、殿真とのま。昨日の動画見たよ。最高だった!」


 いつもの高橋と違い、笑顔ではつらつとした挨拶。


 「おっはー、動画?」


 「うん!あんなに真剣にやれるのは殿馬ぐらいだよ」


 高橋の笑顔の裏で、俺は高橋が言っている「動画」の意味がまったく理解できなかった。俺は隠れて動画配信もしていないし、そもそも普段から、写真も動画もほとんど撮らない。

 眉間にしわを寄せる俺の顔を見て、高橋は俺が知らないふりをしていると思ったのか、「はいはい」と、まるで何かを察したかのような顔をして、制服の胸ポケットからスマホを取り出し、その動画を見せてくれた。

 その動画を見た瞬間、俺は今までにないほど冷や汗が止まらなかった。脇からもねばっこい汗がじわじわと滲み出てくる。それと同時に、腹の底からフツフツと殺意が湧き上がってきた。

 動画には、上半身裸で汗を滴らせながら、規則正しく揺れる電気の紐に向かってパンチを繰り出し、交わす俺の姿が映っていた。振り子のように動く紐に集中して戦うその姿は、まるで本物のスパーリングをしているかのように見える。


 「こ、これ、おれぇぇ?」


 あまりの恥ずかしさに苦し紛れに惚けたように聞き返した。


 「もういいって。今だってボクシングの漫画、読んでるじゃん」


 高橋に俺の苦し紛れの惚けは通用しなかった。

 高橋は今の俺の反応を見て、俺が望んでこの動画を撮ったとでも言いたいのか? 俺たちは出会って一週間の仲じゃないんだぞ? 高橋には時々、ため息をつきたくなることがある。

 そんなことはどうでもいい、俺が笑われている理由は分かった。あれだけ汗を流し、時には殴られた演技をしつつ、真剣に電気の紐とスパーリングをしている人間が、学校に着いた途端ボクシング漫画を読み始めたら、そりゃ誰だって笑うだろう。しかも、「漫画研究部が」だ。


 「教室に向かう途中の他のクラスも同じ話題で持ちきりだったよ!殿真も一躍学校のスターだね!漫研の仲間として誇らしく思う!」


 胸を張り、誇らしげに言う高橋に、俺は頭を抱えながら、事の説明を始めた。


 「まず、あれは俺が自分で撮影したわけじゃない。それに、どんな物好きが電気の紐相手と戦っているところを見せたい?」


 「殿真?」


 「んなわけ」


 一旦、深いため息を挟んだ。


 「じゃあさ、もし、高橋があの姿を全校生徒に見られたとします。どうする?」


 「高橋家の家系図から俺という存在を消します」


 「言い過ぎ」


 「動画を見た人のデバイスにウイルスを感染させる」


 「陰湿だな、おい」


 「ボクシングを始める」


 「なんでだよ」


 「…ごめん」


 真顔でボケてくる高橋が時々怖いし、それに突っ込むのも正直疲れる。とりあえず、高橋には自分が意図して動画を撮影して流出させたわけではないことを伝えられた。そして、その後に生まれる疑問も予想通りだし、その答えもちゃんと知っている。


 「え、じゃぁあの動画は誰がどうやって撮影して拡散させたんだろう?」


 学校の先生以外、みんな俺と姉が姉弟だということを基本的に知らない。特に理由があるわけでもなく、自然とお互いに姉や弟がいることを周りに言わないだけだ。おそらく…少なくとも、俺は周囲に伝えていない。

 俺は姉の考えていることが全く分からない。何のためにわざわざ隠し撮りをして、それを拡散させたのか。俺を陥れたいのか? 何か俺が姉にしたことでもあるのか? 俺たちは大喧嘩をした後、お互いに干渉することはなくなったのに、突然の開戦。姉は宣戦布告もなく、まるで都市を滅ぼすかのような攻撃をしてきた。

 俺は面倒ごとを避ける主義だが、やられたら徹底的にやり返す主義だ。やられっぱなしの人間にはなりたくない。漫画の中の主人公だってそうだ。主人公は決して折れない。だから、俺は例え、家族であっても、それは変えない。だから今度は、俺が姉に仕返す番だ。いや、違うな。元家族、元姉であっても。


 「二年の長谷川弓はせがわゆみ先輩を知ってる?」


 「当然だよ!」


 高橋の目が輝いた。

 俺の姉である長谷川弓は、俺とは真逆で、この学校では言わずと知れた知名人だ。

 そんな知名度の高い姉に対抗するため、俺は嘘をつくことに決めた。


 「その人が俺を………っ、おれっ……。」


 俺は高橋の前で、嘘泣きを始めた。まるで本当に泣いているかのように、目に涙を浮かべながら。


 嘘泣きには昔から自信がある。人は泣けばすぐに優しくなるし、泣いている人には誰だって耳を傾けるからだ。


 小学二年生の時、俺は初恋のまなみちゃんのスカートの中を不覚にも覗いてしまった。まなみちゃんはそれに気づき、泣きながら多田先生に伝えに行った。そのことを知った多田先生は、鬼のような形相で俺を呼び出し、説教を始めた。使われていない教室だったせいで、先生の甲高い声が響き渡った。


