///The Boogeyman One Day///

アンガス・ベーコン

紫色のハンカチ

 落とし穴にハマったら、まずは気付かなくては。

 自分は落とし穴の中にいて、早く脱出しなくてはいけないことに。

 最も恐ろしいのは、気付かない内に深みにハマって沈んでいくこと。

 落とし穴には獲物に罠だと気付かれないよう詐欺師に細工されているものがある。

 特に、トウキョウ市にはその手の落とし穴が数多く仕掛けられているのだ。

 トウキョウ市在住の女子高生クレアは、もう手遅れなところまで深みにハマっていた。

 クレアは本性を露わにしたモーリス先輩を横目で見上げる。

 その目つきは朗らかで爽やかないつもの先輩ではなくて、捕らえた羊をどうやって弄んで解体しようか考えている捕食者の目つきだった。

 クレアはようやく現実味のない絶望的な状況を飲み込み、声にならない嗚咽を漏らす。

「うぅ……」

 クレアは今、スポーツカーの後部座席に乗って高速道路を走っている。

 口はテープで塞がれており、手首と足首は結束バンドで拘束されていて身動きが取れない。

 ことの発端は、憧れのモーリス先輩からカジュアル・カジノで遊ぼうと声をかけられたことだった。

 舞い上がったクレアは一生懸命お洒落をして、ウッキウキで約束の店に向かった。

 カジノで一緒に遊ぶのは夢のようで、憧れの人とデートをしているみたいで楽しかった。まさに天国にいる気分だった。

 だが、モーリス先輩が奢ってくれたジュースを口にした途端、地獄に落ちた。

 意識を取り戻した頃にはもう、クレアは落とし穴の底に――車の中にいた。

「うぅ……ぅ……」

 クレアの声に気付いたモーリスは、後部座席で横になっている彼女に微笑みかける。

 モーリスは目もとを半月状に歪めた。

「もうすぐだよ。もうすぐ到着する。もうすぐ怖いとか悲しいとか、痛いとか気持ち悪いとか、全部分からなくなるから」

 モーリスは視線を前に戻してハンドルを切り、高速道路を出た。

 次第に風景から極彩色の街明かりや都市の喧騒が消えていく。

 そうして郊外の最奥へと突き進む内に、モーリスは上機嫌になって鼻歌を奏でた。まるで罠にかかった獲物を隠れ家まで運んでいく狩人のように。

「ふーーん……ふんふーん。ふんふんふーん……」

 だが、車の前方に人影が現れた瞬間、鼻歌が止まった。

「ん……?」

 モーリスは目を見開いて前屈みになる。

 モーリスの視線の先、車のヘッドライトに照らされた人影の正体は、黒尽くめの大男。

 漆黒のフルフェイス・ヘルメットと、黒いダブル・レザージャケットを着ている恰幅のいい大男だ。

 大男は微動だにせず、車を避けようとする気配がない。

 モーリスは舌打ちした。

「チッ……邪魔だなぁ。こういうことがあると萎える」

 モーリスも大男を避けようとせず、むしろアクセルを踏み込む。

 車は大きな駆動音を唸らせ、一気に速度を上げた。

 大男の姿が猛烈な勢いでフロントガラスに切迫し、車と大男は衝突する。

 大男の身体はくの字に折れ曲がり、ボンネットの上に叩きつけられた。そしてキリモミ回転しながら車の天井へ転がっていく。

 大男のフルフェイス・ヘルメットがフロントガラスにぶつかって亀裂が走った。

 モーリスはうんざりして顔をしかめる。

「あ〜あ……修理代、幾らになるかな」

 モーリスが嘆いた途端、ガコンという異音がした。

 そして車の左前が低くなって車体が勢いよく地面と擦れる。激しい火花が散った。

 さらにガコン。次は右前が低くなって火花を散らす。

 モーリスは唖然として眉を潜めた。

「は……?」

 さらにガコン、ガコン。

 今度は後ろ側も低くなって、車全体が地面と擦れる。ギャリギャリギャリ、ギャリギャリギャリと勢いよく火花を上げて、遂に車は停止した。

