先生が化け物になった

神夜ミカ

先生が化け物になった

 先生が教室の扉をガラガラと開けながら入ってきて、生徒みんなあっと気づいたような顔をして自分の席に戻っていく。


 それが中学2年1組の日常だった。


 今日もいつも通り、先生が教室の扉を開けるガラガラとした音で友達とのお喋りをやめて、後ろの方にある自分の席に戻る。


 そしていつも通り、先生が教壇に立ち、早く座りなさいと声をかける。


 その、はずだった。


「譌ゥ縺丞コァ繧翫↑縺輔」


 まるで聞き取れない文字列。

 私はただ、不思議に思って先生のいる教壇のほうを見た。


 そこで理解した。


 普段はうるさい男子たちが静かになっている理由を。

 クラスのマドンナが悲鳴をあげている理由を。


 先生が――化け物になっているという、現実を。


 

 ソレは殺気を放っていた。

 

 ソレはおぞましかった。

 

 ソレは生ゴミの匂いがした。

 

 ソレはハエが羽ばたく音を響かせていた。

 

 ソレは“一度に”私たち全員と目を合わせた。


 ソレはナメクジが這うような声で、言った。


「螟ァ荳亥、ォ縺ァ縺吶°??」


 ――『大丈夫ですか?』


 ――否。

 ソレは先生だった。先生だと分かってしまった。


 フードの中の漆黒の顔に、無数のヒトの目が生えていても。


 全身を覆う黒いコートの背中を、鎌のような羽が突き破って羽ばたいていたとしても。


 それでもソレは先生だった。私には分かった。だって、ソレが言った声はまるで『大丈夫ですか』と心配しているようだったから。


 違う。「ようだ」なんて、あいまいじゃない。


 確実に、『大丈夫ですか』と心配していた。


 だから私は一歩遅れた。


「逃げろォ!」


 誰が言ったかも分からないけれど、それはみんなの総意で、言われるまでもない言葉だった。


 ドタバタと、尋常じゃない足音と地鳴りを感じる。


 それは蝿が耳元で羽ばたく音を一時的に打ち消して、嫌悪感から一瞬だけ私たちを解放する。


 教室の扉は乱暴に開けられ、廊下側の席の人達からバタバタバタバタ外へ出ていく。


 狭い出入口はおしくらまんじゅう状態で、みんな目を血走らせて我先にと押しかけていた。


 ふだんある「普通であれ」という同調圧力は、異常な状況のせいでぶっ壊れていた。


 私はそんな様子を、馬鹿みたいに突っ立って見ていた。


 馬鹿だ。

 化け物から逃げないなんて、どうかしている。


 ほら見ろ、化け物が私に近づいてきている。


 かき消されていた蝿の羽音が、再び姿を表して、どんどん大きくなっていく。耳障りだ。


 それでも私は動かなかった。いや、動けなかった。


 ――化け物に見つめられて、膝が震えていたから。


 そんな、逃げ遅れた人間に化け物は容赦しない。


 化け物はもう、私の目の前に来ていた。


 そして、その漆黒の顔から、刃物傷のような口を笑ったように歪ませていた。


「は……」


 ため息か、乾いた笑いか。


 どちらともつかないそれが私の口からこぼれでて、私は膝をつく。


 体に力が入らなかった。


 一瞬先生の気配がしたソレは、今となってはもう化け物としてしか見れなかった。

 

 化け物はその顔についている無数のヒトの目の全てをへたり込む私に向ける。


 刃物傷のような口が再び笑ったように歪んで、大きく開く。


 その口からは鼻をつまみたくなる悪臭がした。


 それでも鼻をつまむことは、私の手が動くことは無かった。


 ただ淡い雫が頬を伝っていた。


「――そこまでだ」


 強い、強い声だった。


 その澄んだ青年の声は、ドタバタと動くクラスメイトの足音も、耳障りな羽音も、向けられた殺意も忘れさせた。


 世界の全ては彼の声だった。


 思考の全てはそれに奪われていた。


「縺舌∴」

 ――『痛い』


 呻き声で、私は我に返った。


 目の前には机の角に体をぶつけて悶えている化け物がいた。


「立てる? 佐倉さん」


 そうして私に手を差し伸べてくる青年は、長尾叶だ。

 

 中学二年生にして生徒会長になった超人。私と接点なんて無いはずの、雲の上の人。


 ぐい、と思いの外強い力で長尾くんに引かれて、 私は立ち上がる。


 直後、長尾くんが眉を寄せる。

 

