姉川の戦い

                 参

 時は元亀元年(1570年)に戻る。

「……」

「また黙り込んだな、高虎」

「……昔のことを思い出しておりました」

「昔のこと?」

「はい、奥方さまの顔はお綺麗であったなと……」

「な、なにを言っておるのだ⁉」

「冗談ですよ。力を抜けとおっしゃったでしょう?」

「そ、そういう類のことは言うな!」

「面倒でございますね……」

 高虎は肩をすくめる。

「……少し矛盾することを言うぞ」

「はい?」

「近う寄れ」

 俯いた虎高が手招きする。高虎は巨躯を折り曲げて、顔を近づける。

「なんでしょう?」

「家来たちの手前、大声では言えぬことだ……」

 虎高は周囲を見回しながら、小声で囁く。

「?」

 高虎は首を捻る。

「無理をするな。生き残ることだけを考えろ」

「!」

 高虎が虎高の顔を見る。冗談ではないらしい。

「……分かったな。高則に続いて、お前まで失ってしまったら、とらが悲しむ」

 虎高が母の名を出してきた。兄の高則は先の戦でその若い命を散らしてしまった。この上高虎まで失えば、藤堂家は立ち行かなくなる。

「……理屈は分かりますが、多少の無理をせねば勝てぬ相手でしょう、織田信長は」

「織田の陣を見たか?」

 虎高が川向うに陣取る織田の軍勢を指差す。

「二万を超える軍勢が十三段に構えておりますな」

 高虎は冷静に答える。

「わ、我ら浅井勢は一万ほどじゃぞ⁉」

「半分ですね」

「半分……」

「しかし、越前国(現在の福井県東部)から朝倉勢が駆け付けてくれました」

「う、うむ、それは大変に心強い。持つべきものは同盟相手じゃ」

「しかし、数は七千。我らを足しても織田勢以下です」

「むう……」

「しかも……」

「しかも?」

「ご当主である朝倉義景あさくらよしかげさまがいらっしゃいません。これでは士気に関わります……」

「め、滅多なことを言うでない!」

「付け加えると……」

「な、なんだ?」

「朝倉勢が対面しているのは、三河国(現在の愛知県東部)の徳川勢です」

「み、見たところ、数は多くはない。信長めも同盟相手には恵まれんようだな」

 虎高が笑みを浮かべる。

「そうでしょうか?」

「なに?」

「当主の徳川家康とくがわいえやすが自ら出張ってきております。士気は極めて高いはず。三河兵はたいへんに精強であるという噂も聞きます。厄介な相手となるでしょう」

「ぐぬぬ……しかし、こちらも先鋒が武勇で鳴らす、浅井四翼が一翼、磯野員昌いそのかずまさ殿じゃ! なにを恐れることがある!」

「そうですね、我らはその磯野隊に属しております」

「あっ⁉」

 虎高が間の抜けた声を上げてしまう。

「お味方の足を引っ張らぬよう、懸命に戦わねばなりませんね」

「ぐっ……」

「ご心配せずとも高虎はここで死ぬつもりはありません」

 虎高は首を左右に振ってから告げる。

「……この期に及んで何を言っても致し方ないか……いいか、藤堂家の名に恥じぬように懸命に戦うのじゃぞ!」

「もちろんです……!」

 虎高の言葉に高虎は力強く頷いた。

「!」

 川の北側に布陣する浅井・朝倉連合軍と、南側に布陣する織田・徳川連合軍、川を挟んで睨み合いが続いていたが、徳川勢が弓矢や鉄砲を射かけたことによって、戦いの火蓋が切って落とされた。世に言う『姉川の戦い』の開戦である。

「行け! 目指すは信長の首じゃ!」

 戦況は予想を覆し、兵力で劣る浅井勢が優勢であった。先鋒の磯野員昌隊の勢いはすさまじく、十三段構えの織田の陣を、十一段まで切り崩してみせた。

「うおおおっ!」

 いざ戦が始まると、高虎は無我夢中で槍を振るった。さすがに初陣であっては、浮足立つのもやむを得ない。敵中に果敢に突っ込み、敵兵を幾人か斃した。

「は、挟み撃ちだ!」

 誰かが叫んだ。高虎の見立て通り、士気の低い朝倉勢を押し退けた徳川勢が浅井勢の横腹を突いたのだ。その反対側にも、織田勢本隊の後方を守っていた美濃国(現在の岐阜県)出身の「西美濃三人衆」が率いる部隊が駆け付けた。浅井勢は挟撃される形となった。

「て、撤退!」

 浅井勢は撤退を余儀なくされる。高虎もやむなく引き下がろうとした。そこで武士の首を腰に提げていることに気が付いた。どこかで打ち倒し、首を搔っ切ったのであろう。武士は兜を付けていた。兜首だ。名のある武士だろうが、その名を失念してしまっていた。

「しまったな……」

 高虎は舌打ちする。とはいえ、確認する術も暇もない。高虎は味方共々撤退した。姉川の戦いは一日で決着がついた。穏やかな川は、兵たちの流した血で真っ赤に染まった。

「高虎、見事であった。初陣で織田方の侍大将を討ち取るとはな、儂も鼻が高い」

 虎高は高虎の無理を諫めず、武功を素直に褒めてくれた。相手の名前は虎高や家来の者がしっかりと記憶してくれていた。あの乱戦で周囲に気を配る余裕があることに高虎は素直に感心した。自分もそうありたいと思った。

 姉川の戦いで敗れた浅井・朝倉連合軍だったが、反撃に転じ、約三ヶ月後、織田方が近江に築いた宇佐山城を攻めた。高虎はこの戦でも兜首を二つ獲るという活躍を見せた。その活躍は味方を勇気付け、主君である浅井長政を大いに喜ばせた。長政は高虎を呼び寄せた。

「高虎、初陣に続き、此度の活躍、実に見事であった」

「もったいなきお言葉……」

「いや、これで三度目か……」

「はい?」

「一昨年の賊退治もそなたの手柄であったな」

「お、覚えていてくださったとは、恐縮でございます……」

「感状と脇差を与えるだけでは足りぬな……これをやろう。立て」

「はっ……!」

 長政の近習が羽織を高虎に着せた。目立つ大紋が羽織に入っていた。

「六尺の儂でも少し大きい羽織じゃ、巨躯のそなたにやろう」

「あ、ありがたき幸せ!」

 高虎は巨躯を精一杯折り曲げる。青年主君と少年家臣の運命は激しく揺れ動く……。

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藤堂高虎~乱世を生き抜いた男~ 阿弥陀乃トンマージ @amidanotonmaji

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