どちらが本当の自分か

三鹿ショート

どちらが本当の自分か

 彼女の姿を最後に目にしたのは、学校の卒業式だった。

 私とは異なり、友人が多い彼女と会話をする時間は皆無だったために、私は誰よりも早く帰宅した。

 それから数年後、彼女から結婚をするという手紙が届いたが、私は返事をすることもなく、そのまま塵箱に捨てた。

 わずかな期間とはいえ、彼女と共に恋人として過ごした時間はかけがえのないものであり、今でも忘れることができない。

 だが、彼女はそうではなかった。

 現に、私以外の人間と結婚するのだ。

 彼女が他の男性と身体を重ねる姿を想像してしまい、私は唇を噛んだ。

 しかし、妄想の中の彼女は乱れた姿も美しかったために、己の一部分が隆起してしまい、私は自身を慰めた。

 その行為が、私をさらに惨めにした。


***


 居間で私の母親と談笑している人間に目を向けた瞬間、私は立ち尽くした。

 その人間とは、相も変わらず道行く人間たちの視線を独り占めするような美貌の彼女だったからだ。

 私の帰宅に気が付くと、彼女は笑みを浮かべながら、久方ぶりに会う人間が口にするような言葉を吐いた。

 返答に窮する私に向かって、母親が事情を説明してくれた。

 いわく、彼女は夫の仕事の関係で、この近くに引き越してきたらしい。

 其処で、学生時代から変わることなくこの家で生活している私の顔を見るために、足を運んだということだった。

 話を聞いた後、ようやく私の口から出てきた言葉は、

「そうか」

 という一言だけだった。


***


 駅へと向かう途中で、彼女は突然公園の中へと入っていった。

 彼女が手招きをしているが、私の足取りは重かった。

 何故なら、彼女と交際していたときに、この公園で過ごしたことがあったからだ。

 何とか長椅子に腰を下ろした私の視線の先で、彼女は鞦韆をこいでいる。

 無邪気に笑うその姿は、普段の凛とした様子とは異なるために、彼女の魅力をさらに強くしている。

 かつて私は、彼女のそのような姿に心を奪われたのだ。

 懐かしさを感じていると、やがて彼女は再び手招きをしながら歩を進め始めた。

 やがて彼女が足を止めた場所は、公衆便所だった。

 用を足すのならば勝手にすれば良いのではないかと考えていると、彼女は私の手を掴み、そのまま公衆便所の中へと引っ張っていった。

 私が困惑していることを余所に、彼女は私の唇を、己のそれで塞いだ。

 突然の行為に対する驚きと、彼女の接吻による興奮とで、私の脳は機能を停止させた。

 目を白黒させる私に構うことなく、彼女は衣服を脱いでいく。

 この先にどのような行為が待っているのかなど、考えるまでもない。

 だが、夫が存在している彼女とそのような関係を持つべきではない。

 しかし、私は彼女を突き飛ばすこともできず、快楽に身を任せた。

 彼女の夫に対する裏切りは興奮を増幅させ、私はこれまで味わったことのない悦楽に溺れることとなった。


***


 行為を終えた後、彼女は紫煙をくゆらせながら、夫婦生活について語った。

 いわく、彼女の夫は礼儀正しく、実直な人間であり、妻である彼女はそのような人間と安定した日々を過ごしていた。

 育児も家事も彼女に押しつけることなく、誰がどのように見たとしても良い人間であることは確実であり、そのような人間に選ばれたことが、彼女は嬉しかったらしい。

 だが、唯一不満足なことが存在していた。

 それは、刺激である。

 夫とは時折身体を重ねていたが、いずれも教科書通りのような行為ばかりで、彼女は満足している演技をしなければならなかった。

 しかし、刺激を求めたばかりに家庭が崩壊するような行為に及ぶわけにもいかなかったために、彼女は他者に頼ることもできず、悶々とした毎日を過ごしていたらしい。

 そんな中、かつて恋人が住んでいる場所の近くに引き越すことになった。

 彼女は、かつて恋人だった私ならば、行為を材料に脅迫してくることもないだろうと考え、先ほどのように私を誘ったということだった。

 私は罪悪感に苛まれながら、笑みを浮かべている彼女に問うた。

「自分が望むような刺激的な行為を、夫に求めれば良いだけではないか。妻の新たな一面を見ることができたことで、興奮も増すのではないか」

 私の言葉に、彼女は首を左右に振った。

「常に笑顔で家族と仲良く過ごす人間が、夫にとっての私なのです。それ以外の姿が存在すると分かったとき、安定した生活が崩壊してしまうかもしれないのです」

「私との行為が露見してしまう心配は無いのか」

 その問いに対して、彼女は首肯を返した。

「夫は私が裏切るなどとは露ほども考えていないでしょう。これまで通りの生活をしていれば、疑うこともありません」

 彼女はそのように告げた後、連絡先が記載された紙片を私に渡すと、公園を後にした。

 連絡先を渡したということは、今後も今日のような行為に及ぶということなのだろうか。

 私はその場から動くことができなかったが、鼻息は荒くなっていた。


***


「今日は、どれほど滞在することができるのですか」

「妻には残業で遅くなるとだけ伝えている。ゆえに、日付が変わるまで、きみを愛することができるだろう」

「それは嬉しい話ですが、私の関係が露見していないかどうかが、心配です」

「心配することではない。妻は私のことを信頼しているのだ。私がこのような裏切り行為に熱中していることなど、想像もしていないだろう。この姿もまた、私の一面なのだが、知るべきことと知るべきではないことが存在しているのだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どちらが本当の自分か 三鹿ショート @mijikashort

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