ある俊逸の極点
蒔田直
無題
冬の森の散策を決めたのは出来心だった。
特に鍛錬を積んでいるわけでも無いのに、己の体力は底無しで限界を確かめてみたかった。己をこれ以上無く追い込みたかったのだ。
日の出と共に歩き出したのに、今はもう夜だ。日の入りからも大分経ってしまっている。月すら無い夜はひどく寒々としていた。
(この呪いじみた体力は一体どこからわくのか)
戦争があるわけでも無ければ経済的に困窮しているわけでも無い安定した国だ。無用の長物としか言えない自分の能力を持て余しながら生きてきた。功名心が、自己顕示欲が、愛する存在があれば良かった。何かをよすがに生を謳歌する人々は美しいと己は思う。
私は、生きる理由が欲しい。
いくら周りに持て囃されようと結局はそれに尽きた。なまじっか優秀であったため誤解されてきたが、己は誰かを導くようなことは苦手で、むしろ仕える側だという自負がある。
主人が欲しい。王のような万人の守護者では無く、私だけの主人をどうか。
冬の森を休憩も無しに半日以上歩き回ったお陰か、やっと底無しの体力に陰りが見えてきた。
ああこれが己の地金か。主を求める亡霊。それこそが己の真実。
適当な常緑の木の幹に背を預けうずくまる。歩みを止めればたちまち寒さが地面から擦り寄ってくる。
数時間前から続く空腹も相俟って身体はどんどん冷えていく。糧食の持ち合わせもなく、熱を生み出すことができない。
(夜明けまであとどれくらいだろうか)
新月の夜は時間が測りにくい。日が昇れば持ち直すだろうが、それまで己の身体は保つのだろうか。
そんな益体も無いことを考えていると、幾程経ったのだろうかほのかな灯りが近づいてきた。ランプの灯だ。
「そこで死なれると、困るわ」
華奢な女性だ。背丈はやや高いが、冬用の外套の上からでも見て取れるほどの柳腰だ。
ランプの薄明かりに、一瞬だけ顔が照らされる。夜闇の中、分かるわけも無いのにオレンジの光の奥に薔薇色の瞳を幻視した。
このような冬の森に何故。
「夏は死体が腐りやすいけど、その分早く土に還ってくれる。冬は駄目ね。氷室みたいにかたちを残してしまって、獣も巣に篭もっているから肉が春まで消えやしない」
不思議な人だ。生きている人間の前でその人が肉になった後の話をする。
「死にはしませんよ。お嬢さんはご存知ないかもしれませんが、私は頑丈なことで有名なんです」
それ以外のことも有名ではあるが。
「あらそう。でも、いくら頑丈でも知らないことはあるのね。――人は生きていても腐るの」
そう言って彼女は私の手をひいた。
左手にはランプを、右手には私の手を携えて彼女は進んでいく。
目標も無い冬の森を迷わずに、ただ真っ直ぐに。
己がうずくまっていた常緑の木は、幾多の木に紛れ分からなくなってしまった。
「王よ。何故私と愛しき人の婚姻を認めてくださらないのです!」
王宮の一角、王の執務室で忠臣たるヘデラ・アイビーは王に詰め寄っていた。
「私が二十三、愛しき人はこの春に二十歳を迎えました。あとは教会か王の判を頂くだけ! 以前教会と事を構えてしまいましたので貴方に判を押して頂くのが手っ取り早い!! さあ、さあ!」
「そもそもこの話が初耳であるし、近付けすぎて紙も見えんわ! 愚か者!」
平素であれば冷静沈着の切れ者たる男の取り乱しように王も半ば混乱していた。
ちなみに結婚の承認は国王の仕事ではあるが、教会が代行を行えるので大抵の国民は教会に届けを出す。
「私は愛しい人と一刻も早く結婚したいんですよ! この世に私以外の生き物が彼女と婚姻できるという可能性を一瞬でも早く潰したい! 外聞を気にすることなく屋敷で帰りを待って頂きたい!」
「お前、そんな性格だったか?」
学院を優秀な成績で卒業したヘデラ・アイビーは仕官することは早々に決まったが、優秀すぎたために配置される部署には熟考を要した。
