毛布のいらない夜

黒本聖南

◆◆◆

 そこは、吹けば飛ぶようなボロ小屋だ。


 似たようなボロ小屋はそこかしこに何軒もあった。雨を凌げる屋根があり、視線を遮る壁があり、侵入を阻む戸があるのだからそれでいいだろうと言わんばかりの、粗末な建物達。

 王都の外れ、死臭と絶望漂うスラム街。その内の一軒で──彼と彼は、今夜も互いの熱を伝え合っていた。

 一人ならゆとりがあるが、二人が横になるには狭い簡素なベッド。その上に腰掛けるは、短い黒髪の青年と、長い赤髪の少年。

 黒髪の青年は赤髪の少年を優しく抱き締め、少年の長くウェーブの掛かった赤い髪を静かに撫でていく。

 赤髪の少年は黒髪の青年の首筋に顔を埋めて喉を鳴らし、鮮やかな赤色の瞳から、絶え間なく何かを溢していた。


「……ポーラー」


 熱を帯びた声で、黒髪の青年がそう赤髪の少年に呼び掛ける。ポーラーと呼ばれた赤髪の少年は顔を上げ、黒髪の青年と目を合わせた。


「何だよ、アーネスト」


 ポーラーが名前を呼ぶと、黒髪の青年ことアーネストは微笑み、服の袖でポーラーの口元を拭った。


「おい、袖が汚れるだろう」

「気にしなくていい。そんなことよりも、君はどうして──私の血を飲みながら、涙を流すんだい?」

「……っ」


 どこか幼さの残るポーラーの顔、その口元にはいくらか、真っ赤な血液が付着している。

 アーネストの血だ。

 ポーラーがアーネストの首筋に顔を埋めていた時、ポーラーはその青白い肌に牙を突き立て、血を啜っていたのだ。

 ポーラーこと、ポーラーナイト・スタフォード。彼は吸血鬼であった。


「私の血は、涙が出るほどマズイのかい?」

「違う!」


 ポーラーは食い気味にアーネストの言葉を否定する。その赤い瞳からは、今も何かが溢れ落ちていった。

 人間であれば、透明な滴が溢れるものだが、ポーラーは吸血鬼、それも特別な吸血鬼。彼の瞳から溢れるのは、涙の形をした、赤い結晶であった。


「アーネストの血はすごく旨いよ。ずっと飲んでいたいくらいに旨い。旨いん、だけどさ」

「うん」

「……アーネストが僕に血をくれるのは、結局は僕の涙が必要だからだろう?」

「ん?」

「僕は吸血鬼で、アーネストは魔法使いだし、だから仕方ないんだけど、この行為がそれだけのものなのかって思うとさ……勝手に出るんだよ、ごめん」

「……ポーラー」


 アーネストは笑みを消し、ゆっくりと人差し指で、ポーラーの瞳から溢れる涙を一粒すくい取り、自身の口の中へと運ぶ。するとアーネストの紫色の瞳が、淡い赤色へと染まっていった。


「私は確かに、魔法使いだ。君のおかげで魔法が使える、ただの人間だ」


 吸血鬼の涙には魔力が込められており、それを人間が口に含むと、魔法を行使することができる。

 アーネストの変化した瞳を見て、顔を曇らせるポーラーの前に、アーネストは袖を掲げた。

 血で汚れた袖。しばらくすると、汚れが徐々に薄くなり、そして跡形もなく消える。血で汚れていたことなど幻だったかのように、袖は綺麗になった。

 その綺麗になった袖で、再びアーネストはポーラーのまだ汚れている口元を拭う。


「おいっ」

「いいから、いいから」

「……そんなことしなくても、魔法を使えばいいじゃんか。せっかく袖、綺麗になったのに」

「汚い袖で君の口に触れたくなかったんだよ。素手だと上手いこと汚れが取れないから、袖でないと」

「だから魔法で」

「君に触る理由を奪わないでくれよ」

「……っ」


 目を丸くするポーラーを放って、アーネストは彼の口を袖で拭っていき、ある程度汚れが取れると微笑んで、また魔法で、袖の汚れを落とした。

 そして、アーネストはポーラーに顔を近付けると、互いの額をくっつけて、静かに瞼を閉じる。


「あったかい?」

「……ぬるい。アーネストって体温低いよな」

「ポーラーは熱いくらいだね。子供体温」

「とっくに成人してる」

「私よりも背が低いくせに」

「……これ以上は伸びないんだよ」

「抱き締めやすいからこのままでいて」

「……」


 ポーラーが黙ると、アーネストは自身の手をポーラーの手に重ね、指を絡めた。


「ポーラー、君の涙は確かに、喉から手が出るほど欲しいものだよ。私は魔法使い、それは否定しない」

「……ああ」

「でもね、それだけの為に血をあげるわけじゃない。君だからだよ。君にだけ味わって飲んでほしいと思うから、君に首を晒すんだ」

「……」

「君が好きだから、君に血を吸われるのが堪らなく気持ちいいから、君の牙を受け入れている。君以外の吸血鬼には触られたくないよ。涙をあげると言われたって、血の一滴もくれてやるもんか」

「──アーネストは僕のものだ!」


 焦ったように声を荒げ、額を離したポーラー。アーネストはすかさず手を伸ばし、ポーラーの後頭部に優しく触れて引き寄せる。

 触れ合う箇所は額ではなかった。目よりも下、鼻よりも下、顎の真上。柔らかな感触に、ポーラーの身体から力が抜けていく。

 彼らが座る場所は、ベッドだ。

 とん、とアーネストが押せば、ポーラーの身体がベッドへと倒れていく。潤んだ赤い瞳からは、尚も結晶が溢れ落ちていた。


「そう、私は君のものだ。そして──お前は、俺だけのものだ」


 アーネストの雰囲気が変わる。未だ赤く染まったままの瞳に、劣情の色が混じっていく。その視線にごくりと、ポーラーは唾を飲み込んだ。


「俺以外の血を飲もうなんて考えるなよ。そんなことをしたら、二度とお前に血はやらない。……分かったかい、ポーラー」


 ポーラーは頷く。声が出ないほどにアーネストに見惚れて、頷く以外のことができなくなっていた。

 満足そうにアーネストは頷くと、ポーラーの身体に覆い被さる。


 夜はまだ、始まったばかりだ。

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