第3話 ルティアの憂鬱

「ルティア様……」


 聞き馴染みのある声が暗黒に沈んだ私の意識を呼んだ。


 見覚えがあるはずの豪華な天蓋の内側が視界に入る。が、ここがまだ現し世なのか、それとも幽世かくりよなのか、意識が茫洋として判別がつかない。


「ルティア様!」


 呼びかける声はより力強く、私の精神を現世へと引き上げた。


 声の主はすぐ側にいた。濡羽ぬればね色のつややかな髪に黒曜石をはめ込んだような瞳、血色の良い淡い肌色の少女。少し日の光に照らされて輪郭が茶色に縁取られている。深緑の服に焚きしめられた樟脳しょうのう香が鼻腔をくすぐった。


 ああ、現実だ。


「ゾー……私は」

「お目覚めになられ良かったです……」


 いつからそばにいたのか、よく知ったこの少女は安堵の表情をみせる。少し疲れた様子だったが、そっと私を抱きしめた。


 ゾーフィア・ホルヴァート。私と同い年の侍従で、八歳の頃から一緒に生活してきた。

 東の隣国、クーロート国の騎士階級出身で、留学という名目で預けられた人質だ。けれども、彼女のことは実の姉妹以上の友愛をもって接しているし、またゾーフィアからもそれと同等以上の親愛の情を感じている。

 私の身を案じて一晩中付き添ってくれる家族など……彼女以外にいないのだ。

 

「ルティア様のご意思に反する行い、申しわけございません。しかし、ルティア様以上にわたくしはルティア様のことが大切なのです」


「ゾー、あなたが私をあの湖から引き上げてくれたの?」


 ゾーフィアは黙ったまま頷いた。


 この娘はあの湖を泳いで、私が私自身にくくりつけた石の重りを切り離し、私を助け出したのだ。なんという体力、いや忠誠心だろう。


「悔しいお気持ち、よく分かります」


「……そう、そうよ。ランパルト様とはずっと前から許嫁だった。なのにこんな急に……あんまりよ。だから……」


 急に感情が涙になって声が震える。

 心弛こころゆるびなのか、一度絶とうとした命が惜しくなってなのか、自分でもわからない。でも彼女になら、このめちゃくちゃな自分の感情をぶつけてしまえた。

  婚約者が心変わりをした、という話は何処にでもあるのかもしれない。しかし自分の実の妹にその座を奪われたとなれば、さもありなん、で済まされる程、私は聖人でも大人たいじんでもない。


 かりにも私はメゾチアのイリオール家の娘、この国の七大公家の一つに数えられる有力貴族の娘だ。それが許嫁を奪われたとなればこの上ない恥辱、生き恥をさらすなどできようはずがない。


 当然、死を選んだ。高貴なる者の死とは荘厳で、意味あるものでなければならない。


 あの湖を入水の場にしたのはそれなりの意味があった。


 ゾーフィアは何も語らない。ベッドに腰掛けて私の話をただ聴いてくれた。


「竜の瞳の湖……そのような伝説があるのですか」


「……このメゾチア南部に伝わる野史、伝説の類よ。あの湖の底は大きな洞窟があって、そこは黄泉の国とも、異外ことそとつ国ともつながっている、そうよ。どうせ死ぬなら、そこに身を投げれば黄泉の国、他の世界に行けるんじゃないか、行ってしまえれば、と思ったの」


「それで、どうだったのですか?」


「どうって?」


「黄泉の国、異外ことそとつ国を見ることはできたのですか?」


「見えなかった……いえよく分からない……わ。とにかく暗くて……苦しくて」


「今はお休みを。心も体もお疲れなのです。」


 ゾーフィアの暖かく、少し固い手のひらが私の手に重ねられた。


 体をベッドにゆっくり横たえる。


「そうね……でも良かったのかもしれない。水死すると醜く体が膨れ上がってひどく臭うそうだから。そんな姿を衆目に晒すほうが恥辱だわ」


 私は少し口元を緩めてゾーフフィアを見つめた。


「またそのような……本をお読みになって知ったのですか?」


 ゾーフィアの少し呆れた声に、私はこくりと頷くと、ふわりと羽毛の入った布団デュベに身を包んだ。


 お互いの様子に思わず笑みがこぼれた。


 しかし安寧の時間は突然のノックで遮られた。


 給仕係からの声はない。


「ルティア」


 高圧的な声が私の胸を突いた。


 母上だ。


 即座に体を起こして身だしなみを整える。


 ゾーフィアも先程までの浮かれた表情は消え、見繕いをし、床に座して硬い表情で出迎えた。


「どうやら大事ないようね」


 部屋に入るやいなや、私の母、メリィナ・イリオールは私を睨視した。


 ――嫌な眼だ。


「母上、この度は――」


 私は抗うつもりで心身を固く持った。が、その母の甲高い声が部屋に響いた。


「まあ調度いいわ。あなた、しばらく療養なさい。病身のため務めを果たすことはできない、とタルクス家に申し開きして正式に婚約を解消します」


 駄目だ。分かっていた事だが、私の意思や言葉などもとより考慮されていないのだ。


 しかも、実の母から愛情をもって接されていないということは、成長するにつれ、より明らかに感じ取れた。


「何、言いたいことがあるなら申しなさい」


「――いえ、何も、ございません」


 感情を理性という名の関に押し込める。

 全ては決められたことなのだ、それを覆す権利も、意見も求められてはいない。

 私は道具、駒なのだ。


「仰せのままにいたします」


 ビキン!と母の顔の肉が引きつったように感じた。無感情な物言いが逆に気に入らなかったのか、何を言っても気に障るのか――。


「それなら結構。ゾーフィア、娘のことはお願い。そもそも侍従である貴方がしっかりと見ていないから!」


 矛先をゾーフィアに変えた母は、跪く彼女の肩を扇で打った。


 それを無言で受けるゾーフィア。

 こういう扱いは初めてではない、私たちにとっては日常なのだ。


「くれぐれもまたバカな真似はさせないように」


「はい、奥様」


 言いたいことだけ言って母は退室した。


 妙に高い音の靴音が次第に遠のくと、私は息を一気に吐き出して、ベッドに脱力した。

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婚約破棄された公爵令嬢は盤上の魔女(ゲームメイカー)となって国を揺るがします 香山黎 @kouyamarei

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