経理をさせれば誰よりも早く仕事を終える上にミスは無く、剣を握らせれば打ち込まれた鎧がひしゃげる。試しに閑職とも言える倉庫番に回してみればそこから物流を読み取り、先物取引まで開始する常軌を逸した人物である。
そのような才を持て余しながら人付き合いは悪く、同期との付き合いは絶無。騒がしき騎士団長子息にはよく剣の打ち合いを要求されているが、無視が常である。
たまに上官からの取りなしで応じることもあるが、大抵一刀のもとに斬り捨てている。
「私は私の情動を愛しき人にのみ傾けていたいので」
「よくその女性と付き合えたな」
「私たちの出会いから聞かせましょうか。あれは五年前の凍てつくような冬の日……」
「早急にやめてくれ」
「承知しました」
王も四十を過ぎた己と図体のデカい臣下と二人で色恋の話に興じるのはご免であった。
「結婚はかまわんが、どこの家の令嬢だ」
早急に恋の話を散らすべく王は話を本筋に戻した。切り替えの早さも王として重要な資質である。
「令嬢ではありませんね。貴族の血は引いておりますが、認知されておりません」
「は?」
「問題は無いはずですよ。我が国の法律で貴族と非嫡出子の婚姻は禁止されておりません」
「想定されていないからな……」
いけしゃあしゃあと話を進める忠臣に頭が茹だりそうだった。
「婚姻後の社交は私が行います。愛しき人を有象無象の目に曝したくない」
「どこまでも素直だなお前」
思えば今まで仕事に忠実だったのもこの婚姻を成立させるためだったのかもしれない。
「……書類の受理はこちらで行うが、次の夜会でご令嬢を伴いなさい。それをデビュタント代わりとする」
あまりに年若い令嬢を本意でない結婚から守るため、貴族法では社交界デビュー後の婚姻が推奨されている。
「では王よ……!」
「元々反対するような理由が無い」
(せめて忠実な仕事には誠実に向き合いたい)
若くして国にその身を奉じるヘデラとその恋人に報うことができる数少ない機会だ。
「認知されていないのなら、相手の方の代表はどうする」
「父君には私から話を通しています。家名を正式に名乗らせることはないが、親であることは間違いないと」
「そこまで言って何故認知しない」
「貴族であることが幸福の第一条件では無いのだと仰っておりました」
「父親が大体分かってきたぞ」
表情が一かけらも変わらないこの国の宰相である。平素が鉄面皮であるところは義理の親子同士で似ていなくもない。
「そして外にも子供居たんだな」
「義父上は来る者拒まずですので。養育費はそれぞれ充分な額を払っているようです。帳簿を見せて頂きました」
「食事会もしてるな。その親密度」
「伯爵家のシェフはとても腕が良かったです」
「宰相の家の料理人だからな。王宮でも昔腕を振るっていた」
「成る程道理で」
貴族の勢力図が一日で変わりそうだが王は考えることをやめた。
逃げでは無い。大嵐の前にいくら櫓を組もうとも無駄であり、心の安寧を保ち続けることこそが生き残る術と心得ていたからである。
ヘデラは馬を走らせていた。
はやく、はやく。あの人の元へ。
麗しき人、賢き人。いと貴き至上の人よ。
常緑の森の小道を抜け、鬱蒼と低木の生える庭園に出る。庭の土を傷つけないように歩みを緩めながら更に進んでいけば、森の外からは決して見えない石造りの屋敷がそびえ立つ。
小さな厩舎に馬を繋いでやり、水を汲んで飼い葉を与える。ここまで随分急がせてしまった。せめて明日の朝まではゆっくりと身体を休めて欲しい。
ドアノッカーを叩き、しばし待つ。屋敷の奥から鈴の音が聞こえてくればいよいよドアを開け中に足を踏み入れる。二階へと続く階段には目もくれず、北の小部屋に歩を進める。
窓すら無く家具も何も置かれていない部屋には地下に続く階段だけがある。
