第3話 優しさの定義
「二、四、五、左肋骨損傷!」
救急隊員は胸の音を聞いたあと、右足を何度も叩いた。
「わたしの声が聞こえますか?
今、足を叩いていますよ。分かりますか?」
あゆみからのサインは、目尻を伝う涙だけだ。
あゆみの体がストレッチャーに移されると、石が赤く染まっている。あゆみから流れ出た血は砂利を伝い、恋しい男の匂いを探す。うつ伏せの体を見つけると手首を赤く染めるが、巻かれたトリアージは黒だった。
「声は出ますか? お名前は言えますか?」
ふさがれた気道から
あゆみの体は上半身がのけぞり、肺が酸素を欲しがる。救急隊員が酸素マスクを付けると、透明のマスクが一気にくもった。
「もう大丈夫ですよ。これから病院に搬送します」
手首のトリアージは赤だ。一刻も早い処置が必要だが、血で染まったあゆみの手は、救急隊員の腕をつかんだ。
「にい……びぃ、にい……の……びぃ」
「『にいのびぃ』ですか?」
「か、かやく……」
「火薬?」
「2Bの席……み、みどりのリュック……かやく、かやく――!」
伝え終わると、あゆみの右手は力をなくす。
誰が何を聞いても、答える気力はない。
意識が遠のく前にあゆみが見た物は、折れた木に揺れている紫のコートとオレンジのミサンガだった。
◇
ほら、また泣いている――
君が泣くから、僕も泣けてくるよ。
「亮……」
「もう少し話があるんだ。辛い話だけど、君じゃないと伝えられない」
「――ちゃんと聞く。だからそばにいて……」
「いるよ」
大粒の涙がこぼれる前に、僕の人差し指が涙を救う。あゆみにキスをするが、誰も気にしない。乗客は運転手の話に夢中だ。あゆみの涙が僕の頬を濡らすと、かがんだ姿勢を戻した。
「今、
六歳の「品のいい孫」が、僕の横から声を掛けてきた。
品のいい家族間では、キスは接吻と言うらしい。
手に持っているのは折り紙だ。
「一緒に、折りませんか?」
その誘いに、あゆみは困った顔をした。
「このお姉さん、鶴が得意だよ」
「亮……」
「後ろの席で、折ってあげてよ。僕はここにいるよ」
時間はあまりない。
その女の子を守れるのは、あゆみしかいない。
離すなよ。ぎゅっと抱きしめて、目をつぶっていろ……
「その高校生は、ヤングケアラーなのですか?」
黙って聞いていた「品のいいおばあさん」が、声を詰まらせた。
「客に聞いた話で俺も分かった。五年は長いな。
やせこけて、飯を食っていない感じだ」
「それでは、走る体力もないですね」
「ああ、俺も鬼じゃない。
高校生の後ろ姿が見えると、わざとゆっくりバス停に向かう」
「あなたはいい人ね」
「ただ、雨の日にかぎって、その高校生を乗せてやれない。
雪の日もそうだ。そう長くは待てないよ。
次の停留所で、別な高校生が待っているからな」
「そうですか……」
「二年前の話だが、親は亡くなった。
こっそり香典を持って行くと、あの高校生は泣いていたよ。
今は、どうしているのかな~」
左窓の景色は、ずっと支笏湖だった。
右手山側には鹿避けのフェンスがある。
運転手は、ひとつため息を吐くと山側をのぞく。緑のフェンスが途切れるたび、軽くブレーキを踏んだ。
「ごめんなさい……」
かすれた声が、僕に届いた。
背もたれをつかんだ指が、震えている。
僕が顔をのぞくと、その男は泣いていた。
ねえ、あゆみ?
優しさは、気軽に顔を出したりしない。だって、照れ屋だからね。
ただ、受け取る側に余裕がないと、照れている姿を見失ってしまう。
いつ終わるのか分からない介護で、きっと心は
鶴を折っている女の子に聞いてごらん。
「それでね~ パパは、札幌で待っているの」
「パパは、温泉に来なかったの?」
「お仕事って嘘だよ。パパは『女三世代、水入らずで、楽しんでおいで』って、
『水入らず』って、なぁに?」
娘の言葉に、母親は驚いた顔をした。
「品のいいおばあさん」は、困った顔だ。
仕事を理由に距離を置く。そんな態度の裏側にも、優しさはある。
もうすぐ日が沈む。北の夕暮れは早い。
下り坂のカーブを超えると湖は遠くなる。視界をさえぎるのは、頼りないガードレールと、崖から
「ごめんなさい。あなたを恨んでいた訳じゃない。誰でもよかった」
男の震えた声に、車内は静かになった。
「ただ、母が亡くなって、僕は…… 冷たい顔ばかり思い出して、みんな意地悪に見えて、生きているのがつらくて……」
「あんた、あの時の高校生か?」
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