家に帰ってすぐ、私は着ていた服を上から下まで脱ぎ捨てた。

 それから身体をベッドに投げ出す。下着だけになって露出された肌に、シーツのひんやりとした温度が伝わってくる。

「ふう……」

 息をひとつ、吐く。指先に残っているのはピアッサーを押した時の感触。そして頬には、野々華の息づかい。まだ熱を持っている。

 つい一時間ほど前、私は野々華の家で最後の役目を果たしてきた。右耳に、ピアスホールを開けてきた。

 滞在時間はいつもより短かった。部屋がすでに片づいていたからだ。旦那がやってくれたのだと野々華は恥ずかしそうに言った。こんなところにまで、野々華と私の『いつも』は侵食されていたのだ。

 ベッドに体重を預けると、身体に残る感触が、息づかいが、だんだんと薄れていく。まるで冷たいシーツに熱を奪われていくみたいに。もう二度と感じ取るのことはできないのに。

「……罰、かな」

 ふと思い浮かんだ一文字を口にする。きっと神様に心の内を見透かされていたのだ。心の内、つまりは私の浅ましい欲望を。強欲を。

 そう強欲。七つの大罪がひとつ。

 当たり前の話だ。私が望んだこと、野々華との日々が続くことはつまり、野々華が振られる――不幸が続くということに他ならない。私の望みは野々華の不幸の上に成り立っている。そんなことを欲した私に、罪を抱く私に、神は罰を与えた。

 その結果、私との思い出は消えて、あるいは他者とのそれに置き換えられ、終いには野々華を二度と届かない存在へと変えた。

 部屋の片づけをすることはなくなり、料理の練習は私のためではなくなり、彼女の身体に触れることも、それを一番よく知る人間でなくなった。

 身体中をどんよりとした感情が埋め尽くしている。今まで飲んだどのコーヒーよりも黒く、黒く。

 だけどこんな時どうすればいいのか、私にはわかっていた。だって、それをいちばん近くで見てきたから。

「……上書き、すればいいんだよね」

 ゆっくりと起き上がった。それから、ついさっきローテーブルに置いたビニール袋を漁る。

 取り出したのはピアッサー。予備という名目で買い、結局使わずに持ち帰ってきた。

 私はそれを開封すると、迷わず左耳にあてがう。無機質なプラスチックの感触がほんの少しくすぐったい。

 自分の耳でやるのは初めてだったが、緊張、躊躇い、恐怖心、そんなものは全くなかった。慣れたものだった。当たり前だ、何度も使ってきたのだから。

「ふう」

 短く息を吐いて、念のため手鏡で位置を確認して。すっと目を閉じた。聞こえてくるのは、私の呼吸音だけ。そして、心の中でつぶやく。

 せーの。

 ――ばちん。

 私は穿つ。己の身体を。

 一瞬遅れて鋭い衝撃が走る。文字通り、針で刺したような痛み。耳から全身へと。胸の奥へと。じんわりと広がっていって、瞬く間に身体中がそれに包まれ、支配される。

「そっか」

 私は実感する。

「……こんな痛み、だったんだ」

 野々華が欲して、感じていた痛みは。私が何度も楔を打ち込もうとするがごとく、与えていた痛みは。

 たしかにこれはなかなかの痛みだ。これなら、今までのことを全部吹き飛ばしてくれるかもしれない。私の悲しみも、塗りつぶしてくれるかもしれない。よかった、よかった。

「上書き、されたかな」

 されるはずもない。

「これで忘れられるかな」

 忘れられるわけがない。

「痛いなあ」

 痛い。痛い。痛い。

 その場にうずくまる。私は念じ続けた。もっと痛く、もっと痛く。そうして私の全部を一色に染めてくれ、塗りつぶしてくれ、と。

「……好き」

 それでも消えなかった。

「好き……」

 溢れる。今になって。

「…………好き。好き、だよ……」

 蓋をしても溢れ出てくる。今まで絶対に言葉にすまいと誓ってきたのに。ピアスホールを、私の心に穴を開けたからだとでもいうのだろうか。その二文字は止まらない。決壊したダムのように。涙とともに。上書きした場所を突き破って、鋭い先端が幾度も私のやわらかい部分も刺してくる。

 ピアスホールを開けた痛みと、失恋の痛み。ふたつは混ざり合う。黒と黒が渦を巻く。

 痛くて、好きで。好きで、痛くて。

 こんなこと、想う資格はないのに。

 愛する相手に傷をつけることで幸せを感じていた歪んだ人間には、この結末が相応しいとわかっているのに。

「……野々華」

 私はしぼりだすように、その名前を呼んだ。

 それからしばらく経って、私はようやく丸まった身体を解いた。手鏡を手に取り自分に向ける。

 左耳には、真っ黒なファーストピアス。それは無骨で、あくまでピアスホールを安定させるためのもので。光を吸収するように、一切の輝きはない。

 私の頬にはまだいくつもの雫が流れていた。それらはピアスの代わりとばかりに、きらりと反射する。光の粒は増えて、減って、また増えて。

「すごいなあ……野々華は」

 涙と痛みようやくが引いてきた頃に、そんな思いが口をついて出た。思い出すのは、野々華の言葉。

 ――開けてもらったらね、振られて悲しい気持ちとかがすーっと消えていく気がするの。

「たったひとつ開けたくらいじゃあ……消えないよ」

 溢れ出る失恋の痛みが消える気配はまったくない。すーっとは、消えていかない。

 いったいあといくつ開ければ、野々華と同じような気持ちになれるだろうか。この想いは、塗りつぶされてくれるだろうか。

 そんなことを考えながら、私は何かに取り憑かれたようにドラッグストアへと向かう。

 だけど、たとえいくつ開けるとしても。私は決して左耳にしか開けないだろう。

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Left Ear, First Pierce 今福シノ @Shinoimafuku

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