第3話
私が気を遣っている目の前の存在が実は仮想的な存在ではあるまいかとふと考えが浮かんだ時、とても複雑な事が起きているのだと改めて実感する。
私がそうした他者に心や自我を見出す時、それはその他者の表出する動作によって喚起されているわけだが、その存在を保証するものはない。
私についても同様である。その身体的表出と感情的感覚によってあたかも一続きのアイディンティティが存在するかのように振る舞ってはいるが、それは果たして自己というほど高級なものなのだろうかと問うこともある。私たちは3つの点さえあればカンバスに描いた三つの点に人間的な感情を見出すことができる。もっともその作用が芸術を芸術たらしめるわけであるから人間とって好ましく作用するものではあろうが。
つまるところ仮想的に想定される自己が、仮想的に想定される他者の存在に対してびくびくしているということである。
これは極めて奇妙な状況だ。所与であるが全くロジカルではない。
私においてさえ自己はあまりにふわりふわりとしたあやふやな概念であることから、他者においても同じであると想定できないだろうか。
然るに私たちは自己というものをあまり理解できていないのかもしれない。
仮にそこにもここにも一繋がりのアイディンティティのようなものが存在していないのだとしたら、誰が誰に気を使っているのだろうか。もしかしたらそれは雷を見て神が怒っていると思推するのに近い概念なのではないだろうか。ただそこに石ころが転がっているだけなのではないだろうか。
しかしながら私は「全てが虚無である」といったニヒリズムに陥るつもりは毛頭ない。私の信奉する物は虚無ではなくもっと快楽的で享楽的なものなのだから。少なくとも目の前のカレーライスと目の前のカレーライスが美味しいという感性が残っているのだから何かしらが存在するのであろうということは理解できるし、それは美味しいのだ。人生に意味が見いだせないとの絶望について見たり聞いたりする機会があるが、私は存在や選択に意味は必要ないと考えている。「インドカレーを食べるため」とか今適当につけたものでもいい気がする。インドカレーに飽きたらビーフシチューを食べに行けばいい。あるいは意味という概念を過小評価しすぎているのかもしれず、そうしたものが大切だとする人たちからは反論を得るかもしれないが、それはそれで面白いから是非話し合いたい。
つまるところ他者と自己が双方において仮想的なものであったとしてもそれはそれでOKなのであるが、その時に残る疑問が一つある。「いったいこの現実という現象は何によって形作られているのか」ということだ。どこからインドカレーは現れて、どこにいくのであろうか。インドカレーが何かは分かっている、インドのカレーだ。
ある意味においてそれはいつも存在していて、いつも煌びやかであるのだ。それは起こり続けていて、眠ることをしらない。それは美しくて、終わることをしらない。ではこれはいったいどこからでてきたのか。
はっきりいってそれは虚無ではない。虚無から何かを生み出すことはできない。黒天幕が舞台を生むことはできないように……非存在は存在に対して影響を及ぼすことは不可能であろうし、その不可能さが非存在と存在の絶対的な断絶であろうからだ。つまり非存在から急に存在がでてくることはなく、存在が非存在に還っていくこともない。つまるところ存在はつねに存在であるし、非存在はつねに非存在という存在として存在の裏側に存在し続けるのだ。
そしてその存在の源は何かと私は問うているのだ。これは一種解の無い解であることは承知している。存在し続けるものに対してその存在の源など存在しない。それはただ存在するのである。であるからその表出する源を問うことはできず、ただあるということでもってしか表現できないことは分かっている。
私が求めるのは、その存在と自己のいわばタッチポイントだ。何を起点にして私はこの存在するという状態を観測しているのかということだ。存在は観測されなければ原理的に存在すると見なすことができないだろう。存在を観測する存在も存在していることで存在に内包されるのだから、ある種の自己完結であると定義することもできる。果たして存在と存在を観測する存在はどちらが大きいのか。これほどナンセンスな問いはないだろう。もはや大きさといったある種の存在の側面を描写する言葉でそれを計測する事はできない。そもそも存在と存在を観測する存在が分かれているのかさえ私には分からない。内包とは分断であるのか、あるいははなから癒着しているのか。そもそも内包には大小の観点が必要であるが、存在と存在を観測する存在の関係性についてその表現が正確かは疑う必要がある。先ほどまでの議論は存在を先に、観測を後に持ってくるものだったが、観測が先で存在が後かもしれない。そもそも前後には先後の概念が必要であるが観測と存在の関係性についてその表現が正確かは分からない。
