1-5 愛しき紫の波の君

――港町サーリッシュナル、アンネリーベルの屋敷――


 これからの乗艦を自分の目で見た私たちは、日が沈む前に屋敷に戻った。簡単な食事をして風呂を済ませ、王都行きの夜間馬車に乗る準備をする。馬車の上で一泊して明日の朝は王宮に。いつもながらハードスケジュールだね。


 王女の私と、公爵令嬢のファルナなら、普通は専属侍女が身の回りの世話をしてくれる。でも今の私たちにそんな人がいない。料理と掃除などは屋敷の使用人たちに任せるが、身だしなみは自分で整える。人にやってもらったほうが早いことなら手を貸し合う。


「アンネ様、髪はもうこのくらいにしておきましょう」


「まだ時間があるよね。もうちょっとだけ」


 やるべきことはもう全部終わったから、私はファルナの髪をもう少しいじりたい欲望に従う。


「仕方ないですね……どうしてそんなに髪が好きなんですか?」


「だって、このふわふわな感じ、自分のと全く違う感触がすごくいいのよ……」


 私は、昔から自分のプラチナの髪が大好き。童顔だし身長伸びないし筋肉つきにくいし、自分の体は色々と残念だが……この優しい色のサラサラヘアだけは大好き。そして今はファルナの髪も同じくらい大好き。この艶やかな紫色のウェーブ、すごく綺麗だし、さわり心地はもう最高。いつも気がつけば私の手が絡め取られて、抜け出せなくなる。


「自分で手入れするのがとても大変だから、わたくしはこの巻き毛があまり好きではありませんが……」


「今はもうその悩みから開放されたじゃん。私がやってあげるから」


 ファルナの場合、海軍士官学校に入るとき専属侍女をやめさせた。これからの自分は公爵令嬢ではなく、一介の軍人として生きるから甘やかされるわけにはいかないと、頑なに拒否した。あの頃のファルナは思い詰めて、結婚できない自分に貴族令嬢として生きる価値がないと決めつけた。海軍士官学校に入るのも、国にこの身を捧げるという、自棄半分の理由だった。


 私の授業の最初の生徒たちは、航海の伝統がないカリスラントの数少ない船乗りと船大工たち。中にはファルナの大叔父、当時の海軍のトップのケロスじいちゃんもいた。私が描いた未来は届かない夢ではないことを彼らに理解させるのが、私の新時代海軍の第一歩だった。私は彼らのことを、海軍士官学校0期生だと密かに呼んでる。


 0期生たちを使って、私の知識が実現可能だと証明したら、海軍士官学校の設立が認められた。正式に開校してまず入学するのは訳ありの貴族子息たち。この士官学校は第二王女のごっこ遊びだと考えて、コネ作りを目的に子供を送り出す人もいた。そんな複雑な背景がある1期生の中、ファルナは最も優秀の生徒だった。海のことも戦のことも何も知らないか弱い公爵令嬢から、立派な海軍軍人に転身。そんなファルナは私の一番自慢の生徒であり、私の夢を実現させた一番の功労者であり、私が一番頼りにしている副官でもあり、そして……今は私の最愛の人だ。


 ファロネールシア・セラーエリクル。カリスラント西部に強い影響力を持つ大貴族セラーエリクル公爵家の令嬢。私がファルナの入学届けを見たときびっくりした。まさかこんな高位の貴族の子女が来るなんて思わなかった。今でこそ海軍の経歴がカリスラントの貴族にとって一種のステータスになったが、あの頃の海軍にまだ人もいないし船もない、正真正銘ゼロからのスタート。そんな誰もやりたがらない、モルモットのような1期生に、いきなりこんな大物が来るとは。


 ファルナはもともと普通の公爵令嬢だった。彼女の四回目の婚約が白紙になったときまで。ファルナの最初の婚約者は魔法練習の事故で命を落とし、二人目は流行病に命を奪われ、三人目はいじめられた使用人に毒殺され、四人目は鬱病で首を吊った。それぞれの事件に関連性が全くないが、四回も続くと人々はそれが偶然とは思わなくなる。こうしてファルナの社交界での二つ名は、婚約者を必ず不幸にする「呪いの令嬢」となり、普通の貴族女性の人生を送ることが絶望的になった。ファルナ曰く、海軍士官学校が女性の入学者を募集するお知らせを見たときまで、彼女は自殺を考えてた。生きる意味をなくした自分を受け入れてくれる新しい居場所、絶望の闇を照らす一筋の光……それが彼女にとっての海軍士官学校だと言ってくれた。