 ナメクジの音――化け物が動き出した音がした。


「逃げるぞ!」


 長尾くんはそう言って開かれっぱなしの教室の扉を指す。


「う、うん」


 泣いていたところを見られた気恥しさとか、すんでのところで救われたドキドキとかが合わさって、きっと顔は赤くなってるけど、そんなことを気にする余裕は無かった。


 私は長尾くんに引っ張られる形で、教室からダッシュで逃げた。


 しばらくの間、長尾くんと手を繋ぎながら。


「――蠕?▲縺ヲ縲∬ゥア繧定◇縺?※」

 ――『待って、話を聞いて』


 そんな声に、聞こえていないふりをして。


 ▼▼▼


 ――生徒会室。


 一生足を踏み入れることがないと思っていた場所に、私と、生徒会員たちは集まっていた。


 意外と普通の部室のような雰囲気で、違うのは上座のようにポツンと置かれている生徒会長の机と椅子くらいか。


 紙を折って作られたであろう三角形に「生徒会長」と仰々しく書いてある。名札代わりだろう。


 同じように、手前にある大きな長テーブルの奥の方には「副会長」や「書記」の三角が置いてある。


 椅子は六個、生徒は六人。

 生徒会長である長尾くんを加えれば、合計で七名がここに集っていた。


「どうしてこんなことに……」


 書記と書かれた名札の椅子に座る女子が、悲観的に嘆く。


 そう思っているのは彼女だけじゃない。この長テーブルに座る男女全員が同じような顔をしていて、空気感は最悪だった。


 あの化け物に対して、私たち人間がどれほど対抗出来るのか。


 今回は逃げ切れたからいいものの、次出会ったらどうなるか分からない。今度こそ、食われるかもしれない。


 解決策が見えない暗闇の中、私たちは同じ絶望感を共有していた。


 ――否。ただ一人だけ、希望に目を輝かせる者がいた。


「みんな、聞いてくれ」


 強い声だった。

 それは私をすんでのところで救った男の声だった。


 そして、たった一言で場を支配出来るカリスマの声だった。


「俺は、この怪異を知っている」


 カイイ、という言葉が漢字の「怪異」に結びつくまで、少し時間が必要だった。


 そんな言葉をサラッと口に出来るということは、彼の知識に期待していいということだ。


「怪異の名前は『化化人カカビト』。平たく言えば、化け猫の人間バージョンだ。人が化け物に化ける」


 人が化け物に化ける。

 それを聞いて私の記憶がうずいた。


 化け物なのか先生なのか、判断がつかなかったアイツが発した言葉からは、いつもの優しい先生の意思が感じられた。


「化け猫と違うところは、それが本人の意思じゃなく、強制的に化けさせられることだ」


 本人の意思じゃない。


 記憶が蘇ってくる。アイツは、私たちが化け物の登場にビビっていた時、『大丈夫ですか』と聞いた。


 そう聞いたんだ。


 つまり、アイツは――


「――あの化け物たちは、元は先生方だろう。しかも無自覚だ」


 絶句した。


 そんな酷いことがあっていいものか。

 

 明るい空気になりかけていた生徒会室が、再び重苦しい雰囲気に包まれた。


 ところが、そんな空気を苛烈な声がぶち破る。


「それで、長尾会長? 解決策があるんでしょう? もったいぶらないでください」


 そう声を高くするのは副会長――長尾榛名ながおはるなさんだ。私とは別クラスの一組で、私のクラスと同じように先生が化け物になったからここに合流してきた人。


 そして、長尾くんとは苗字被りから稀に名前を間違えられることがあり、それで長尾くんに対抗意識を燃やしている人。


 校長先生の娘らしく、苛烈で見栄っ張りな性格である――と、ここまでは友人から聞いた話だったが、それは嘘では無さそうだ。


「――」


 さっきまで絶望していたとは思えないほど、その瞳に強い希望と正義感、そして期待をたぎらせている。


 その、熱量の高い視線に当てられた長尾叶くんは――、


「もちろんだ。さっき、強制的に化けさせられると言っただろう? 逆に言えば、人を化け物に変えてる・・・・・・・・・・奴がいる・・・・ってことだ」


「なるほど。つまり、大元を叩けば全部解決、ということですか」


「そうだ」


 なるほど確かに。先生たちを化け物にしている黒幕を倒せば、先生たちも人間に戻る。


 ありそうな話だ。それに、長尾くんは私を化け物から救ってくれた人だ。疑う理由もない。


 私が頭を整理していると、長尾くんは、話は終わったと言わんばかりに席から立ち上がり、生徒会室の扉に足を向ける。


 強気な笑顔の榛名さんもそれに便乗して席から立ち上がる。それに続いて、希望を取り戻した生徒会員が続々と席から立ち上がる。


 最後に私が立ち上がって、生徒会一行と部外者の私は生徒会室を後にする――はずだった。

 

