3
「ピアス、また開けてほしいんだ」
野々華のそんな頼みを再び聞いたのは、大学卒業を控えた三月のことだった。
隠れ家たる喫茶店は見つけた頃からずっと変わらず落ち着いた雰囲気のまま。変わったといえば、マスターの白髪が増えてきたことくらい。
お決まりになりつつあったその台詞は、実に三年と四ヶ月ぶり。
「そっか」
私は短く返す。それから、野々華が頼んでくる理由を確認する。本当は訊かなくてもいい。私はいつだって、それを悟っていたから。
「結婚式で……ピアスつけるんだね」
「うん……」
照れくさそうに答える野々華。以前も同じような表情を浮かべたけれど、その意味合いは丸っきり、百八十度違っていた。
そう、野々華は結婚する。
三つ目のピアスホールを開けてしばらくしてできた新しい彼氏。大学の一つ上の先輩。その人と結ばれるのだそうだ。次はどこを開けてと頼んでくるものかと思っていたのに、ついぞその機会は訪れなかった。
とんとん拍子に二人の仲は進展していった。何度か会ったことがあるが、とても朗らかで優しそうな人だった。今はすでに公務員として働いている真面目な男。
「あらためて、おめでとう。やっとね」
「えへへ、ありがとう」
二人とも早くから結婚は意識していたそうだが、さすがに学生結婚は、という親の意見もあり卒業を機に籍を入れ式を挙げることで落ち着いたのだとか。
私は運ばれてきたコーヒーを口につける。もちろんブラックのまま。変わらない苦味と酸味が脊髄に染み込んで、ぐずぐずと崩れそうになる身体の芯として保たせた。
「まさか野々華に先を越されちゃうなんてね。私、もう何個かピアス開けるものだと思ってよ」
「からかわないでよー。でも本当に、うん。私もびっくりしてる」
そう言って触れる右耳には、ピアスは一つもついていない。イヤーロブにも、トラガスにも、アッパーロブにも。それどころかピアスホールすらなくなっていた。
「彼氏、ピアスとかはあんまり好きじゃないんだったっけ?」
ピアスとはいえ自分の身体を傷つけるのはしてほしくないってお願いされたんだ、と付き合いたての頃に野々華が言っていたのを思い出す。あの時すでに彼女の耳からきらりと輝くピアスはすべて外されていた。ほどなくして、私が今まで開けたすべてのピアスホールはふさがった。
「うん。それでもやっぱり結婚式は一生に一度の晴れ舞台だからつけたいって言ったら、いいよって」
はにかみながら言う。
それから少し申し訳なさそうに目を伏せて、
「それで、その……できれば深月に開けてもらえたらなって」
またしても冒頭の台詞に戻る。今度は失恋が故ではなく、お祝いのためとして。私にお願いをしてきている。
「……どうしよっかなー」
私は少しだけいじわるをしたくなって、頬杖をついてわざと迷うような言葉を口にしたりしてみた。
「私だってずっとやってなかったからなあ。うまくできないかもしれないしなー」
「え……ええっ?」
「別に私じゃなくても彼氏、っていうか旦那に開けてもらってもいいんじゃない?」
「む、無理だよお、ぜったい断られるもん。傷つけるような行為はしたくないって」
「ふうん」
なんとお優しく紳士なことか。まさに理想の夫像とも呼ぶべき存在なのかもしれない。
眉を八の字にして困ったような表情になる野々華。それを見てわずかばかり胸のあたりが軽くなった私はふ、と笑みをつくると、
「冗談だってば。いいよ」
「ほ、ほんとう?」
「私は野々華のピアスを開けるプロなんでしょ? なら私以外に誰が開けるっていうのよ」
というか、今さら別の人に頼むなんてさせたくはない。だって、
「最後に開けるピアスになりそうだもんね」
ぽつり、とつぶやいた。すると野々華は花が咲いたように顔を明るくする。それこそ満開だった。
「やったあ! ありがとう~!」
「大げさね……」
「だって深月に嫌って言われたらどうしようかと思ってたんだもん。今さら違う人に開けてもらうとか、私だって考えられないもん」
聞こえてきた言葉に、私は頬が緩むのを感じ取る。わずかな甘さが胸を包む。
「お礼に式の時は野々華に一番いい席用意するから!」
「いいわよ、そういうのはちゃんと旦那と相談して決めなさい」
「はあい。でも最近は相談することがたくさんあって混乱しちゃうよ。新生活とか」
「住むところはもう見つけたんじゃないの?」
野々華はこの三月で家を引き払い、旦那と同居する部屋を新たに借りる。詳しくは聞いていないが、ここからそれなりに離れた場所らしい。
「そうなんだけど、家具をどうするとかいろいろ決めなきゃいけないよねって話してて。ちゃんとやっていけるか不安になるよお」
「不安、ねえ」
ならいっそ、今からでもやめてしまったらいいんじゃない?
思わずそんな言葉が出そうになったけれど、私はすんでのところで飲み込む。薄い笑みの膜を張って、それが漏れ出るのを防ぐ。
「野々華なら大丈夫よ。料理だってあんなにうまいんだし」
「そうかなあ」
「自信持ちなさい。あのオムライスで旦那の胃袋つかんだって喜んでたじゃない」
舌を歯で何度も挟んで、言う。薄い膜が透けていませんようにと祈るように。膜が破れてしまわないようにきゅっと抑えつけるように。
「あっ、もちろん今日も深月につくってあげるから!」
「うん……楽しみにしてるね」
気がつけば、胸を包んでいた甘さは煤けたようにこびりつくものに変わった錯覚を覚えた。そういえば、砂糖は熱するとすぐに焦げついてしまうと聞いたことがあった。
考えるな。余計なことは。私が今すべきなのは。
いいや。今はただ、
「それじゃあ、ドラッグストアと、それからスーパーにも寄らないとね」
最後の大仕事のために、私は席を立つ。それなら半分以上残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
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