逸る気持ちを抑えゆっくりと階段を下る。以前勢いが付きすぎて転がり落ちるように彼女の前に現れて見せたときはひどく叱られたものだ。
(呆れた顔すら美しかったな)
手摺りの位置は些か自分には低く、右手を壁に当てる。何も飾られていない味気の無い壁。彼女の許に続くというだけでその価値は跳ね上がるが。
「ヘデラ」
闇の中から声が聞こえる。
一般的に好まれる、鈴を転がすような声では無い。聞くものによっては不安を覚えることもあるだろう、夜鳥の響き。
「ただいま戻りました。アルテア」
揺り椅子に腰掛けていた彼女の足元に跪く。
陽の光に弱い彼女はいつもこうして屋敷の地下で過ごしている。
「王に結婚の私たちの結婚の話を持ちかけました。後は夜会の日に義父上と私の父の日程を合わせて、一晩我慢すればその日から我々は夫婦です」
「そう」
嘆息に乗せた音すら美しい。なんと言うことだ。暖炉の火に白き手が照らされる。名工の作り出した大理石の彫像もかくやというべきか。
「……忙しき王に話を持ち掛けずとも、教会に書類を提出すれば夜会の準備だけだったのに」
「あなたを化け物と呼んだんですよ。あの司祭は」
美しき薔薇色の瞳を、月白の肌を。
無知蒙昧の輩。あの日は確か近くで祭があったのだ。一度も訪れたことが無いと彼女が言ったから、ものは試しにと訪れた。領民達は珍しい客であった私たちを快く招き入れ、私にはエールを、彼女には果実水を振る舞ってくれた。よき夜、よき思い出だった。
それを穢したのは私の父と年も変わらぬような男だった。奴は言ったのだ。ただ一言、”化け物”と。
最初は誰に言っているのかが分からなかった。辺りを見渡して、傍らの愛しい人が瞳を伏せたのを見てやっと理解した。
傷付けられたのなら傷付け返さなくては。
その理屈で胸ぐらを掴んで揺すってやれば周りの人々から止められる。聞けばこの男は近くの教会の司祭なのだという。
”誰の目から見てもどちらが悪いかは分かりきってる。だが、そいつにあること無いこと領主さまや中央の教会に吹き込まれちゃあ俺らの生活が成り立たん”
領地において、人々が第一に仰ぐのは領主だ。だが、生活に強く結びつき規範を示すのは宗教だ。
――規範? 二十にも満たぬ少女を化け物呼ばわりする男の示す規範?
胸ぐらを掴まれながら、男は息も絶え絶えに自らの正当性を主張した。
曰く、主の恵の最たる光を受け付けられぬ悪しき瞳と肌である。主はその聖なる光で以て不浄を清めるのだと。
馬鹿げている。神学校には通わなかったのかこの司祭は。
神に与えられしそれぞれの肉体を愚弄し、差別を行うことこそ最たる禁忌だ。
納得はいかなかったが、このよき日にこれ以上愚物にかかずらっていたくもない。報復は改めて行うことにし、愛しきアルテアを連れ、その日は宴の場を去った。
その日から怒りが消えることはなかった。
「あのような男が全てではないと分かっています。多くの聖職者は尊敬のできる御仁です」
「つまりは、慶事に思い出したくもないことがさし挟まらないように、とのことでしょう」
「ええ、ええ。その通りです。愛しき人」
「……いい加減わたくしをひとかどの姫のように扱うのをおやめください。ご存知でしょうけど、あなたが持ち上げるほど大層なものではないのですよ、ヘデラ」
「胡椒の粒と砂金が釣り合う天秤がこの世にはあるのです。私から見たアルテアとあなたから見たアルテア。価値に違いがあることはご理解ください」
話はこれくらいにして、ともに夕食を摂りましょう。
そう続ければ彼女は諦めたように目を伏せ、嘆息した。
「義父上や我が父に送る書状を考えるのは明日の朝です。ドレスのこともあります。これから忙しくなりますよ」
なにせ結婚だ。やるべきことは山のようにあるのだから!
