4
家に帰ってすぐ、私は着ていた服を上から下まで脱ぎ捨てた。
それから身体をベッドに投げ出す。下着だけになって露出された肌に、シーツのひんやりとした温度が伝わってくる。
「ふう……」
息をひとつ、吐く。指先に残っているのはピアッサーを押した時の感触。そして頬には、野々華の息づかい。まだ熱を持っている。
つい一時間ほど前、私は野々華の家で最後の役目を果たしてきた。右耳に、ピアスホールを開けてきた。
滞在時間はいつもより短かった。部屋がすでに片づいていたからだ。旦那がやってくれたのだと野々華は恥ずかしそうに言った。こんなところにまで、野々華と私の『いつも』は侵食されていたのだ。
ベッドに体重を預けると、身体に残る感触が、息づかいが、だんだんと薄れていく。まるで冷たいシーツに熱を奪われていくみたいに。もう二度と感じ取るのことはできないのに。
「……罰、かな」
ふと思い浮かんだ一文字を口にする。きっと神様に心の内を見透かされていたのだ。心の内、つまりは私の浅ましい欲望を。強欲を。
そう強欲。七つの大罪がひとつ。
当たり前の話だ。私が望んだこと、野々華との日々が続くことはつまり、野々華が振られる――不幸が続くということに他ならない。私の望みは野々華の不幸の上に成り立っている。そんなことを欲した私に、罪を抱く私に、神は罰を与えた。
その結果、私との思い出は消えて、あるいは他者とのそれに置き換えられ、終いには野々華を二度と届かない存在へと変えた。
部屋の片づけをすることはなくなり、料理の練習は私のためではなくなり、彼女の身体に触れることも、それを一番よく知る人間でなくなった。
身体中をどんよりとした感情が埋め尽くしている。今まで飲んだどのコーヒーよりも黒く、黒く。
だけどこんな時どうすればいいのか、私にはわかっていた。だって、それをいちばん近くで見てきたから。
「……上書き、すればいいんだよね」
ゆっくりと起き上がった。それから、ついさっきローテーブルに置いたビニール袋を漁る。
取り出したのはピアッサー。予備という名目で買い、結局使わずに持ち帰ってきた。
私はそれを開封すると、迷わず左耳にあてがう。無機質なプラスチックの感触がほんの少しくすぐったい。
自分の耳でやるのは初めてだったが、緊張、躊躇い、恐怖心、そんなものは全くなかった。慣れたものだった。当たり前だ、何度も使ってきたのだから。
「ふう」
短く息を吐いて、念のため手鏡で位置を確認して。すっと目を閉じた。聞こえてくるのは、私の呼吸音だけ。そして、心の中でつぶやく。
せーの。
――ばちん。
私は穿つ。己の身体を。
一瞬遅れて鋭い衝撃が走る。文字通り、針で刺したような痛み。耳から全身へと。胸の奥へと。じんわりと広がっていって、瞬く間に身体中がそれに包まれ、支配される。
「そっか」
私は実感する。
「……こんな痛み、だったんだ」
野々華が欲して、感じていた痛みは。私が何度も楔を打ち込もうとするがごとく、与えていた痛みは。
たしかにこれはなかなかの痛みだ。これなら、今までのことを全部吹き飛ばしてくれるかもしれない。私の悲しみも、塗りつぶしてくれるかもしれない。よかった、よかった。
「上書き、されたかな」
されるはずもない。
「これで忘れられるかな」
忘れられるわけがない。
「痛いなあ」
痛い。痛い。痛い。
その場にうずくまる。私は念じ続けた。もっと痛く、もっと痛く。そうして私の全部を一色に染めてくれ、塗りつぶしてくれ、と。
「……好き」
それでも消えなかった。
「好き……」
溢れる。今になって。
「…………好き。好き、だよ……」
蓋をしても溢れ出てくる。今まで絶対に言葉にすまいと誓ってきたのに。ピアスホールを、私の心に穴を開けたからだとでもいうのだろうか。その二文字は止まらない。決壊したダムのように。涙とともに。上書きした場所を突き破って、鋭い先端が幾度も私のやわらかい部分も刺してくる。
ピアスホールを開けた痛みと、失恋の痛み。ふたつは混ざり合う。黒と黒が渦を巻く。
痛くて、好きで。好きで、痛くて。
こんなこと、想う資格はないのに。
愛する相手に傷をつけることで幸せを感じていた歪んだ人間には、この結末が相応しいとわかっているのに。
「……野々華」
私はしぼりだすように、その名前を呼んだ。
それからしばらく経って、私はようやく丸まった身体を解いた。手鏡を手に取り自分に向ける。
左耳には、真っ黒なファーストピアス。それは無骨で、あくまでピアスホールを安定させるためのもので。光を吸収するように、一切の輝きはない。
私の頬にはまだいくつもの雫が流れていた。それらはピアスの代わりとばかりに、きらりと反射する。光の粒は増えて、減って、また増えて。
「すごいなあ……野々華は」
涙と痛みようやくが引いてきた頃に、そんな思いが口をついて出た。思い出すのは、野々華の言葉。
――開けてもらったらね、振られて悲しい気持ちとかがすーっと消えていく気がするの。
「たったひとつ開けたくらいじゃあ……消えないよ」
溢れ出る失恋の痛みが消える気配はまったくない。すーっとは、消えていかない。
いったいあといくつ開ければ、野々華と同じような気持ちになれるだろうか。この想いは、塗りつぶされてくれるだろうか。
そんなことを考えながら、私は何かに取り憑かれたようにドラッグストアへと向かう。
だけど、たとえいくつ開けるとしても。私は決して左耳にしか開けないだろう。
Left Ear, First Pierce 今福シノ @Shinoimafuku
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