 モーリスは意味不明すぎて口を開けたまま膠着する。彼が辛うじて把握できたのは、タイヤが外れたということだけだった。

「なんで……?」

 モーリスが呟くと、黒尽くめの大男が視界の左側から車の前に現れる。

 大男は、モーリスの車についていたはずのタイヤを持っていた。

 力尽くでタイヤを全て外したのだ。

 大男の右腕は明後日の方向にねじ曲がっているというのに、ねじれた腕の先にある右手で、タイヤを持ち上げている。

「な、なんだ……コイツ……」

 モーリスの頬に冷や汗が流れた。

 彼の順風満帆な人生の中で、初めての恐怖。初めての緊迫感。

 彼は腰から拳銃を引き抜いて大男に標準を合わせる。

 一方、大男はねじ曲がった右腕を上げて、タイヤを振りかぶっていた。

 バリーーン! ガシャーーン!

 モーリスが引き金を引く間もなく、大男が投げたタイヤはモーリスの顔をペシャンコにする。

 彼は何が起きたのか理解する間もなく、衝撃で気を失った。ガラスが勢いを殺したこともあって、一応死んではいない。

 大男はベキボギ、バキゴキと音を鳴らして右腕の関節や向きを直す。そして車に近付いて後部座席を開けた。

 そこには、恐怖のあまり涙を流すクレアの姿。

「うぅ〜! うーーー! う〜!」

 大男はフルフェイス・ヘルメットの通信機能を起動して、協力者の警察に連絡する。

 通信を終えた大男は、クレアの口を塞ぐテープを優しく剥がして屈み込んだ。

 クレアはようやく息ができるようになって咳き込む。

「ゲホ、ごほ……ごほごほ」

 大男はクレアの様態を確認し、懐からバタフライ・ナイフを取り出した。

 不気味な存在でありながら、大男は紳士的な声でクレアを落ち着かせようとする。

「大きな怪我はないようですね。拘束を解きますから、じっとしていて」

 大男は鮮やかな手つきで結束バンドを切断し、クレアの涙を紫色のハンカチで拭う。

 クレアはわけが分からず、また大粒の涙を流した。

 大男はクレアの手元にそっとハンカチを添えて立ち上がる。

「すぐに信頼できるトウキョウ市警があなたを保護しにやってきます。もう大丈夫です」

「ぅ……うぅ……あ、あなた……なんなの?」

「俺は、通りすがりのライダーですよ」

「どうして……助けてくれたの?」

 大男は少し考えてから答えた。

「妙な車だと思って……特に深い意味はありません」

「……そうなの?」

「ええ。強いて言うなら、この街には手を差し伸べてくれる人もいる……そう誰かに伝えたくてね」

 やがてパトカーのサイレンと赤い光が遠くから近づいてくる。

 大男は別れ際に、クレアの目をじっと見つめた。

「君がどうして連れ去られたのか、俺は知らないけれど……きっと、とても怖い思いをしたと思う。でも、どうか、全ての人を怖がらないで欲しい。人を信じることを恐れないで欲しい。俺も人に救われて今があるから……だからあなたも、人を信じる勇気を持って生きていてほしい」

「え……? えっと、あなたは……」

 大男は颯爽とクレアに背を向けて、暗闇の中に姿を消す。

 大男の存在は、まるで夢か幻のようだった。その場に残った彼の名残は、紫色のハンカチのみ。

 事件から数週間が経ち、クレアは事件が起きる前と同じ平穏な日常を過ごす。

 退屈な日々といえばそうかもしれないが、事件が起きる前と大きく違うところがあった。クレア自身だ。

 彼女は今も紫色のハンカチを持ち歩いている。いつでも持ち主に返せるように。

 そしてハンカチを返すとき、こう伝えると決めているのだ。

「助けてくれてありがとう。私、人を信じるのは怖くないよ。あなたのお陰でね」

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