その日の夜会はある話題で持ちきりだった。
あのヘデラ・アイビーが結婚相手を伴って出席するらしい。
優秀ではあるが人付き合いが希薄なあの男が結婚を。しかも相手は貴族の庶子で政略結婚ではないらしい。
ヘデラに執心している騎士団長子息が嗅ぎまわって発覚したことだ。当の本人はパートナーも連れずに出入り口を睨みつけていた。
宴もたけなわを過ぎた頃、ようやく件の二人が夜会に現れた。
令嬢にとってはデビュタントにあたるということもあって、華やかな装いで参加することが予想されたが、その予想は裏切られた。
黒と深紅で彩られ、バッスルを用い大輪の薔薇を想起させるドレス。スカートの膨らみとは対照的に上半身は体の線に沿い、胸元の開いたタイトなデザインは一歩間違えば品の無いものだが、二の腕までを覆うグローブと肩にかけられたベールが貞淑さを示す、バランス感覚のとれたものだった。
両名は会場中の視線を意に介さず王の座す許へと歩んでいく。
あのヘデラが微笑みながら令嬢の腰を抱いていたことでわずかなざわめきが生まれる。トークハットで令嬢の顔のつくりを窺うことはできないが、わずかに覗く鼻梁が得体の知れぬ美しさを生み出していた。
「王の御名においてそなたらの道行きに幸多からんことを」
王からの言を受け取り、御前を辞す姿はとても貴族位を持たぬ者とは思えぬほどだった。
よどみない歩みが祭祀を想起させ、身じろぎすらためらわせる。
「ご両人! 待ちなさい!!」
巨匠の生み出す絵画もかくやの光景に無粋な声が差し挟まる。
「ヘデラ・アイビーの友人たるこの私が一切結婚の話を聞いていないのですが!?」
シャンデリア以上に光り輝く金の髪、騎士服に見合った体格の良さはあるがいささか見掛け倒しの感がある筋肉。
騎士団長子息、カリス・ゴールディンである。
アルテアは突然の闖入者に気を悪くすることもなく、傍らの恋人に声をかけた。
「ヘデラ。友人がウェルナイン卿以外にもいるならきちんと紹介して頂戴」
「いや、私にセドリック以外の友はいませんが」
セドリック・ウェルナイン。ヘデラに負けず劣らずの変人で現在は北部の視察に赴いており、今夜の夜会には不在である。
「では何、あの方はあなたを一方的に友人と思い込んでいるということ?――そんな奇特な人、いるわけないでしょう」
もっともな話ではあったがカリス・ゴールディンはその奇特な人間だった。
「私の夢である、妹のキャロンとヘデラが結ばれ義兄になるという夢はどうなるんですか!」
「!? 誤解ですアルテアさま!」
突然矢面に立たされたキャロンが涙目で否定する。
「何を言うんだ。お前だって度々ヘデラに会いに私の外出についてきていたじゃないか」
「目的が違うんです! とにかく誤解ですので、お二人に謝ってください!」
哀れなキャロンは両の脚で立っているのも限界といった風情で必死に己の兄に言い募る。
自然と周囲には空間ができ、うら若き男女二組を興味も隠さずに眺めている。最近は目立ったスキャンダルもなく、噂雀がさえずる歌を探していたのだ。
さて、どんな話を聞かせてくれるのか。以前からカリスのヘデラに対する執心は有名だったが妹もだったのだろうか。それとも誤解の内容をつまびらかにするのか。
「――キャロン、こっちにいらっしゃい」
たった一言が会場の空気を変える。卑陋じみた空気を霧散させる夜烏のしらべ。
狼狽えていたキャロンもゆっくりと兄との距離を取る。
「……私の愛しき人、本当に素晴らしいな」
「ヘデラ?」
渦中の人間であるはずだがヘデラは相変わらずだった。
「……お友達でない方。キャロンには別に想い人がおりますの。ですので、諦めてくださいな」
優美な立ち振る舞いに反した童女を思わせる語り口。艶やかな肢体にはあまりに不釣り合いな筈なのに、無作法を咎めることが許されない天性の特恵。
「素敵な恋の御話なの。どうか意地悪をなさらないで?」
愛で命を宿した大理石の彫像のように、偏屈な職人が作り上げた絡繰人形のようにアルテアは振舞う。
「……そもそもキャロン殿は想い人宛の手紙を私に預けていただけだ。目の前にいた貴公が何故そのような思い違いをしたか、興味はないが以後気を付けてほしい」
色のない声音。熱を持たぬガラスの眼。
平素たるヘデラ・アイビーを構成するものが徐々に戻りつつあった。
「っ! 君は騙されている! そんな娼婦のような女ではなく、君にはもっと相応しい身分のある令嬢を……」
「今、何を言った」
両者の間にあった距離は瞬きの間に詰まる。
「私は、春をひさぐ職を軽蔑したことはない。だが、貴様は違う」
カリスの頭にヘデラの指が這っていく。獲物を見つけた鎖蛇が狙いを定めたように明確な害意が金の髪に絡みつく。