 ファルナは最初自分の役目は私の盾になることだと考えて、白兵戦の訓練を中心に勉強した。血が滲むような努力でサーベルの名手になった。でも新時代の海軍は接舷戦を行うことがほぼなくなるのを私は知ってるし、多才で物覚えがいいファルナをただの海兵として扱うのはもったいないと思った。それから私はファルナに色々教え込み、そしてファルナは私の期待を見事応えてくれた。操船、物資の管理、魔力レーダーと魔石ライトパネルの操作、魔導砲の射角の計算と撃つための火魔法の制御、魔導エンジンとスクリュー推進の原理と簡単なメンテナンスの仕方、気球からの空中観測……こうして様々の知識を得たファルナは1期生の首席で卒業して、試作新型船の運用テストの艦長に選ばれた。カリスラントの初の女性艦長だった。13歳の少女がいきなり艦長だなんて、なんの冗談かと思うだろうが、まぁあの時のカリスラント海軍は本当に何もかもが足りなかったからね。非常時期ってやつよ。


「ねぇ、ファルナ……憶えている?私が初めて船に乗ったときのこと」


「もちろんです。わたくしの人生で、二番目に重要な出来事だから」


 王女である私が気軽に船に乗るわけにはいかない。ファルナの船で安全性を検証して、私と同年代の女の子たちだけでも船をちゃんと運用できることを証明して、やっとお父様の許可が下りた。船が港から離れると、私はファルナに抱きついて、泣きながら「ありがとう」と何度も告げた。自分の夢を現実なものにするための、とても大きな一歩を進めたから。本当ファルナが海軍に来てくれて良かった。他の1期生たちもみんなすごく頑張ってくれて、私はとても感謝しているが、ファルナほどの逸材は他にいない。もし1期生にファルナがいなかったら、私の海軍計画は1年か、2年くらい遅れていたんだろう。


「あれが二番目か……じゃあ、一番目は、やっぱり……」


「はい。アンネ様の世界が絶望に包まれた日、そして私がようやくアンネ様に恩返しができた日のことです」


 ファルナと違い、二年前まで私にはセレンローリと言う名前の専属侍女がいた。私ともファルナとも遠い親戚にあたる。彼女はキルレンスク公爵家の人間だが出自に問題があるので、私のところに奉公に出された。船の上までついて来てもらうのはさすがにお気の毒だから、私も専属侍女をやめさせようと思ったが……親たちも、その侍女本人も許してくれなかった。


 私は自分が奇天烈な王女だと自覚している。私の破天荒な行動をいつも怒らずにフォローしてくれるセレンローリには負い目を感じる。できれば彼女に負担を強いるようことはしたくないが、ザンミアルに嫁ぐ前に私はなんとしても海軍を仕上げて確固たる実績を作らなければならない。いつかセレンローリの苦労に報いたいと思ったが、その機会が訪れることはもう永遠にない……


 カリスラント海軍総司令の私だけど、戦争が始まる前は海の上にいる時間が少なかった。海軍士官学校の校長として人材養成の方に注力してたし、セレンローリが慣れない船の上で甲斐甲斐しく世話してくれるのが心苦しく思うから。しかし二年前からザンミアルとの関係が急激に悪化し、北の国境でも帝国の不穏な動きを察知したから、私も参加のより実戦的な訓練を実施すると決めた。


 よく勘違いされるけど、私の新時代海軍は別に悪天候に強いわけでは無い。天候予測の結果を広く共有し、風向きに関係なく動ける魔導スクリュー推進だから、悪天候を回避するのが非常に上手なだけ。しかし戦争となると、ある程度荒れた海での行動も想定しなければならない。特にザンミアルが相手なら、安定性抜群のジーカスト艦の強みを活かして悪天候の海で挑んでくる可能性が高い。あの日はちょうど、そんな穏やかじゃない海での演習だった。気球班の様子を見るために私が甲板に出ると、セレンローリは専属侍女らしくついてきた。そんなとき一瞬の大きな揺れで彼女は海に落ちて、必死に捜索したが結局見つけられなかった……


 そして私に追い撃ちをかけるように、その日の夕方、ザンミアルがカリスラントに宣戦布告という報せが入った。まさか本当に戦争になるなんて思わなかった。私がカリスラントの海軍を強くしたことが気に入らない、それはわかってるが、どうして私が結婚してザンミアルに行くのを待ってくれないの?そうすれば今度は私がザンミアルの方を強くするじゃないか。そもそも現在のザンミアル海軍は逆立ちしてもカリスラントに勝てないのがわかっていないのか?ザンミアルがここまで愚かとは思わなかった。


 私の専属侍女のセレンローリだけじゃない。これから大勢の人が戦争によって不幸になる。全部、海軍なんて作った私のせいだ……私はそう思わずにいられなかった。眼の前が真っ暗になって、私はそのまま気を失った。


 そう。ザンミアル=フォミン連合王国に宣戦布告され、まさにこれから戦端が開かれる大事なとき、カリスラント海軍総司令の私はメンタルブレイクしてしまった。そんな私を救ったのは、私の副官になったファルナ。しかしその方法と言うのは……その……まぁ、簡単に言えば、私の心と体をファルナの虜にした。それも無理やりに近いやり方で。


