第2話 未知との出遭い


 丘の上に佇む古城、その西側にそびえ立つ尖塔は月明かりに照らされて一層に妖しく輝いていた。

 最上階の一室にて、片手と片足を鎖に繋がれた男は眉をひそめながら目を瞑り、思索の海を漂っているようである。

 もうひとり、男がもたれかかる壁の反対側に銀色の髪の女が立っているのだが、こちらの目は細くもはっきりと開かれていて、視線はいっさい動く気配がない。


 この部屋に連れてこられてからというもの、男には気が休まる時間がなかった。

 服を着させてもらったことで自尊心を取り戻し、毛布も与えられて体を温めることができた。

 しかし、生まれて初めての手枷足枷が新鮮で、それはともかく、切れ長の目にずっと見張られているものだから、全ての所作に力が入るのはやむを得ない。

 とは言え、何もすることがないから割り切って目を閉じてみると、ようやく地に足の着いた思考ができるようになった。


 男は翌日の早朝に用事を抱えていた。

 休日返上で取り組んだ成績づけの作業も虚しく、朝一番に出勤しなければならなくなったのだ。

 データを持ち帰ることができないものだから、日を改めて職場に戻らないと仕事を再開できない。

 自宅にいてもすることがないため早々に寝床についたのだが、いつもより早い時間だったゆえか寝つきが悪く、どのぐらいで眠れたのかはっきりとは分からない。


 気がつくと馴染みのない硬い石の上に寝ころんでいた。

 薄暗い空間で、どうやら中央が窪んだ広場らしく、そばには装飾の凝った台座があった。

 首を伸ばして辺りを見渡してみると、異国情緒の溢れた古めかしい広間のようで、ずいぶんと雰囲気のある夢だと思っていたのだが、下半身に接している石の冷たさがやけにリアルに感じられた。


 そして、夢の中に自分以外の登場人物がいることに気がついた。

 少し遠く、扉の前に立っている彼はずいぶんと大柄なうえに風変わりな髪形をしていて、関わらない方がよいというか、要するに怖い印象を受けた。

 目が合っているようだがびくとも動かない。


 一点を見つめても仕方がないから、どんな夢が展開されるのだろうと周囲に気を配ってみるのだが、他に変わったギミックもなく、一向に話は動かない。


 意識が少しばかりはっきりしてきて、自分が素っ裸であることに気がついた。どうりで石の冷たさがダイレクトに伝わってくるわけだ。

 夢の中とは言え美意識としてよろしくないと思い、脚を閉じて居直ってみた。


 待っているのはホラー展開か、それともほのぼのまったり系か。

 なにはともあれ、動きがあるとするならばやはり扉の前の大男だろう。

 そうして再び注目してみると、気がつけば真っ赤な真円が目の前にあった。


 いったいなにが起きたのか、頭は素朴に理解しようとしていたが、首から下はすぐさま逃げ出そうともがいていた。

 それが人間の瞳孔だと分かった時には手遅れで、腰はすっかり砕けてしまい、目を背けるために首を動かすことすらできない。


 奇妙な髪形だと思っていたのは角だった。前頭部の向かって左側に大きな角。

 肌の色は全体的に浅黒く、片方が髪に隠されている瞳は深い赤色で、それでいてやっぱり体がデカい。

 ひと思いに殺されるのかと恐怖で全身を震わせるものの、近づいてきてからは何もしてこない。

 ただ、目が完全にキマッていて、体中をじろじろと見られた。


 大男が唐突に声を発した。おそらく自分に語り掛けたのだろうが、何を言っているのかさっぱり分からない。

 語学に堪能とは言えないものの、さっぱり聞き覚えがない言葉に感じられた。強いて言えば東洋よりかは西洋の言葉だっただろうか。

 興奮しているような息遣いが異様に生々しく、やっぱり人食い鬼に食われるのだろうと想像して、命乞いをせずにはいられなかったが声をうまく出せなかった。


 半ば諦めかけたところで大男の表情がきょとんとしたものになる。再び語り掛けてくるが、依然として意味は分からない。

 大男は立ち上がり、何か考え事をしているようで、すぐに食われるわけではなさそうだと少しだけ安心した。


 おそらく言葉は通じない。それでも、もしかしたら日本語を少しは知っているかもしれないから、コミュニケーションを図ってみようと思い立った。しかし、声が出ない。

 そこで男は気がついた。声が出ないのではない。言葉が出ないのだ。



 今でも思考はできている。俺はちゃんと生きている。

 でも、どこか意識がふわふわとしていて、夢の中だからかとも思っていたのだけど、言葉が出ないことに気がついてからは得心がいかなくなった。

 俺の頭がどこかおかしい。そして、夢の中ではないとしたら、この状況はなんなんだ?

