勇者であれば呉れてやる ―隔てられし世界より、招かれざるふたりめの来訪者―
昴の後星
第1話 はじまりの夜
今宵は満月だ。
夜空が思いのほか暗いのは、事情を知る者からすればそう珍しいことではない。
何も知らない動物たちは頼りがいを失った月明かりに困惑し、慌てふためく息遣いが幾重のざわめきとなって地平を伝わっていく。
つい先ほどまでは、風のささやきしか聞こえないほどに穏やかな夜だったというのに。
そんな世界の中心に鎮座する大きな古城は、暗い森がひらけた小高い丘の上で、ほの赤い光を一身に受けとめていた。
その影は不気味なほどに小さく、ますます小さくなっていくようである。
塔の上で空を見上げていた城の主は、月明かりに身を隠していた星々に急かされて、ひんやりと心地よい風にしばしの別れを告げた。
踵を返して軽やかな一歩を踏み出したのち、ふと我に返り、努めて堅苦しい足取りで階段を下へと降りていく。
カン カン カン カン
螺旋状に下へと続く階段が、ひとつずつひとつずつ音を奏でる。
その間隔は始めこそきごちないものであったが、時おり聞こえる風の伴奏がついに消えてしまった頃には、小気味よい拍子を刻むようになっていた。
それから同じだけの時が経っただろうか。
バーンッ
無造作に開かれた扉の音を合図に、単調な曲は突然の終幕を迎える。
にわかに新鮮な空気を取りこんだ広間の中央、台座の上に置かれた籠の中の小さな瞳は、拙い演奏のことなど露にも気にかけない無邪気さで、入口の方を見上げていた。
「……手向けにもならんな。許せ」
城の主はそう言って乾いた笑みをこぼすと、もろもろの書物や小道具をかき分けて作られた、即席の小道を真っ直ぐに通り抜ける。
四方の壁に備えられた燭台は、少しばかり控えめに広間の全体を照らしていた。緩やかな階段を降りるぶんにはなんの苦にもならない。
台座に立て掛けておいた厳かな杖を手に取り、少しだけ後ろに下がってから背筋を伸ばす。
どこか踏ん切りがつかなくなって、気休めと分かっていながらも先端にあしらわれた水晶の状態を確認せずにはいられない。
けれども、気を逃してしまっては本末転倒だ。
水晶が籠の真上に来るように杖を掲げる。
遠く、聞こえるはずもない風の音に耳を傾けながら、城の主は呼吸を整えた。
「我が名はエリグ=バラシェオール。ここに召喚の儀を執り行う」
言葉が沈黙を破ると、水晶を囲む空気がひとりでに揺らめきはじめ、透明の波紋が周囲に広がっていく。
揺れはだんだんと大きく、だんだんと強くなっていき、ほどなく輝きを起こした光の渦はたちどころに激しさを増していく。
書物のはためきは轟音の中にかき消され、縦横無用に荒れ狂う渦は青白い光の繭を成した。
やがて広間の全体が光に覆い尽くされると、もはやこの部屋に誰がいて、なにが行われているのか、当人のほかには分からない有様である。
しかしながら、その中は意外にも平穏に満ちていた。
もはやなにも見えず、なにも聞こえないに等しい、一切の寄る辺がない光の世界で、意を決した眼差しが力強く見開かれる。
「月白の使者よ。祝福されし此房を志し天空の門前に佇むならば、我らが悲痛と渇望の招来に応えよ。新星と見紛うテナエの導きに従って、汝の姿を現したまえ!」
誰が聞いているかもいざ知らず、確かに発せられた号令をきっかけに、光の渦は収縮に転じて、輝きを強くしながら小さく丸くなっていく。
広間に存在していたあらゆるものが再び輪郭を取り戻す。
燭台のろうそく、ひらかれた書物、空っぽの小瓶。
石の階段、杖を持つ男、四角い籠。
そして、光の珠は虚空に弾けた。
おそらくは束の間の出来事であったのだろうが、久方ぶりの静寂は肌に優しく、城の主を労っているかのようであった。
周囲を見渡してみれば、決して初めての光景ではない。青白い光の粒がそこかしこに浮かんでいることも。
床に置かれた雑多な物品がまばらに壁際に押しやられて、広間が幾らか小綺麗になっていることも。
燭台の明かりがほとんど消えてしまって、視界が薄暗くなっていることも。
それでも、それでもこれまでとは何かが違ったはずだ。
