第4話 恋しくて
「あんた、あの時の高校生か」
運転手は、バックミラーを見る時間が長かった。
その時間が判断を鈍らせ、山側のフェンスが途切れたことに気が付かない。
男は自分の座席に戻り、リュックを開いた。
中には金属製の筒が二つ。黒い線を抜くと、リュックの上に覆いかぶさる。
あゆみは子供を抱きしめ、僕は支笏湖を眺めた。
運転手が視線を戻すと、見えたのは
「間に合わない!」
運転手が雄鹿を
しかし、子鹿を轢けない覚悟は数秒だった。
運転手は、小鹿を避けハンドルを切る。雄鹿との衝突でフロントガラスが割れ、運転手はハンドルを戻せない。崖に向かって角度を変えた車体が、ガードレールを突き破った。
ねえ、あゆみ?
君の言葉で、二次被害は防げた。
あのリュックは不発だった。
しかし、素人が作った物だけに解除は
不用意に誰かが触り、堪えていた火薬が息を吹き返すこともある。
処理ができるのは、知識を持った人間だけだ。
2Bの席にはリュックが残され、男の姿が消えている。彼はこれからも生きて、罪を償わなければならない。でも、昨日までの彼の苦悩を誰かが代弁してくれる。
あれは、事故だ。
それも不運が重なった、悲しい事故だった。
あゆみは、ちゃんと伝えられる?
「亮――――!」
あゆみの姿は、またスローモーションだ。
そのおかげで、もう一度、あゆみの姿を焼き付けられる。
胸に抱いた女の子の頭を守り、座席下で横転に耐える。
あゆみ……
僕の声は、もう聞こえないね。
いつか、涙が乾いたら、笑っておくれよ。
僕は、笑ったえくぼが好きだ。
「亮――――!」
ごめんね。もう、君から僕は見えない。
伝える言葉を、伝えるべき人に渡して欲しい。
◇
「和久井あゆみさん。聞こえますか? ここは病院ですよ」
看護師はモニターチェックをして、ナースコールを押した。
「先生、和久井さんの意識が戻りました」
あゆみは三日、目を開けなかった。
事故の世界を旅して、泣いて戻っては、また旅に出る。
あゆみの意思じゃない。引き止めたのは僕等だ。
生死を彷徨うあゆみじゃないと、僕等の話は聞けない。
何度も悲しい体験をさせた。
ごめんね。君に伝言を頼んだから、彼らは眠ったよ。
もう、大丈夫。
傷は日を追うごとに、痛みが
明日は、まぶたの腫れが収まる。
あさっては、口の裂傷の痛みが楽になる。
来週には、わずらわしいチューブは無くなるさ。
やがて、窓を見て季節を感じ、匂いの感覚が戻るだろう。あゆみの細胞は、生きるために傷ついた場所を修復してくれる。
でも、心は……
「亮……」
深夜零時、あゆみが泣くと、病室の壁に背中をあずけ、僕は動けなくなる。
揺れるライトは巡回の看護師だ。あゆみの寝言を聞き、布団を直してから、あやすように手を添える。
優しい人だ……
みんな君を心配している。君の両親、兄姉、同僚に友人。そして、君が守った品のいいご家庭の女の子だ。
母親とおばあさんを失ったのに、あの子は君の無事を聞いて泣いていた。そして、あの子の父親は、一生、君に感謝をするだろう。
車内に残った荷物であの子の体を包み、君は守り抜いた。
自分の体は、窓から放り出され石に叩きつけられたのにね。
大きな事故にも関わらず、足首の骨折ですんだのは奇跡ではない。君の正しい判断だった。
ベッドの黄色い鶴は、あの子が折った。
その鶴を見て、ほんの一瞬だけど、あゆみの目に光が戻る。
でも、深夜二時
あゆみは、声をあげて
僕に会いたいって、毎夜、泣くんだ……
心の修復は、同じ細胞ではない。
心を直せるのは、時間だけだ。
僕はたくさんあるよ。いくらでもあゆみに付き合う。
僕に会いたくて、涙がかれて
僕が恋しくて、また泣いて
君が呼ぶたびに、僕は会いに来よう。
今は毎夜、やがて週に一度、そして月に一度、君が泣くたびに会いに来よう。
季節ごとに思い出すなら、会いに来よう。
いつか、僕を忘れる時間が長くなり、記念日を忘れていたことに、泣いてしまったら会いに来よう。
あゆみの声は、まだ病室に響いている。
だから、今夜もここにいる。
君が泣くから、僕は眠れない。
次回 最終話 「伝えたくて」
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