 疑念はもはや確信に変わっている。この部屋に来てからしばらく経つけど、一向に夢から醒めることはない。

 服を着るまでに感じていた恥ずかしさは間違いなく本物だった。


 切れ長の目とうっかり視線が合わないように目を開ける。

 先ほどの広間と比べればだいぶ手狭な部屋で、階段をかなり上ったからきっと高い階にあるのだろう。

 目隠しをされる前に見た様子だと城らしい建物のようだから、もしかすると塔の上のほうだったりするのかな。

 鎖のせいで自由に動き回れないのだけど、異国の城であるならば折角なので観光したい。一周回って楽天的な気分になってきた。


 再び目を瞑る。


 おそらく食糧としては見られていない。

 女性の方はいくらか普通な人のように感じるし、思い返してみれば、大男も好奇の目で俺を見ていた気がする。

 あっち向いてホイらしき動きをさせられた意味は良く分からないけど、少なくとも敵対的な接し方ではなさそうだった。


 彼らに連れ去られたのだろうか。なんのために? 身に覚えがなさすぎる。

 彼らはどこの国の人だ? 顔つきでお国を判断できるほどグローバルな交流はしたことがない。

 壮大なドッキリ番組ということはないか? ……いや、テレビ関係の知り合いはいないし、ここまで大掛かりだと採算が合わないはず。

 一応まわりにカメラがないか確認してみようか。取れ高が足りないならば、今からでも良いリアクションをしてみるべきかもしれない。


 もっともらしい事態を想定してはみたものの、実のある見解は得られそうもない。

 目が覚めてから今に至る経緯を整理するだけで、だいぶ脳のリソースを使ってしまった気がする。もう限界だ。とりあえず眠ろう。

 寝ている間に良からぬことをされるかもしれないけど、思えばろくに眠れていなかった。


 部屋の反対側に一瞥をくれると、そこに女性はいなかった。部屋中を見渡してみるがどこにもいない。いつの間にいなくなったのだろうか。

 理由はともかく眠りにつくには好都合だ。


 開き直って寝るにしても、朝まではあとどれくらいなのかが気になるな。

 冷たい石の床との間に毛布を挟んでいるとはいえ、快適な寝心地は望むべくもないわけだけど、どうせなら長く頭を休ませたい。


 ベッドに入ったのがだいたい22時ぐらい。それから、下手すると2時間ぐらいは寝つけなかった。

 そうして、いつの間にか広間に横たわっていて、階段を上って、服を着て、この部屋に来て、状況の整理を始めて……、だいたい3時間は経ったか。

 となると、10足す2足す3だから……。えーと……。……あれ? いま何時だ?



 ふと男は部屋の高窓から月明かりが差し込んでいることに気がつく。

 空を見てみればだいたいの時間が分かるかもしれない。

 だいぶ小さい窓であるため、分かりやすい冬の星座が見つかるかどうかは怪しいが、とりあえず見てみよう。

 そうだ。星空を見ればここが北半球か南半球かぐらいは分かるかもしれない。少しでもヒントが得られれば万々歳だ。


 西の塔に幽閉された男は思いのほか元気良く立ち上がり、鎖をからからと引きずって、窓の先に月を見つけた。

 眩しいぐらいに白々と輝く満月は、見知らぬ土地で旧知の友人に出会ったかのような、そんな安堵感を与えてくれる。

 月が優しく微笑みかけてくれているようで、いつまでも見ていたかったが、なにやら大きな違和感を覚えたらしく眉間に深い皺が寄った。


 空がどこか赤っぽい。

 それに、普段から見ている夜空にしてはやけに明るくはないだろうか。とても静かな場所であるが、思ったよりもこの城は都会にあるのだろうか。


 おもむろに一歩を踏み出したその瞬間、男は目に映る光景に愕然とした。

 白い月の左隣り、すぐ近くの天空に浮かんでいたのは、おどろおどろしく輝いている赤くて大きな月だった。白い月の倍、いや、それ以上はあるだろうか。

 満月から放たれる赤い光はどこかくすんでいて、表面はところどころ赤黒く蠢いているようにも見える。

 星なのにどこか生々しくて、生きているようで、底知れぬ不気味さに目が離せない。


 そこで男は、先ほどの思索では至らなかった、可能性と言うには及ばないひとつのひらめきにたどり着く。

 あの大男の容貌。とても同じ人間とは思えない、尋常ではない体躯。そして角。

 脳裏に焼き付いて離れない、突如目の前に現れた丸くて大きな赤い瞳。

 自分は思っていたよりも遠く、想像の枠を飛び越えるほどに遥か遠い場所に来てしまったのではないか。


 赤い月と白い月が夜空を煌々と照らしている。折り重なった光は窓をまっすぐに突き抜けて、自分の元まで届いている。

 これは現実なのだろうか。ここは……


 ここはどこだ。

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