つまるところ少なくとも存在する何かが存在しているということだ。あるいは存在は観測の中に取り込まれてしまって、ただ観測だけがあるのかもしれない。
では我々が観測しているこれはいったいなんだ。ある人は「クソみたいな現実」とある人は「最高の一日」と答えるだろうが、それらはただのラベル付けであって大した違いはないと考えている。オプションである。人生に意味があると考えるのか、人生に意味がないと考えるのかということに似て、どっちにしろ似たようなものである。そこに観測の真髄はない気がする。
もとよりこの現実は非常に奇妙なのだ。理屈があっているようであっていないときもある。ロジカルなようでいてロジカルじゃないときもある。そして気が散るものが沢山ある。あたかも「人生」が大切であると説かれているが、誰もその「人生」が何かを理解していない。非常に情報が閉ざされているような感じがする。情報と呼ばれる表象の性質を考えた時に、我々にはもっと多くの情報が集まってもいいはずだ。それに存在し、観測するということはそれなりに凄いことであるはずで、我々一人一人にはそれなりの権能があってしかるべきであるというのに、それが存在しないように見えるのはなぜか。例えるなら良く出来た夢の中のようだ。全てが奇妙で、良く分からない。ガンガンとなるミュージックの中で人々は美酒に酔っている。まあ楽しいからいいんだけどさ。
仮想的な自己と他者のキャラクターに絶対的な存在を付与したとき、私は何か強烈な違和感と恐怖を覚えるのだ。曖昧だった世界が一瞬にしてコントロールを失い、墜落し、深い深い深海へと沈んでいく。こうして孤独になった水底で、遠く離れた明るさを見上げることになってしまう。
自己と他者が実は存在しないのではないか――ちなみに他者の身体性と自己の身体性を否定しているわけではない、それらは目の前のインドカレーと同じく存在している。こうした問いに落ちて行くとき、私はふと顔を失っているような感覚になる。貌のない私は周囲を見回す。そこには変わらず現実が存在している。だがふとした瞬間、そっとかすかに自由に触れるような感覚がする。桃をそっと手で撫でるように、白いふわふわの自由の気配がするのだ。真の自由が得られる時、私は貌を失っているのかもしれない。
仮に全てのアイディンティティが仮想的なものだったとしよう。それは私がついぞこの自己という表象においては永続的な何かを見出すことを見出すことができなかったことによるものだ。あれほど絶対的だった他者が視界から消え、あれほど絶対的だった自己がどこかにいってしまう。残っているのは何の意味も持たない現実だ。「もっと自由になるべき」「人間」などどこにもおらず、「良くなる」「世界」も存在しない。そうなったときに私は何を志向すべきなのだろうか。
奇妙な事だが、私はここで身体的な感覚に帰結することになると思うのだ。存在などといった観念的なものについて話していて、結局身体に至るのは本当に不思議な事なのだけれど、他者が存在しようがしまいが、自己が存在しようがしまいが、心地がいいとか苦しいとかいう身体的感覚はどうしようもなく存在しているのだ。端的に言えば「私が気持ちいい」状態でいるような志向をすることになるということだ。ファーストクラスで旅行する方が、エコノミーでぎゅうぎゅう詰めになるより気持ちよさそうだという理由でファーストクラスを志向することになると思うのだ。世界とか他者がどうこうとか実はどうでもよく、気持ちよければなんでもよいのかもしれない。薄情だろうか。だが他者も世界も存在しないじゃないか。存在しないものをどうこうできないから、私にとって存在するこの身体的感覚を基準とするほかないのだ。
つまりインドカレーは美味しい方が良いという事だ。
インド行きたい。
雑記 うみしとり @umishitori
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