 私の意識が戻ったときもうサーリッシュナルの屋敷の中。いい加減気持ちを切り替えて、戦争のことを真面目に考えなきゃならない……頭ではわかっているのに、私はベッドの上で子供みたいに泣き続けていた。それしかできなかった。そしたら私はいきなり押し倒された。ファルナに唇を奪われ、強引に泣き止ませられた。何が起きたかまだ理解していない私に、ファルナはずっと前から私を慕っていると告白した。傷ついた私の心の隙間に入り込む形だけど、私はいやじゃなかった。彼女にこんなにも強く求められるのが、嬉しかった。


 「今度はわたくしが貴女を救って見せます」、と告げる彼女に私は抗えなかった。


 「貴女はわたくしを救ってくれましたから」、自己嫌悪に陥った私を彼女は肯定してくれたから。


 「これから貴女の不安と恐怖は全部わたくしが引き受けます」、そんな甘美な言葉を囁かれると、私が拒めるはずがなかった。


 「もし私が間違いを犯しそうになったら、あなたは私を止めてくれる?」、と弱々しく問う私に、彼女は二つ返事で承諾した。


 今思い返せば、あのときの私はきっと自分のことが怖くなったんだろう。自分が持つ力が大きすぎると気づいた私は、もう昔のように無邪気でいられない。私が作り上げた新時代海軍、それは私個人だけの力ではないが、みんなは私を信頼しすぎている。一部では私のことを神格化するような感じにまで。今なら、もし私が今すぐ王位が欲しいと宣言したら間違いなくクーデターが起きる。そして領土拡大したいと言ったらどんな国が相手でもみんなは死力を尽くして戦う。私と共に行けばどんな困難でも乗り越えられると信じているから。本当の私は、そんな立派な人間じゃないのに……もし私が間違った道を進むと、先の戦争よりもっと大きな、想像を絶する惨劇を引き起こしてしまう……それが怖くて、押しつぶされそうになった。


 私のことをよく見ているファルナだから、私自身以上に私のことを理解してくれた。私が何を恐れて、そしてどうすれば私を安心させることができるのをきちんと把握している。そんなファルナに身を任せれば、すべてがうまくいくような気がする……今思えば、それはただ自分が楽になりたいだけの、無責任で最低な行い。でもあのときはそうするしかなかった。でないと私の心は壊れたんだろう。


 翌日、私はファルナに言われた通り早速復帰してちゃんと指揮を執るようにした。艦隊を動かして、ザンミアルを一刻も早く叩き潰す――それが私のやるべきことだった。毎日が忙しくて余計なことを考えなくて済むのが良かった。同時に私は流されるままファルナと恋人同士になった。みんな戦争のことでいっぱいいっぱいだから最初は誰も気づかなかった。でも私たちは別に隠しているわけでもないから、戦争が終盤に入る頃、私たちの関係は周知の事実となった。


 今ではみんなは私を同性愛者だと思ってる。私とファルナ実はもっと前からこっそり付き合ってたんじゃないかと疑う人もいる。ザンミアル王太子と結婚することがなくなって良かったね、と言われたこともある。本当は違うけど、みんなの勘違いを解くのは大変そうだし、実害がないから放置している。


 ファルナと付き合うまで、実は私は恋をしたことがない。かっこいい男性を見かけて初恋っぽい感情が湧き上がることは何度かあったが、私にはもう婚約者がいるし、海軍のことで大忙しだから、そんな無益な感情をすぐに頭の中から追い出した。私は多分、自分と同性の人が恋愛対象というわけではなく、ただファルナ一人が好きになっただけ。おそらくファルナも同じ。だってファルナが他の女性に心惹かれるのを見たことがない。いつも私だけを見ている。


 私は時々不安になる。ファルナがそばにいてくれて私はとても嬉しい。でもファルナにとってそれが一番の幸せなのか?私しか見ていないから自分の本当の望みから目を背けたんじゃないか?私のために本当にしたいことを我慢しているじゃないか?


「ねぇ、ファルナ……本当にいいの?私と一緒に探検に行くの……」


 探検なんて、私のわがままにすぎない。もしファルナに他にやりたいことがあるのに、私のわがままにつきあわされているなら……悲しいけど、私が解放してあげないと。


「その質問、何度しても飽きませんね」


「だって、出世するなら、きっと国内に留まったほうがいいよ?ファルナなら、順当にいけばそう遠くないうちに海軍の頂点に立つことも、」


「そんなもの、アンネ様とともにいる時間と比べると、なんの意味もありません」


 嬉しいこと言われて、思わずファルナの手を握っちゃった。馬車の予定の時間まで私たちはまったりな一時を過ごした。

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