「彼女を蔑する意図を伴った言葉を黙殺するほど腑抜けではないぞ私は」
みしりみしり、頭蓋が音を立てる。
「このまま持ち上げて吊るし台まで引き回そう。貴様は知らないだろうが、私は頑丈なんだ」
常軌を逸した振舞いを止めるものはいない。王も取り押さえに向かおうとした近衛を止めた。
ヘデラ・アイビーを止められるものなど、この国にはいないからだ。
「ヘデラ」
夜闇の中で薫り立つ薔薇。いつか男は女をそう例えた。
「……夜会を邪魔してしまってごめんなさいね。私たち、これでお暇させていただきますわ」
中断された歩みを再開する。それだけで数瞬前の悶着が立ち消えたようだった。
「ああキャロン。落ち着いたら一緒にお茶でも飲みましょう。その時は北風と一緒にあなたの恋の相手をお連れになって?」
トークハットに隠された双眸が細められたことを隣の男だけが心得て夜の女神は姿を消した。
消えぬ香りをその日に残したままに。
夜会の会場を後にした二人は馬車乗り場には向かわなかった。
「少し王城を歩きませんか。人も少ないですし」
「ええ。構いません」
このような機会は滅多に無いと理解してのことだった。
アルテアの薔薇色の瞳は光に弱い。太陽に弱いことはもちろんだが、舞踏会に使われるような強い光も繊細に感じ取ってしまうのだ。
だから彼女は社交ができない。昼日中の庭園での茶会も、きらびやかな夜会も彼女には毒なのだ。
「ヘデラ、苦労をかけます」
「それが苦労だとは私には思えません」
実際、屋敷に居て欲しいのはヘデラの偽らざる本音だ。
「まったくあなたったら、とんでもない女に捉まってしまって」
「あなたこそ、あんな冬の日に森を歩いていたから私のような者に絡め取られたのですよ」
新月の冬の日。伯爵領の冬の森を歩くような女性は彼女くらいだろう。
「月も無い夜にランプで照らして、見つけたのはわたくしですよ」
いたずらに彼女が笑う。平素の凜然とした、玻璃の中に閉じ込めた薔薇のように美しい彼女も素晴らしいが、八重咲きの花が綻ぶような様もまた美しいとヘデラは感じた。
ああ、今日はよき日だ。
「結局似たもの同士なんですよ。我々は」
できるだけ人に会わぬように、と道を進んでいけば城の中庭に出た。常であれば侍女や使用人の話し声が響いているのだろうが、夜会の給仕に追われているのか人影はない。
星明かりがほのかにアルテアの白き肌を照らす。今夜は新月だ。
軽く辺りを見渡し、人気が無いことを確認しアルテアが口を開く。
「……今なら分かっているでしょうけど、五年前のあなた」
「ええ、分かっています」
あれは、無意識下で選択した自死だった。
生きるという意思を持てないものは、この世によすがの無きものは実に呆気なく生を手放してしまうときがあるのだ。
「空虚は人を殺す。あなたはそのことが理解できる人でした」
「あの時はそんなこと考えていなかったわ。本当に屋敷の近くで死なれたら迷惑だと心底思ったの」
伯爵領の森の中で侯爵家の三男が変わり果てた姿で発見されては、さぞやセンセーショナルな噂が流布したことであろう。
「まったくその通りです」
「でも、あなた存外かわいらしいところがあって、屋敷から出られないわたくしを可哀想だとは言わなかったの」
「そしてあなたは私を特別な存在として遇さなかった」
お互いそのことにどうしようも無く救われてしまった。
あの日あの場所にいたのが別の人物だったら、その人に救われたのかもしれない。でもあの月の無い冬の森で出逢ったのは自分達だ。
「私の心臓、私の月光、私の最愛の紅き薔薇よ。最期のひとときまでどうか共に」
手背にひとつ、口付けを落とす。
「あら、最期まででいいの?」
「……いいえ。どうか、どうかあなたが許す限り傍に置いてください」
こいねがうように跪く。
「答えが分かりきっているのに、しょうがない人」
夜闇の中、見届け人も無く誓い合う。
永遠が欲しくて仕方の無い、甘やかな恋人たちの語らい。
星影さやかに、やわらかな風が二人の温度をさらっていく。
「帰りましょうか」
「ええ」
夜目のきくアルテアが手をひいていく。耳のいいヘデラは周囲を用心する。それが二人にとっての不文律だった。
互いを寄る辺に、心を預けて。
一人でも生きてはいけるけど、あなたとならばよりよき道を選んでいけるから。
その確信を胸に常緑の森の中、石造りの屋敷への帰路を辿る。
青葉の薫る風が強く吹いた。夏の訪れを、強く予感させる風だった。
ある俊逸の極点 蒔田直 @MakitaNao
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