喫茶店を出て、その足で野々華の家に向かった。三階建てのシンプルなアパート。私は実家から大学に通っていたけど、野々華は一人暮らしをしていた。

「相変わらず、散らかってるね」

 部屋に入って真っ先に出てきた感想をためらいもなく口にする。毎度のことなのでもはや「お邪魔します」と同じ挨拶みたいになっていた。

「しょ、しょうがないでしょ~。昨日はその、振られて何も手につかなかったんだから」

「わかったわかった。とりあえず先に片づけるよ。ピアスホール開けるんだから、きれいにしておかないと」

 聞き慣れた言い訳を流しつつ、私は部屋の掃除に取りかかる。とはいっても、床に置かれたままの物を棚にもどしたりといった簡単な整理整頓だ。しかし、なかなかの散らかり具合である。

 振られて家事をやるような心境じゃなかった、っていうのは半分くらいは建前なんだろうな。透けて見える真相、というか野々華の性格今さら言うことでもない。それよりも頭に浮かんでくるのは別のこと。

 野々華のこういうところを、付き合ってきた男たちは知ってるの?

 そっちの方が私にはよっぽど重要だった。だけど訊くことはできず、その問いだけが私の脳みそをぐるんぐるんと周回した。

 何はともあれ、今はピアスホールだ。

「それじゃあ、やろっか」

「う、うん」

 片づけを粗方終えた私が言うと、野々華は緊張した面持ちでクッションの上に座る。ベッドを背もたれ代わりにして。ピアスホールを開ける時の定位置だった。私もまた、定位置である彼女の右側に腰を下ろす。傍らのテーブルには、来る途中にドラッグストアで買ってきた道具一式。

 作業自体はどうってことはない。私は手を、野々華は耳を消毒して、それから専用の無菌ペンを使って開ける位置をマーキングする。

「んっ……」

 耳に触れるたび、微かな身体の震えと漏れ出るような吐息が私の体内へと入り込んできた。その感覚は波紋のように足先まで伝わる。伝わるほど、なぜだか痺れに変わっていく気がした。まるで毒が廻るようだった。

「く、くすぐったいよ」

「我慢して。マーキングずれるから」

「……っ。う、うん」

 声を震わせる。野々華は耳が敏感だった。触れ合える距離にいるからこそわかることだった。しかしそれもまた、私以外にも知っている人間がいるのかもしれない。

 ねえ、私以外にも知ってる人はいるの?

 またしても浮かび上がる思考を振り払い、鏡を向ける。

「このあたりでいい?」

「うん。ばっちりだよ」

「それじゃあ……いくね」

 テーブルの上に準備したピアッサーを手にとり、マーキングした箇所にあてがった。

「い、いつもみたいに『せーの』でやってね?」

「はいはい。動いちゃだめだから」

 また吐息が届く。なんだか甘い香りがした。きっとさっきのカフェオレになってしまったコーヒーかもしれない。それとも、野々華の匂いだろうか。いけない、集中するんだ。弛緩しそうになる身体に糸をぴんと張った。

 狙いをはずさないよう、じっと見つめる。

 今この時が、私たちふたりが最も近づく時間だった。互いの呼吸が混ざり合うほどの距離。ともすれば身体さえも溶け合ってしまいそうなほどに。

「せーのっ」

 だけどそれは、一瞬にして終わる。ばちん、とホッチキスのような音が鳴るのを合図に。魔法が切れてしまう十二時の鐘のように。

 私は、彼女の身体を穿った。

「……はい、終わったよ」

 言って、手をどける。さっきまでピアッサーがいた場所には小さな黒く光る丸だけが残った。

 ファーストピアス。ピアスホールを安定させるためのもの。開けて初めてつけるピアスが、そこにはあった。

「っ痛ぁ~~」

 適切な距離に戻った野々華の顔には涙が浮かんでいた。まるでそこにもピアスがあるみたいに、涙の粒がきらりと光る。

 きっと今、野々華の身体は上書きされている。失恋の痛みから、ピアスホールを開けた痛みへと。過去の男から、他の誰でもない私が塗りつぶしたのだ。私の指にはたしかな感触が残っていた。

