第9話 トランク、ひとつ

『リリ姉……』

 絵里花から電話がかかってきた。彼女が襲われてから、二ヵ月ほどが経過している。世間ではすっかり冬支度を終えているが、リリの部屋に暖房器具はない。必要ないからだ。

『この前はごめんね、助けてくれたのに。私、びっくりしちゃって』

 それはそうだろう。絵里花は、この世ならざるものを見てしまったのだから。

「いいのよ。こうしてまた連絡をくれたじゃない」

『それでね、あのね』絵里花は言いにくそうに口ごもった。『懲りない奴だって思われるかもしれないけど……カレシができたの』

「まさか、ネットで?」

『違うよ。幼馴染なの。だから、きっと大丈夫』

「よかったね。幸せになるんだよ」

 この国を出よう。リリは決めた。長居をしすぎたかもしれない。どこへ? 南はだめだ。雨が多い地方は避けなければならない。いや、どうせなら南半球まで行ってしまえば。悪くない。そうか、そうしよう。

『会って欲しいんだけど』

「え、なに?」

 少しぼんやりしていたリリは、我に返った。

『カレシに、会って欲しいの』

「親じゃあるまいし」

 リリは笑った。

 人間同士なら寿命は同じぐらいだ。悲しい思いをする期間は短くてすむ。絵里花はきっと、いい人生を送るだろう。そうであって欲しい。

『だめ?』

「いいよ。そのうちね」

 おそらく会うことはない。

 絵里花との通話を切ったあと、リリは荷物を片づけ始めた。といっても、トランクひとつに収まるだけのものしか持っていない。

 リストフォンが震えたような気がした。どうせダイレクトメールの類いだろう。めんどくさそうに3Dモニターを空中にポップアップさせたリリの目が見開かれた。

 すでにトランクに入れていたVRグラスを引っ張りだした。装着してスイッチを入れる。起動の時間がもどかしい。

 仮想世界を駆けた。ゲームの中でも飛べればいいのに、と思った。白いマントが見えた。白銀しろがねの鎧を輝かせて、ナイトがふり返った。

『ハルなの?』

『そうだよ』

『でもあなた、あのとき』

『あれはね、遠隔操縦のロボット。いってみれば、現実世界における私のアバター』

『だったら、そう言ってよ』

『ごめん。ロボットだと知られてしまったから、もう会えないと思った。でも、どうしてもリリと別れたくなかったの』

 目の奥が熱くなった。本当の姿を晒してしまったから、もう一緒にいられない。静かにまた別の街へ行く。そんなことを、リリはいったいどれだけ繰り返してきたことか。

『バカね。あなたが何者だって、私は――』

 リリは言葉を飲み込んだ。ハルも同じように思ってくれるだろうか。私がふつうの人間ではないと知っても。

 ふいに胸が苦しくなった。この前よりも酷い。体の震えを抑えられない。息が深く肺に広がらず、心臓が暴れている。脂汗がこめかみを伝い落ち、食いしばった歯が噛み合わない。

『私が何者でも受け入れてくれるの? リリ』

 リリは、ハルの問いに答えようとするが、声を出すことができなかった。体に力が入らない。時間がすぎていく。早くしなくては。早く返事をしなくては、ハルに誤解される。

『どうしたの、リリ』

 リリは力をふりしぼって空中に仮想キーボードを表示した。左手で、震える右手を掴んだ。よく見えない目で狙いを定め、伸ばした人差し指で一文字ずつ打ち込んでいく。カチ、

『やっぱり無理なのかな』

 ハル、そうじゃない。カチ、カチ、

『そうなんだね。私は、あのまま去るべきだった』

 カチ、リターン。

 リリは崩れ落ちた。

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2024年12月18日 19:00 毎日 19:00

やさしい雨 宙灯花 @okitouka

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