根拠のない違和感を頼りに、あらためて広間を注意深く見渡していくが、ありのままの事実たちは期待した応えを返してはくれない。
唯だひとつ、慰めの言葉をかけてくれそうな客人は、籠の中で小さく縮こまっていた。その瞳に輝きはない。
「……こんなもんだな」
城の主は浅くため息をつきながら肩を落とすと、今度はいたって作業的に周囲を見渡し、状況をつぶさに記憶していく。
達成感など得られるはずもないが、予定通りにすべてをやりきったのだ。
滅多にお目にはかかれない、青白い余韻が漂う空間はなかなか趣深いけれども、もはやここに居残る理由はない。
籠を素っ気なく抱え上げたのち、努めて軽やかな足取りで階段を上って、散らばった書物の中から目当てのものをひとつ拾い上げる。
少し遠くに贔屓の羽ペンを見つけたが、敢えてあれを取りに行く必要もないだろう。
書斎に戻ったのち、この記録帳に変わり映えのない文字列を沁みこませる。そんな情景を苦々しく思いながら、広間を後にしようと扉に手をかけた。
その時だった。
常人よりも幾らか鋭い感覚を持つ城の主は、背後になにやら生き物の気配を感じ取る。
すぐに振り返るべきと分かっているのに、頭の中は取るに足らない憶測でいっぱいになって、首すらまともに動かすことができない。
なにも聞こえない。なにも響かない。それでも、肌を撫でる感触だけはある。
静寂でも、沈黙でもない。音が消えてしまった世界など、とても耐えきれるものではない。
「っはぁ…… はぁ、はぁ……」
やっとのことで呼吸を再びはじめたのち、あらためて背後の気配をなぞっていく。
ねずみなどではない。籠は、確かに腕の中にある。
首だけではなく体全体の向きを変えなければ、真後ろの事実は分からない。
この目で直に見なければ、始まりを始めることはおろか、終わりを始めることすらできはしない。
下げようとした右足を寸前のところで左足に切り替えて、城の主は後ろを振り返った。
決して間違えることなくしつらえた視線の先には、人間の形をした生き物がいた。
台座のそばで横向きに伏していたようだが、上体を起こし、燭台の明かりに目を慣らそうと瞬きをしている。
それは、城の主よりひと回りもふた回りも小さい小男のようだ。
やがて世界が鮮明に見え始めたのであろう。天井を左右に見渡し、自らの体を支える床の存在を確認し、そして視線を水平に向けると、ようやくこちらに気がついた。
……ッ!
言葉にならない声を発しながら、人間らしき生き物は驚いた表情でこちらを見ている。
やがてその瞳は、値踏みをするような、初めて出遭ったものの範疇を見定めるような質感に変わり、ついには何の結論も出せずに再び周囲をきょろきょろと見渡しはじめた。
そして、自らが一糸まとわぬ姿であることに気がついて、明らかな狼狽を示している。
目が合ったと思っていたのだが、こちらが微動だにしなかったから、銅像か何かとでも勘違いされたのだろうか。
いや、そうではなさそうだ。小男は態勢をおもむろに直し、再びこちらに視線を合わせて、眉をひそめながら様子を伺っている。
城の主は床を蹴って宙に浮かび上がると、たったの一歩で生き物のすぐそばに降りた。
驚くのも無理はない。小男は体をびくつかせて後ずさりをしながら、恐怖と困惑の表情を顔いっぱいに張り付けて目の前の男を凝視している。
そんなことはお構いなしに、穴を穿つかのような勢いで、生き物の全身を隈なく観察する。
やはり人間だ。やはり男だ。間違いない。
「俺の名はエリグ。貴様の名前は何だ? どこから来た?」
多くの問いが頭の中を駆け巡ったが、最初に口から出てきのは至って簡素でありきたりなものだった。
問いなどなんでもいい。どのような反応が返ってくるのか、期待に胸が膨らんで息が荒くなる。
しかし、どうしたことか。一向に返事は返ってこない。引きつった顔は口をぱくぱくさせるばかり。
少し待ってみると短いうめき声を上げるものだから、その度に心臓が跳ね上がるのだが、どの音にも意味があるようには感じられない。
「……言葉が話せないのか?」
無意味な問いかけに返事は返ってこない。
思えば言葉が通じるなどありうべくもない。自らの言葉を発してくれてもいいはずだが、恐怖で錯乱しているとも考えられる。
