第2話  霞んでゆく

「亮、すごく眠いの。寝てもいい?」

「もう少し頑張ろう」

「眠いの……」

「もう少し、一緒にいてよ」

「ん……」


 曖昧あいまいな返事をしたあゆみは、「おみかん、いかがですか?」の声で目を開けた。僕等の前の席には、「品のいいおばあさん」が座っている。薄紫と白髪のコントラストが素敵で、膝掛けにしているコートも紫だ。その前には、「品のいい娘」と「品のいい孫」が座っていた。


「いただくよ。どうもありがとう」


  僕に手渡してくれたのは、六歳の少女だ。ポニーテールの髪が揺れ、赤いリボンも揺れる。品のいい家族がくれたおみかんは、糖度十三度の品のいい甘さだ。あゆみも受け取るが意識は朦朧もうろうとしていた。



「おやおや~ 彼女はお疲れかい?」


 あゆみの背もたれから、指毛の濃い両手が出てきた。次に出てきたのは四角い顔で、覚醒したあゆみの体は窓に避難する。僕も後ろにのけぞりたいが、肘掛けしかすがりつけなかった。


「おにいさん、昨夜は頑張ったな。精力剤は、何本飲んだの?」


 ……確か二本。


「あんた、止めなさいよ!」


 僕の背もたれから顔を出したのは、これまた四角い顔をした女性だ。

 二人とも話好きなのは、目尻のしわを見れば分かる。


 結婚三十年のお祝いに、息子さんが用意した北海道旅行らしい。


 五十代の夫婦は同じ顔をして、右手にお揃いのミサンガをつけている。オレンジベースのミサンガは、息子から貰ったお守りだと言った。


 夫婦の話題は一人息子だ。

 あゆみが深くうなずくので、気分がいいのか口の滑りもいい。


 息子さんは、今年の春から社会人だ。

 自立するまで、ろくに口をきかない。

 感謝の「か」の字もない。


 大学は二十四歳で卒業した。つまり二浪か、留年……


「でも、いい息子に育った……」


 そう締めくくられると、僕は「いい息子さんですね」と言うしかなかった。




「うらやましいね~ うちの息子は、旅行に誘ってくれないな」


 会話に参戦するのは、バスのハンドルを握る運転手だ。

 この道、四十年のドライバーで、今年の春まで路線バス勤務だと言う。


「きっと愚痴ぐちがはじまるよ」

「どうして?」

「路線は大変だよ。かわいそうだから聞いてあげよう」


 僕の言葉に、あゆみはうなずいた


 バス停の予定時刻厳守、当然だが天候や交通状況で事情は変わる。一番困るのが駆け込みで、各バス停で情を見せると、苦情の電話が入るとぼやいた。


「同じバス停で、いつも走ってくる高校生がいてよ。

『もう少し早く起きろ』って、言いたいな。発車すると睨むんだよ。

 寝癖の顔で睨まれても、しょうがないよな~」


 運転手が笑うと乗客もつられたが、あゆみは笑わなかった。


 あゆみが気にしているのは、運転席の二つ後ろに座る男だ。

 座席番号は2Bで、僕等の斜め前だ。


 窓際に置いてあるのは緑のリュックで、ファスナーの開閉がせわしない。車内の笑い声が大きくなると男は運転手の背中を眺め、前の座席を蹴っていた。


「ねえ、亮。あの人、怖い……」


 男が立ち上がると、あゆみは視線を外す。


 男は黒いパーカー姿で、目深まぶかに帽子をかぶっている。顔は青白く、年の頃は二十歳前後、リュックを置いたまま後部座席を目指すが、バスの揺れで背もたれをつかんだ。


「お客さん、カーブが多いから、座って下さいよ」


 運転手の声に、男からの返事はない。

 ふり返った顔は目つきが鋭く、睨むのは運転手の背中だ。

 そして、男から漂うのは鼻につんと感じる匂いだった。


 ねえ、あゆみ?


 人は、どこで誰に恨みを買うかなんて、分かるはずはないよね。

 一年、三六五日、そのほとんどを優しい人間で過ごしたとしても、冷たい顔を見せた一日を相手は忘れない。


「ねえ、亮……?」

「ここにいるよ」


 僕は、あゆみに笑いかけた。


「あの男の人って、夏の匂いがしない?」

「夏?」

「思い出してよ。河川敷と同じ匂いだ」

「――花火」

「そう、二人で見たね」


 僕の言葉であゆみの顔つきが変わる。人で込み合う河川敷で、僕らが腰をおろせた場所は、尺玉しゃくだまの置き場近くだ。記憶をたどり、あゆみの黒目が揺れた。


「これって…… 火薬、火薬のにおい」


 あゆみの青ざめた顔は、輪郭りんかくが曖昧だ。やがて、水分をたくわえた霧が足元を覆い、あゆみの姿がぼやけてくる。透明な空気に白を一滴落とした物が、渦になってあゆみにまとわりついていた。


 僕は見逃さないよ。

 何度でも、あゆみの姿を目に焼き付ける。


 形のいいふくらはぎ、僕を惑わす腰のライン。何度もキスをした胸、僕を抱きしめる腕と細い指。つやのある髪、色白の頬、そして僕の大好きな目だ。


「亮?」

 その声は聞こえた。

「あゆみ」

 僕の声は、きっと聞こえない。


 伝える言葉は知っているね? さあ、戻る時間だ。


 痛みと戦え! 生きている証拠だ!



          ◇


「二十代女性発見、意識あり! こっちにもケガ人がいるの。

 ストレッチャーをまわして!」


 あゆみの手首をつかみ、脈を取っているのは救急隊員だ。服の上から脇腹に手を添え、探っていた。


「二、四、五、左肋骨ろっこつ損傷!」

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