 「小学二年生にもなったんでしょ!一年生とは違うの!」


 こんな緊張が漂う空気の中で、俺はここで初めて、自分には泣く才能があることを知った。


 「だって、……だってっ…。まなみちゃんが!…ちゃんが!」


 徐々に感情も乗ってきて、言葉のイントネーションに抑揚がついてきた。


「だって、まなみちゃんが僕の視界に入ってきたからっ!ふ、ふつうあんなところに、い、いないじゃん!」


 俺は顔がぐちゃぐちゃになりながら、叱られないように必死で、わざとやったことじゃないと先生に伝えた。すると、ついには鼻水を垂れ流しながら泣く俺の姿に、先生は叱る気を失い、「次からは気をつけてね」と優しく抱きしめてくれた。

 実際、本当に俺はたまたま階段の下にいて、たまたま階段を上るまなみちゃんをたまたま見かけたとき、不可抗力が働いてしまっただけの、完全に偶然の事件だ。

そんなこともあり、「ここぞ」という場面では俺は嘘泣きをしてきた。


 高橋は目を丸くして驚いた。


 「あの弓先輩がそんな事を?!」


 俺は、高橋に嘘泣きしながら嘘をついた。その内容は、俺が弓先輩に影でいじめられているというものだ。電気の紐とボクシングをやらされているのも、弓先輩に脅されて撮らされたものだと、虚言を並べた。


 「まさか、あの、後田原ごたわら中学卒業で、中間テストでは学年六位、この前の大会で自己ベスト更新の百メートル十二秒三。好きな食べ物は柿、嫌いな食べ物は干し柿の長谷川弓先輩が、そんなことをする人間だったなんて…」


 「そ、っそう」


 必要以上に姉のことを知っている高橋に恐怖を感じながら、俺は鼻水をすすり、軽く反応した。

 とにかく、高橋に言ったこの嘘が学校中に広まることを祈るしかない。それまでの辛抱だ。

 今にも姉ちゃんが焦る顔が浮かんで、胸が高鳴る。



 今日という一日は最悪だった。

 学校に着いて早々、クラスメイトから嘲笑され、授業も休み時間も関係なく、弄りや注目を浴びる羽目になった。特に、三限目の体育の授業は最悪だった。

 いつも先生が来るのは準備体操が終わる頃。だからこそ、その時間は陽キャラ男子が中心となって盛り上がり、準備体操をする。つまり、その間は俺にとって「弄り放題タイム」になってしまうのだ。

 いつものようにクラスのみんなが整列を終え、体育係である人気者の前田がみんなの前に立って準備体操を始める。


 「いっちっ、にー、さんっしっ!にーにーさんっしっ!」


 笑顔で張りのある号令に合わせて準備運動をしていると、奴はまた俺を弄ってきた。電気の紐に殴られるところや、電気の紐からの攻撃を避ける動きを、誇張満載で真似して、準備運動の中にそれを織り交ぜてクラスのみんなを笑わせていた。


 「お、お前それはやりすぎだって」


 引き笑いで蛙声の飯田。


 「ちょ、やめとっけってー」


 言葉を発する度に、女子をチラチラ見る後藤。


 「に、フガッ、にすぎ、フガッ、うまっ!」


 豚鼻でフガフガ笑う小林。どいつもこいつも呆れてしまう。


 「ちょっと本家見たいなぁ、長谷川!本物の動き、お願いします」


 クラスが俺の弄りで盛り上がっている最中、突然、前田が俺に話を振ってきた。

 クラスのみんなもそれに乗って、「おっ! おっ!」と期待と注目を集めてきた。

 俺は変な汗をかいて、目はうつろになり、今すぐにでもこの場から抜け出したい気持ちで胸がいっぱいだった。

 だけど、俺はその感情を一旦押し殺して、道化を演じることにした。


 「本物はやっぱちげー」


 「レベチ、レベチ」


 「やばすぎでしょあれ」


 「フガッ!フガッ!」


 俺はあの動画と同じ動きを、この場で恥ずかしがることなく披露した。

 正直に言えば、とても恥ずかしくて、一生家に引き篭もりたい気持ちでいっぱいだった。だが、アイツに負けるわけにはいかない。陽キャラどもにも負けたくない。

こういう時、恥ずかしがる姿を見せた時点で、奴らに喰われる。つまり、負けるんだ。

 それに、ああいった奴らは他人の弱みを糧にして、自分の好感度を上げようとする。

 俺は面倒ごとを避けるために、目立つようなことからは常に遠ざかってきた。学級委員やイベント係、皆の前に立って何かを発言する役割なんて、まっぴらごめんだ。

 だからこそ、今回が初デビューだ。俺は、電気の紐とのボクシングで、ついに表舞台に立った。もう引き返すことはできない。誰も俺を止めることはできない。だって、これは俺が始めた物語だから。


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