眼には明らかに知性が宿っているから、まさか言葉を持たないということはないだろう。
待てよ。確かあの文献に……
エリグはおもむろに立ち上がると、顎に手を添えながら今すべきことを思案する。
期待はしていたし、儚く想定していた成果の一つでもあったが、いざ目の前にすると準備不足が否めない。今一度、書庫にこもって知識を整理する必要がある。
となれば、いったん状況を留め置くためにも協力を請わねばならない。
懐からこじんまりした腕輪を取り出し、備え付けられた水晶を一瞬だけ光らせてからすぐにしまう。
足元にいる小男は依然として所在なさげな面持ちであるものの、なにかを必死に考え込んでいるようだ。
いったいなにを考えているのか、エリグはそれが知りたくてうずうずしてしまうのだが、言葉が通じないとあってはどうしようもない。
単純なやり取りで構わないから、どうにかして意思疎通を図れないものか。
改めてしゃがんで目線を合わせ、物は試し、顔の前で上を指差してみる。
すると、小男はなにがなにやら分からない様子であったが、逡巡ののちに、僅かに目玉を上に向けて頭上の様子を確認した。
城の主の心臓が、ここ一番に大きく脈を打つ。
なんてことだ。いや、決して大したことではないはずだが、初めて受け取った意味のある返事に喜びが止まらない。
次に左を指差してみれば、小男はぎこちなくも向かって左側に視線をずらした。こんなにも楽しいことが今まであっただろうか。
「エリグ様。イベルタです。お呼びでしょうか?」
そうしたやり取りを飽きもせずに続けていると、扉の外に先ほど呼びつけた協力者がやってきたようだ。
小男との対話に夢中になり過ぎて気がつかなかった。
「……来たか。呼び出しておいてなんだが、この部屋に足を踏み入れたならば、中で見た一切の出来事の口外を断じて禁ずる。お前と俺だけの秘密だ。拒否権など端から与えないが、覚悟が済んだら入って来い」
物々しい言い様に外の人物は些か戸惑った様子であったが、迷いを感じさせないぐらいの僅かな間をもって、静かに扉は開かれた。
「平素より主君の命に従う覚悟はできております。いかなる御用でお呼びになったので……」
忠実な家来は無駄のない所作で広間に入り、扉を閉め、いつもの調子で受け答えを始めたのだが、目の前の光景を認識するなり言葉を紡げなくなってしまった。
イベルタのここまで唖然とした表情を見るのは久しぶりだ。もしかすると初めてかもしれない。実に愉快な夜だ。
「…………まさか、成功したのですか?」
「及第点ではあるが大声を出すな」
イベルタははっと口元に手を当てて、自らの不行き届きを恥じる。
心なしか頬が紅潮してしまったようで、まっすぐで透き通った銀色の髪との対比が鮮やかだ。
「申し訳ございません。しかし、これはいったい……」
「遠慮せず近くまで来い。お前は今しがた成功と言ったな? であればあらかた予想はついているはずだ。この小男はなんだと思う?」
主君に返答を迫られたならば返さないわけにはいかない。イベルタは言いつけ通りに広間の中央そばまで歩を進める。
エリグの表情と足元の小男の様子を交互に見つめて、ありのままの事態を整理し、深刻な表情で回答を考えている。
なにも間違えたところで罰などないのだが、今はこの状況がたまらなく楽しい。
「……『巡りびと』ですか?」
そこまで難しい問いかけではなかったとは言え、期待通りの答えに対し、エリグは隠すことなく満足げな笑みを浮かべる。
その様子にイベルタは少しだけ安心したようだが、まだ答え合わせが済んではいないし、依然として異常な状況の渦中にあって、強張った表情を崩すには至らない。
「ずいぶんと雅な言い方をするじゃないか。で、お前がそう思った根拠を聞きたい。無論、俺としても固まった結論があり、その理由を少なからず持ち合わせているが、他人の意見を知りたいのだ」
「……承知いたしました。まず外見的な特徴からこの者は凡族であるように見えます。感じられるミナカも薄弱で、これほど弱々しい人間には出会ったことがありません。そして、何よりも、ミナカの色がまったく判別できません。まるで死人のようですが、死体ですら仄かな残滓があるのにこの者には一切の色がない」