「ごめんね。痛くならないよう、もっと上手くできればいいんだけど」

「いやいや! 深月は上手だよ! 初めての時よりかはずーっと痛くないし。プロだよ、専属だよ!」

「プロって……それ、私が上手くなったんじゃなくて野々華が慣れてきただけでしょ」

 道具一式を片づけながら返すと「そうなのかな。でもその慣れはなんだかイヤだなあ」なんて言って首を傾げている。私だって回数を重ねたくはないし、上手くなりたくなんかもない。

「ようし! じゃあ私、ごはん作るね!」

 と、気を取り直すがごとく野々華が声を上げた。目もとにたまっていた涙はもうすっかりなくなっている。

「ちょっと待っててねー」

 そんな言葉を残して、廊下と一体になっているキッチンに消えていく。私の役目は終わったので、さっきまで野々華が座っていた場所に腰を下ろし、ベッドに背を預ける。

 そういえば初めてピアスホールを開けた日も、二回目の時も、ごはんを作ってくれたっけ。これはこれで恒例行事になりつつあるな。

 手料理を振る舞ってくれるというのは素直に嬉しい。その感情に偽りはない。問題があるとすれば、野々華の料理スキルの方だった。

 さて、今回はどんな料理が出てくるか……。

 どっちの時もオムライスが出てきたのだが、初回は卵の殻入り、その次は炒飯状態だった。食べられる味ではあったけど。

「お待たせー!」

 ほどなくして野々華はお皿を両手に戻ってきた。流れるようにテーブルに置く。

「ピアス開けてもらった日っていえば、やっぱりこれだよねー」

 言葉のとおり、今日のメニューもまたオムライスだった。そしてお皿に乗ったそれを見て、私の目はまん丸に開かれた。

 理由は簡単、とてもおいしそうだったから。

 ふわりとした卵に包まれていて、その上からはなんとデミグラスソースがかかっている。あれ、私はいつの間に洋食店に来ていたんだろう。

「どうしたの?」

「いや……こんなにクオリティ高いのが出てくるのは正直予想してなくて」

 あまりにびっくりしたので思ったことがそのまま口をついて出る。

「失礼だなー、私だって日々進化してるんだからねー」

 それもそうか。一人暮らしをしてるんだから、自炊をすればもちろん上達する。だけど、ここまで腕を上げるなんて……

 とそこで、ひとつの可能性が脳裏をよぎった。よくない方の可能性だった。

「もしかして……前の彼氏に作ってほしいって言われたから?」

 今度こそは、訊かずにはいられなかった。というか、気がついた時には質問を口にしていた。

「元彼?」

 反応を待つまでの間が永遠のように引き延ばされた感覚でいると、野々華は目を丸くしていた。それから吹き出すように笑う。

「あはは、まっさかあ」

「え、違うの?」

「違うよー。前の彼氏とは外でごはん食べに行ってばっかりだったし。私の料理食べたことなんてたぶんなかったんじゃないかな」

「じゃあ……」

 じゃあ一体、何が理由で料理が上手くなって、作れなかったメニューを作れるようになったの? 

「そりゃあ、深月においしく食べてもらいたいからだよ」

 そう問いを重ねるよりも早く、答えが返ってきた。

「……私?」

「うん。だからここ最近練習してたの。深月にはいつも頼ってばっかりなのにお返しの料理がひどいままじゃあいられないよ」

「…………」

「って、あれれ? もしかしてダメだった?」

「そ、そんなことない。すごく……すごくうれしいよ。ありがとう」

 私は思わず目を伏せた。正直、うれしい以外の感情が出てこなかった。それほどまでに、私の思考は野々華で塗りつぶされていた。

「それじゃあ、冷めちゃう前に食べよー」

「うん」

 ふたりで手を合わせてから、オムライスを口に運ぶ。ふんわりの卵が口の中で溶けた。

 こういうのも悪くない。いや、これでいい。噛みしめながら私は思う。部屋を片づけて、ピアスホールを開けてあげて、部屋で一緒にごはんを食べる。私とふたりきりで、私だけが知る野々華がいて。

 時々こうしていられれば。野々華に触れて、おいしいって気持ちを共有できれば。

 それだけで十分だ。

 それだけで、私の心は躍った。

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