「ああいや、ごめん。ついてくるのは佐倉さんだけでいい。他のみんなは……とにかく、化化人カカビトに見つからないように隠れていてくれ」


「わ、わたしですか?」


 びっくりして思わず声を上ずらせてしまう。恥ずい。


「ああ。佐倉さんが適任だ」

「何故ですか? 少数精鋭、ということなら理解できますが、それでも……佐倉さんに特別な能力があるとは思えません」


 真面目に言った長尾くんに、榛名さんが噛み付く。

 

 でも、私は『特別な能力』に心当たりがあった。

 

 胸を高鳴らせながら、長尾くんに視線を送る。彼なら私よりうまく説明できるはずだ。


 長尾くんは私にウインクして口を開く。


「その『特別な能力』があるんだよ、佐倉さんには。彼女は――化化人カカビトたちの言葉が分かる。そのアドバンテージが大きいってことは分かるだろ、榛名?」


 あのウインクのせいで、正直話の内容どころじゃなく、心臓がどくどく鳴っていたし、最後の名前呼びにも胸が疼く。

 いやそんなことを考えている場合じゃない。


 そう、私が長尾くんに手を引かれて逃げている時に、私があの化け物が言っている意味が分かったという内容の話を伝えると、長尾くんはすごく驚いたんだ。


 そして、今の話を聞いた榛名さんも驚きに目を見開いている。


 私だけの能力らしい、ということは飲み込める。


「……仕方ないですね。健闘を祈ります」


 お世辞っぽい榛名さんの言葉を聞き届けてから、私と長尾くんは今度こそ生徒会室を出た。


 ▼▼▼


 ――校長室前。


 理由は教えてくれなかったけど、長尾くんは黒幕が校長先生だと確信しているようだった。


 化化人から私を守ってくれた長尾くんを疑う理由もないし、確かに校長先生なら教師と接触しやすいだろうなと思ったから、私も追及せずについてきた。


 道中、化化人に遭遇することはなく(危ない場面はあったけど、私の能力で切り抜けた)無事にここまでたどり着けた。


 だから――


「――あとは扉を開けて、そこにいるであろう長尾啓介校長を殴り飛ばすだけだ」


 私は頷く。


 張り裂けんばかりの胸の鼓動を感じながら、スライド式のドアに手をかける。そして、右腕を左に動かし、扉を開ける。


 直後、長尾くんがダッシュで校長室の中に入っていく。私が中を見る暇もない。


 すぐにおっさんの情けない悲鳴が聞こえて、中を見ると、長尾くんが校長を取り押さえていた。


 まるで刑事ドラマだ、と場違いな感想を抱いた後、私はどっと疲れを感じてよろよろと壁にもたれかかった。


「すごいね、長尾くん……そんなことも出来るんだ」

 

「……まあね」


 妙に無感情な顔と声でそう言ってから、長尾くんは「それより」と付け加える。


「俺のことは名前で呼んでよ。ほら、この学校、というか香川って長尾が多いでしょ? それに、このクソ校長と同じ呼び方されるのもイヤだからさ。お願い、佐倉さん――いや、こころ」


 最後に自分の名前を呼ばれた驚きを処理するのに少し時間がかかった。

 

「わかったよ。――叶くん」


 距離が縮まった、と私は内心でガッツポーズした。


「ところで……こころ、警察呼んでくれる?」


 私は浮ついた気分でポケットから携帯を取り出し、110番した。


 ▼▼▼


 ――長尾家にて。


大儀たいぎであった。此度こたびの化化人実験が成功したのはお前の功績あってのものだ。それは我がカカ教団の歴史に刻まれるであろう」

「いえいえ、滅相めっそうもございません、お父様。俺はただ、やるべき事をやったまでですよ――異分子が確保出来たのは、ほんの偶然ですから」

「否。お前でなければ、あの状況でも彼女の確保は難しかったであろう。事実、彼奴等きゃつらは散々失敗して『処分』された。今残っているのはお前だけで、お前は最も優秀な息子だ。違うか?」

「過分なお言葉ですよ、お父様」

「スケープゴートとして榛名を選んだのもお前だ。つくづく、お前を産ませて正解だったと思うのだよ――叶」


 長尾叶の目の前には、苛烈で見栄っ張りだという偽り・・の評判が広まっている四十代後半の男がいた。


 そしてその傍には警察姿の女が、愛おしそうに長尾父子を眺めている。


 長尾叶は、そんな見慣れた光景に気分を害しながら、父に跪いていた。


「全ては――長尾啓介様の掌の上ですから」


 僅かに嫌悪を滲ませてそう言って、叶は現実から目を逸らすように、目線を横にやる。


 そこにいるのは薬で眠らされた『異分子』――佐倉こころ。


 それを見た長尾叶は、実験が始まって以来初めて笑った。

 孤独な旅に仲間が加わって、嬉しかったから。

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