イベルタは淀みなく回答を始める。
聞いているエリグとしては予想だにしない見解ではないため刺激的ではないのだが、それでも自らの考えがなぞられて確かなものになっていくようで、なんとも心地よい。
「ふむ。他には?」
「あとは……、この状況です。エリグ様が凡族を依り代に使われるのであれば私の耳に届いているはずですし、もし届いていなかったとしても、この者は明らかにただの凡族ではありません。召喚の儀の影響で特異な症状を被っているとも考えられますが、……いや、そういうこともあり得るのでしょうか?」
「ふははは。すまない。あまり公平ではないな。凡族の男を依り代になどしてはいない。今回の犠牲はホムラリスの幼体だ。この小男は間違いなく、俺が召喚の儀を行った後に顕現した者だ」
エリグは堪えきれなくなって問答を終わりにした。
イベルタの表情がコロコロと変わるのを見られるのは貴重な時間だが、こうも変調が激しいと若干の食傷気味である。あまり似合ってもいない。
「であれば、やはり……」
「そうだ。俺はこの者が『巡りびと』であると考えている。凡族側の文献は脚色が過ぎて信用に足らんことがよくあるが、おそらくは過去に顕現した巡りびとの状態と比べて矛盾はない。お前が言った通り、ミナカに一切の属性がないのはこの世ならざる者の証だ。近づけば良く分かる」
目の前のふたりが自分について話していることを小男も察しているのだろう。交互に視線を配っているのだが、先ほどよりも些か気まずい表情になっているのは気のせいか。
……なるほど。全裸であることの羞恥が強まっているわけか。
「なんと申せばよいか……。拙い言葉で恐縮ですが、エリグ様が長年続けてこられた実験の偉大なる成果です。謹んでお祝いを申し上げます」
イベルタは片膝をつき、頭を垂れて丁寧な祝福を主君に送る。
気品に溢れたその所作を褒め称えたいぐらいに気分が良かったが、忠実な家来はすぐに構えを解いてしまった。当人には賛辞を承る気がさらさらないらしい。
「では、今一度、私をお呼びになった理由をお聞かせいただけますか?このような一大事を共有してくださり誠に光栄に存じます。命に代えてもエリグ様の他に口外することはございません」
「そう堅くなるな、と言いたいところだが、今はお前の律義さが実に頼もしい。これから俺は最下層の書庫にこもる。今後の方針を決めるうえで確認したいことが山ほどあるんでな。お前には小男の隔離と監視を頼みたい」
今は時間が惜しい。
思い焦がれた成果物を他人に委ねるのは不服だが、イベルタほど信用できる者はこの城にはいないだろう。
「承知いたしました。とりあえずの隔離場所ですが……、経路や空き室、人通りの近況を踏まえますと西の塔が適当かと考えます。長きに及ぶならば、家人らには私がエリグ様の命で何某かの仕事をしていると伝えておきます。よろしいでしょうか?」
「それでいい。仔細は任せる。早ければ朝日とともに出てくるつもりだが、おそらく無理だろう。それと、この者には言葉が通じん。不便をかけるが、俺の記憶が正しければ近いうちにどうにかなるはずだ。あとは……、そうだな。念のため温かくしてやってくれ」
足元の小男は小刻みに震えていた。
初冬と言えども城の深部にあって厚い壁に覆われたこの広間はそう寒くはないはずだが、さすがに石の上に全裸とあっては体も冷える。唇の色も紫がかってきているようだ。
この程度で体調を崩されては拍子抜けだが、それでも顕現して間もないうちでは用心に越したことはないだろう。
城の主は忠実な家来に小男を託し、軽やかな足取りで広間を後にした。
書庫に向かうにはいったん階段を上らなければならないのだが、行きと違って帰りの拍子はぐちゃぐちゃだ。とても同じ演奏者とは思えない。
しかしながら、どうしたことだろう。
広間の扉のすぐそばで、無造作に転がっている小さな籠の中の瞳は、子守唄を聞かされて眠っているかのように、安らかな表情で閉じられていた。
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